【14】バーバラ・ノイエ=レーベン
ジェシカが密かにダリアン商会を訪れてから、1か月ほど経ったある日のこと――。
バーバラは執務室で書類仕事をしていた。
「奥様。決算書でございます」
家令シュバルツから差し出された紙束を受け取り、眉を寄せる。……字が細かくて、よく見えない。つまりは老眼だが、バーバラはとくに困っていない。
いつものように、シュバルツに丸投げすれば良いのだから。
「もう。シュバルツってば、意地悪な人。こんな書類、わたくしに見せる必要なんてないでしょう?」
甘え声で言いながら、バーバラは家令にしなだれかかった。家令もまんざらではない様子である。
「ふふ、失礼いたしました。奥様の美しい困り顔を、つい見たくなりまして」
「夜までお待ちなさい? 書類、要約してくださる?」
「かしこまりました」
要点を説明するシュバルツの渋い美声に耳を傾け、うっとりしながら署名した。バーバラ自身が判断しているという体裁を保ちつつ、実際はすべてシュバルツに委ねている。
仕事ができる女主人に見えて、実際はシュバルツなしでは回らない。四十を過ぎた壮年の渋みを備えた彼は、バーバラの一番のお気に入りだ。バーバラは「ご苦労様」と妖艶に笑いながら、彼に書類を返した。
「そういえば、バーバラ奥様。最近、ジェシカ若奥様のことで少々気になることがございます」
ぴくり。とバーバラは眉を寄せた。
「これまではバーバラ奥様に命じられた雑用をご自身でしておられましたが、最近はバーバラ奥様の目を盗みつつ、メイドにやらせているようで……」
「まぁ。随分と怠慢ですこと!」
「ジェシカ若奥様ご自身はお部屋にこもっておられるのか、姿が見えない日もあります。……どうなさいますか?」
「……お仕置きが必要ね」
バーバラは、眉間に深い皺を寄せた。
ジェシカの存在は、バーバラにとって目の上のたんこぶだ。できることなら、今すぐ排除してしまいたい。
(忌々しい嫁ね。レオンさんから貰った素晴らしい生活も、あの嫁のせいで台無しだわ)
レオンというすばらしい息子を授かったおかげで、今のバーバラはある。
(レオンさん……どうしてジェシカなんかを嫁にしたの? 昔から、あなたは本当にいい子だったのに)
気づけばバーバラの思考は、遠い過去へと沈み込んでいた。
***
バーバラはエリンリ伯爵家の次女として生まれた。艶やかな美貌に狡猾な性格の彼女は、幼い頃から野心を持っていた――『いつか、上位貴族に嫁いでみせるわ』。
やがて姉エリーナに舞い込んだ縁談を耳にして、バーバラは胸を躍らせた。
相手はレーベン公爵家。
正妻に子がないため、第二夫人を迎えるという。この国は原則一夫一妻制だが、後継がいない場合のみ第二夫人が認められている。
『べつに、第二夫人で構わないわ。子を為せない第一夫人なんて追い落として、寵愛を勝ち取ってやるんだから』
そう考えたバーバラは気弱な姉を脅して結婚式当日に成り代わり、姉の名を騙ってレーベン公爵家に嫁いだ。
――誤魔化しきれなくなって露呈したのは、結婚式から二ヶ月後。
バーバラは『姉に脅されて花嫁を代行してあげた』と泣いて訴え、徹底的に被害者ぶった。
成り代わりなど、貴族にとって最大級の不祥事だ。エリンリ伯爵家は信用を失い、姉エリーナは心を病んだ。
しかし張本人のバーバラはというと、運よく窮地を切り抜けてしまった。……レオンのおかげだ。
バーバラは、懐妊していた。
世継ぎを求める婚姻で、それはなによりの免罪符。たとえ不正な第二夫人でも、追い出すことなどできない。
何の巡りあわせかほぼ同時期に第一夫人も妊娠し、レオンより先にアニエスが生まれた。しかしアニエスという対抗馬がいてもなお、バーバラの地位が脅かされることはなかった。
レオンが、おそろしく優秀な子どもだったからだ。
アニエスよりも健康で、成長が早く、賢く、力も強い。第一夫人とアニエスが悔しがるのを見るのが、バーバラには何よりの娯楽だった。
レーベン家中は二つに割れ、後継をアニエスとレオンのどちらにするかで大いに揉めた。だが男児であり実力も上のレオンが、圧倒的な優位だった。
『レオンさん。あなたのおかげで、わたくしがこの家の女主人になれるのよ……! ああ、本当に夢みたい! あなたを産んで本当に良かったわ……!』
レオンを抱きしめながら、バーバラは甘く囁いた。
『……』
レオンは表情が乏しく寡黙な子どもだったが、そんなことはどうでも良い。レーベン公爵家の血統を示す父譲りの美貌と、従順さがあれば十分だ。
――だからこそ。
レオンが失踪したとき、バーバラは裏切られた気分だった。
12歳の頃、レオンはなぜか家出したのだ。
理由はさっぱり分からない。
ふらりと蒸発してしまい、数か月後にふらりと戻ってきた。
そして今まで操り人形のようだったレオンは、いきなり『公爵家を出て騎士を目指す』と言い出したのだ。
『ちょっと……何を言っているの、レオンさん! 継承権を放棄するなんて絶対に許さないわ!』
いくら猛反対しても、レオンは聞き入れない。貴族籍を抜けたレオンは強引にバーバラを連れて、レーベン公爵家を出てしまった。平民同然の暮らしを余儀なくされたバーバラが、どれほどレオンを恨んだことか。
……だが結局、レオンは幸運を運ぶ子どもだった。
王国騎士となったレオンは武功を重ねて爵位を賜り、ノイエ=レーベン侯爵家を興した。レオンは領主邸にバーバラを招き入れ、そこに居場所を与えてくれた。
『レオンさん……! わたくし、あなたを見誤りそうになっていたわ。あなたはやっぱり、すばらしい子ね。愛しているわ!』
こんな孝行息子は、世界中探しても他にいない! きっと神様が自分に授けてくれた子だったのだと、バーバラは今も信じて疑わない。
なのに、天に召されてしまうなんて……。
(もしかすると、役目を果たして神様のもとに還ったのかもしれないわ。……わたくしを幸せにするという役目を)
***
現実に意識を戻したバーバラは、決意を込めて呟いた。
「……わたくしは、レオンさんからもらったこの生活を守ってみせる」
だからこそジェシカを排除しなければ。
(アレクが5歳になるまで、あと3か月……。後見人の座は、ジェシカなんかに渡さないわ!!)
そのときノックの音が響き、侍女が姿を現した。
「失礼いたします、大奥様」
小動物のような印象の、十代後半の侍女だ――名前はモニカ。
この娘は、ジェシカと仲が良かったはず。それだけで気に入らない。
「何の用?」
モニカはなかなか用件を切り出してこない。バーバラは苛立ちを隠さずにモニカを睨んだ。
「用がないなら出ていきなさい。わたくしは忙しいの」
「……も、申し訳、ございませんっ」
何をおどおどしているのだろう。明らかに挙動不審だ。
やがてモニカは深呼吸をして、覚悟を決めた様子で切り出してきた。
「ジ、ジェシカ奥様のことで、ご報告しなければならないことがございまして……!」
――ジェシカのこと?
バーバラは顔を輝かせた。ジェシカが何か不祥事を働いているのであれば、責める口実になる。
「ジェシカがどうしたの?」
「 あの。私、見てしまったんですけれど……。実は、ジェシカ奥様が、ですね……?」





