氷河の端
上っていくと、やがて尾根に出た。尾根の向こう側には巨大な氷河が流れている。尾根筋は土砂で構成されていて、岩盤では無い。これも自然堤防だ。
ゴパルが鋭利なナイフの刃のような、幅の狭い尾根の上に立って、思わず感嘆の声を上げた。
「おお……氷河の端に出たのか」
この尾根は、自然堤防なので、氷河が運んできた土砂が堆積したものだ。氷河はさらに下方へ流れていき、崩壊した末端部に接続していた。
氷河には、無数の割れ目が全面に生じていて、土砂を被って黒く汚れている。こんな氷河の上を歩いたら、間違いなく氷の割れ目に落ちてしまうだろう。
氷河の上を吹き上げる、小雪混じりの突風が、ゴパルの体を浮かせた。足元も土砂ばかりで軟弱なので、転んで氷河へ転がり落ちる恐れが高い。
慌てて尾根から降りて、突風をやり過ごすゴパルだ。同時に再び、雲の中に入る。
「いけない、いけない。観光で死んでは、笑い話のネタにされてしまう」
黒いパイプを、再び追う事にする。パイプは柔らかい尾根を迂回するように、上方へ伸びていた。
尾根筋を吹き上がっていく風に乗って、雲が次々に飛んでいく。そのたびに視界が悪くなるのだが、何とかパイプ沿いに上っていくゴパルだ。
数分して……
「あ、ここか」
ゴパルが立ち止まった。眼前には、尾根を飲み込むような形で氷河の端があった。
氷河の端には、ちょっとした池というか川があり、そこに小さなコンクリート製の箱型の止水堰が設けられていて、黒パイプが接続されていた。取水口だ。
堰を流れる雪解け水を、スマホのカメラで撮影する。さすがに夕闇が近づいているので、フラッシュを使わないといけなかったが、写真はしっかり撮れていた。モニターで確認して、さらに氷河の端も撮影する。
「……よし。こんなもので良いかな。しかし、氷河から出る水って、粘土が多くて濁っているものなんだけどな。ここの水は透明で綺麗なんだね」
だからこそ、この場所を水道の取水場に選んだのだろう。恐らくは、氷河そのものから流れ出ているのではなく、地下水となって、いったん自然堤防内部の地中を通ってから、ここに湧き出ているのかもしれない。
スマホをレインウェアのポケットに突っ込んだ。次に、布バンド式のヘッドランプを取り出し、レインウェアのフードの上から頭に巻く。測量ポール杖で、足元の岩をコツンと叩いた。
「さて、それでは民宿に戻ろうかな」
とは言っても、雲の中なので視界は二メートル程しか効かない。黒いパイプ伝いに、ゆっくりと斜面を降りていくゴパルだ。上る際に、あちこちの岩を触っていたので、動いた岩を記憶していた。それには近づかないように慎重に迂回していく。空腹感が強くなってきて、腹がグーグー鳴り始めた。
「雪の上に、私の足跡が残っているから、迷う事は無いか」
この取水場の標高は、四千五百メートルくらいにあるはずだ。さすがにゴパルでも、この高さでは警戒しないといけない。
デオラリが標高三千二百メートルだったので、たった一日で千三百メートルも登っている。高山病に突然かかる恐れがあるのだ。そのため、慎重にではあるが、休まずに真っ直ぐ降りていく。
雲の中を降りていくと、すっかり夜になってしまった。レインウェアに、再び粉雪や氷の破片が、パラパラと音を立てて当たり始める。
次第に風も巻き始めたようだ。ヘッドライトに照らされる範囲内の雲が、グルグルと渦巻いているのが見える。
「チベット僧の天気予報が当たりそうだなあ」
もちろん、山の天気は変わりやすいものなので、それを割り引いて考える必要はあるが。少なくとも、ゴパルが持っている、スマホの天気予報アプリよりは精度が高い。
不意に雲の下に出た。
一気に視界が広がる。民宿街の上、百メートルも無い場所だ。ゴパルが安堵して、凍えた口元を緩めた。いつの間にか、レインウェアや軽登山靴に、氷が貼りついている。氷河の端では、予想以上に冷えていたらしい。
民宿街では、それぞれの民宿の窓に明かりが灯っていて、数名から十名ほどの観光客が寛いでいるのが見える。五軒ある民宿それぞれに、客が入っているようだ。思わず、肩をすくめるゴパル。
「物好きって、結構いるものだね」
ゴパルも今や、その物好きの一員なのだが。すっかり夜の闇に包まれたアンナキャンプの夜景に、少しの間、魅了されていたようだ。我に返る。
踏み出した先の岩が、足元で揺らいだ。急いで別の岩に足を乗せる。
「おっと、危ない。降りるまでは気を抜けないな」
真っ暗な荒野と雪景色の中の、民宿の灯りに向かって、ゆっくりと降りていくゴパルであった。




