【21】届かなかった手紙(夫視点)
これは、誰にも届かなかった過去。
決して知られることのない、とある一夜の物語。
***
初夜を終えた晩、レオンは眠りに落ちたばかりのジェシカをじっと見つめていた。
シーツをまとわりつかせて眠る彼女は、女神のように美しい――。カーテンの隙間から差し込む月光に淡く濡れ、白い肩を微かに上下させている。
胸の奥から再び熱が込み上げる。彼女の頬に触れようとして、しかし寸前でとどまった。ひどく疲れているようだし、起こしてしまってはかわいそうだ。
(――すまない)
髪と同じ長い銀色の睫毛を伏せ、レオンはひどく後悔していた。気遣っていたつもりだが、つい激しく求めすぎてしまったかもしれない。常に戦場に身を置いてきた自分と、この令嬢とは頑丈さがまるで違うというのに。欲に溺れた己の未熟さが情けない。
『愛している』の一言も告げられずに、何が騎士だ――?
もっと優しくすべきだった。
肌を重ねるより先に、きちんと言葉を重ねるべきだった。
(……だが、それはもう叶わない)
夜が明ければ、邪竜討伐に向かわなければならないのだから。
魔の森から我が国に突如押し寄せた邪竜の大群――数百年に一度と言われる災厄が、まさか結婚式の直前に訪れるとは。
挙式は何とか予定通りに行えたが、最前線で戦う仲間のもとに一刻も早く向かわなければならない。自分たちが討ち損じれば、やがて国全体に被害が及ぶ。……愛しいこの女性も、きっと無事ではいられない。
(ジェシカ……。やっと想いを告げられると思っていたのに)
告白どころか、まだ最低限の会話すらできていないのに。
子どもの頃から、レオンはひどく寡黙だった。
自分の想いを口にするのが苦手だ。
業務伝達などはまったく問題ないが、気持ちを伝えようとすると途端に言葉が出なくなる。
親友であり従兄のカシウスに言わせると『あのババァのトラウマだろ?』とのことだが。
割と器用なほうなので、感情表現が未熟でも何とかなった。寡黙な上に無表情なので冷徹人間に見えるらしく、『氷の侯爵』などと呼ばれているがどうでもいい。
だが、夫婦関係となると深刻かもしれない。
今すぐジェシカの声を聞きたい。……しかし時は残酷だ。窓の外に、ほのかに夜明けの気配が射し始めた。
(……ならばせめて、手紙を残そう)
レオンはそっと寝台を離れ、文机の前に腰を下ろした。ペンを取り、静かに手紙をしたためる。
―――
親愛なる妻、ジェシカ
美しい貴女をこうして見つめている今も、私の心はひどく震えている。夫となってすぐに戦地に赴くとは、なんと罪深いのだろう。嫁いだばかりの貴女を残し、孤独に耐えさせることになるかもしれないと思うと胸が張り裂けそうだ。
……少し、昔の話をしよう。
貴女は覚えていないようだが、遠い昔に一度だけ私は貴女と会っている。
何もかも投げ出したくなって、12歳のとき私は家を飛び出した。あてどなく彷徨い、そのまま命が終わるならそれで構わないと思っていた――そんな折、救ってくれたのが貴女だ。あのときから、貴女に想いを寄せていた。
貴女の言葉がずっと私を照らしてきたし、貴女に恥じない生き方をしたいと思った。あれから幾度も戦場を駆けたが、気弱なときはいつも貴女を思い出した。
私は情けないほど不器用で、戦に身を置くことしか知らない男だ。だからあなたに想いを伝える術もないまま、こうして夫婦になってしまった。
このノイエ=レーベン侯爵家は少々複雑で、母は非常に扱いづらい。これまでは私の手元に母を置くのが最も無難だと考えていたが、貴女を困らせるのではないかと思うと心配だ。……使用人たちには、貴女によく尽くすよう命じてあるが。
罪滅ぼしにもならないが、あなたにひとつ贈り物をさせてくれ。
ネックレスだ。
太古の魔導具だそうで、かつて国外遠征の折に手に入れた。持ち主に命の危機が迫ったときに、時間を巻き戻す効果があるそうだが……なにぶん太古の代物なので、本当に発動するかは分からない。
だが、せめて貴女の平穏を祈って、想いとともにこれを贈ろう。――どうか、貴女を守りますように。
もし、貴女が困っているときは、カシウス・ダリアンという男を頼ってくれ。彼は私の従兄で、王都で金融商会を営んでいる。非常に口が悪くて皮肉屋だが、本当は情に厚くて頼れる男だ。あれこれ文句は言うだろうが、きっと貴女を助けてくれる。
……ジェシカ。
私は必ず戻る。どれほど戦局が厳しくても、必ず生きて帰ってみせる。貴女のもとに帰ったら、今度こそいろいろな話をしよう。
――愛を込めて。レオンより。
―――
そこまで書くと、レオンは静かに筆を置いた。
(口下手でも、文字だと案外いろいろと伝えられるものだな……)
今さらながら大発見だ。
もっと早く知っていたら、毎日恋文を書いていたのに……気づくのが遅すぎた。
書き連ねた言葉はひどく武骨で不器用で、なんだか自分らしかった。愛しい女性に宛てるのだから、もっと甘やかな愛の言葉を連ねるべきだった気もするが……。
すべて嘘偽りのない、心からの言葉ばかりだ。
レオンは手紙を封筒に入れ、封蝋を落とすと文机の奥にしまい込んだ。出征後、ジェシカが読んでくれると信じて。
……なのに、運命は残酷だ。
レオンの手紙はナタリーに回収され、バーバラの手で燃やされてしまった。
ジェシカが手紙を読む未来は、もう永遠に訪れない。
これは、誰にも届かなかった過去。
決して知られることのない、とある一夜の物語。





