【17】ぼくのママは、ママだけだから
私は、想像もしなかった。
屋敷を出ている間に、まさかアレクが誘拐されるなんて――。
***
その日の昼下がり、私は王都のダリアン商会にいた。カシウス・ダリアンと顔を合わせるのは久しぶりだ。
「ありがとうございました、ダリアンさん。おかげで、何とか義母に勝てそうです」
「……いや。俺の手柄じゃない。俺がしたのは、せいぜい情報の裏取りくらいさ」
応接室のソファに座り、カシウスは肩をすくめていた。
「そこから先は、全部マダム・ジェシカの頑張りだ。……まさか、自力で全部片づけるとはね。この短い期間に、よくやり遂げたな」
この2か月弱の間、私はあちこちに出歩いて義母に対抗する準備をしてきた。モニカたち使用人に『男との密会』という誤報を流してもらい、義母の気を引いていたのはそのためだ。
今日はダリアン商会が融資してくれたお金で、とある大きな支払いを済ませてきたところだ。胸がすっと軽くなるのを感じた。
ティーカップに口を付けながら、カシウスが笑う。
「あんたには根性があるよ。……あのレオンが見初めただけのことはある」
――見初めた?
別に見初められたわけじゃない。家格が低くて良いように扱えるから指名されただけのはずだ。
でもカシウスとは言葉尻を取るほど親しい関係でもないので、口をつぐんだ。
カシウスは、なつかしそうに目を細めている。
「昔。あの口下手野郎が嫁を取ることになったと聞いて、随分心配したもんだ。『ちゃんと口説けるのか、お前!?』……ってな」
どうやらカシウスは、レオン様とかなり親しかったようだ。平民と侯爵の身分差だけれど、いとこ同士。どんな関わりがあったのか、私は知らない。
「良い男だったろ、あいつ」
「……ええ」
レオン様を知る人は、必ず彼をほめたたえる。カシウスもナタリーも、因縁があったはずのアニエス夫人でさえ。きっと、本当に素晴らしい人だったのだろう。
――もっと一緒に過ごせる時間があったら、私もレオン様を理解できたのかしら。
氷のように冷たく見えたあの夫の内面を、少しでもいいから覗いてみたかった――そんなふうに、ふと思った。
*
日が落ちる前に侯爵邸に戻ると、耳を疑う知らせが待っていた。
「アレクが……誘拐された!?」
母親に放置されたアレクを不憫に思った義母が、ピクニックに連れて行ってくれたらしい。そして、不幸にもならず者に攫われてしまった……。
同伴していた騎士の追撃で、なんとか救出できたそうだ。今は医務室で手当てを受けているという……。
私は、医務室に駆け込んだ。
「アレク!! お義母様!!」
ベッドには手や頭に包帯を巻かれた義母と、アレクが並んで横たわっていた。
「――ママ!」
泣き出しそうな顔でベッドから飛び起きようとしたアレクを、義母が「お待ちなさい」と冷たく遮る。
義母は目を鋭くさせて、わなわなと声を震わせた。
「ジェシカさん……あなた、今までいったいどこに行っていたの!?」
返事に窮した私に、義母が追い打ちをかける。
「勝手に遊び歩いていたのね!? 母親として、侯爵家夫人として、恥ずべきことだとは思わないの!? あなたの不行き届きでアレクは危険な目に遭ったのよ!」
義母はぎゅっとアレクを抱きしめて、ぎらついた目で言った。
「あなたなんて母親失格よ! 今後は、このわたくしがアレクを守ります。あなたに文句を言う資格はないわ!!」
刃物のような言葉に、地獄に突き落とされた気分だった。
義母は、私がアレクに近寄ることさえも禁じた。
母子で過ごせる時間を奪われ、食事も会話も一切禁止。
これでは死に戻る前と同じ、息を潜めて遠くから見るだけの生活に逆戻りだ――。
*
数日後。窓から庭園を見ると、義母とアレクが何やら練習をしているのが見えた。
侍女のモニカが、重苦しい表情で教えてくれた。
「爵位継承式の練習だそうです」
「爵位継承式……」
アレクが5歳になったとき、国王の前で少年侯爵として認定される儀式だ。その場で後見人も決まる。すべてが公的に決定する舞台――義母が望む勝利の場だ。
「バカね、私。もうすぐ全てうまくいくと思っていたのに」
「ジェシカ奥様……。でも、まだ……」
モニカの声を遮って、私は首を振った。義母の声がこだまする――『母親失格』。
「……たしかに、母親失格ね。アレクを守るために奔走していたのに、むしろ危険に晒してしまうなんて」
――その日の夜更け、小さなノックが自室に響いた。
来たのはアレクだ。義母の目を盗んで、ひっそりとやって来た。
「アレク……!」
私があわてて膝を突くと、アレクはぎゅう……っとしがみ付いてきた。
「ママ」
「ごめんなさい、アレク。ママが出かけていたせいで……」
「ママ、ちがうよ。あのね、聞いて」
アレクの声は、静かで迷いがなかった。
「ぼくをさらった人、おばあさまがやらせたんだと思う」
――!?
アレクは言った。野盗が鎧の下に着こんでいた肌着に、ノイエ=レーベン侯爵家の家紋が縫い込まれていたと。護衛騎士が追いかけてきたら、野盗はあっさりアレクを置いて逃げたのだと。
(自作自演ってこと……?)
まさか。義母は私を責めるためだけに、こんなことを……?
「だとしたら……許せない!」
理性が音を立てて崩れていく。
これまで集めた証拠を突き付け、今すぐ義母を糾弾してやる! 立ち上がろうとした瞬間、アレクは私の手をぎゅっと握って止めた。
「まだダメだよ。なにも気づいてないふりをして、王さまの前でこらしめよう。ぼく、ちゃんとがんばれるから」
「アレク……?」
「ぼく、おばあさまを絶対にゆるさないんだ」
アレクの小さな顔には、決意がしっかり刻まれていた。
「ぼくのママは、ママだけだから」





