ラ・メール・サビーナ
自室に戻って、一番状態の良い服を選んで着て、借り物のネクタイを締める。革靴も用意していなかったので、仕方なく軽登山靴で代用する。
洗面台の鏡で、姿を確認したゴパルが、少し肩をすくめて苦笑した。何とか、人目に耐えるだろう。
「ま、これで良いかな」
レストランの入り口付近のロビーでは、ピシッとスーツを着こなした、協会長が待っていた。ゴパルの服装に、ノーコメントで微笑む。
「では、参りましょうか。ゴパル先生」
レストランの店内は、白く塗られた伝統的な土壁に、大きな窓枠が設けられていた。窓枠も黒檀の彫刻が施されている。大理石の床も良く磨き込まれていた。壁には、ネパールの画家による油絵が、バランス良く配置されている。その中には、縦横一メートルほどの大きさの、絹のキャンバスに描かれた、穏やかな表情の千手観音が描かれていた。
チベット様式のタンスや棚もあり、骨董品らしい壁時計等が飾られていた。窓には清楚な柄のカーテンが掛けられているのだが、今は昼なので開けられていて、フェワ湖とサランコットの丘の景色が見える。
天井には、シャンデリアがいくつか下がっていて、キラキラと地味に輝いていた。しかし今の時間は、太陽光による照明を重視しているようだ。
まるで別世界のような店内を、給仕スタッフに案内されて席につくゴパルだ。共に席についた協会長は、慣れた様子なのだが、ゴパルは目を点にしている。
「ゴパル君、実にネクタイが似合っていないなあ、君は」
声がしたので、我に返ったゴパルが、隣りのテーブルに座っているアバヤ医師に気がついた。他にもう一人、初老の女性が同伴している。
ゴパルが、冷や汗をかいて、アバヤ医師に謝った。
「すいません。次回ポカラへ来る時は、きちんとした服を用意しますので、今回は御容赦ください」
愉快そうに笑うアバヤ医師と、その連れの女性だ。その女性を紹介するアバヤ医師である。
「こちらは、ワシの妻だよ。ゴパル君の話をしたら、ぜひ見たいと言ってね。連れてきた」
ほとんど見世物だな……と思うゴパル。
他にも、二組の客が居て、こちらを見て微笑んでいるのが見えた。彼らにも会釈するゴパルである。
協会長が、穏やかな声でゴパルを落ち着かせた。
「ランチですので、そう緊張する事はありませんよ」
そこへ、四十代前半の給仕長の男が、タイミング良くゴパルの隣に立った。
「いらっしゃいませ、ゴパル先生。お待ちしておりました。お水か何かを、ご用意いたしましょうか?」
身長はゴパルよりも高い百八十センチほどもあるのだが、全く威圧感は感じられない。
細い一重まぶたの目をしていて、仏画のように柔和な印象だ。白い長袖のシャツに、黒いベストと黒ネクタイとトピ。黒いズボンには、アイロンがしっかりとかけられている。足元も、当然のように上品な黒の革靴だ。しかし、一般的なインド人富裕層とは違い、光を反射するほどピカピカには靴を磨き上げていない。
ゴパルの代わりに、協会長が答えた。
「発泡水をグラスで。ゴパル先生は、この後、飛行機で首都へお帰りになります。ですので、酒は控えめにしましょう」
給仕長が頭を下げて了解した。実に優雅な所作である。社交ダンスを長年行っているような印象だ。
「かしこまりました」




