発酵コーヒー
退屈を持て余して、二人とも居眠りをしかけた頃にプラガティナガルへ到着した。待ち合わせの食堂前で停車すると、シャムが笑顔で駆け寄ってきた。合掌して挨拶を交わす。
「こんにちは、ようこそ。長い山道でお疲れでしょう。コーヒー休憩しませんか」
車から下りて背伸びをしたカルパナとゴパルが、肯定的に首を振った。
「発酵コーヒーの評判がポカラまで聞こえてきていますよ。楽しみにしています」
「ここは深い山の中ですから、野生の酵母菌も多いのでしょうね。試飲が楽しみです。サンプルとして少量、首都へ送りますね。もしかすると培養できるかも知れません」
食堂はごく普通のネパール料理屋だった。しかし店先には、カウレ村で仕込んだ発酵コーヒーや通常のコーヒーが生豆と焙煎済みの両方で売られている。ポカラのホテル協会の買い取り基準に満たなかった品質なのだが、よく売れているらしい。
シャムがニコニコしながら説明してくれた。
「仲買人を介さないので、儲けが大きいですね。最初は仲買人が嫌がらせをしてきましたが、バッタライ家とタパ家の関係者の方が動いてくれまして。今では順調に商売ができています」
関係者については、あえて質問しないゴパルであった。カルパナも苦笑して聞き流している。
食堂の中は、ほぼ満席になっていた。シャムが予約席を確保していたので、そこへ案内される。食事や酒を飲んでいる客から熱い視線を浴びて、恐縮しているカルパナとゴパルである。
すぐに食堂のオヤジが厨房から顔を出して、合掌して挨拶してきた。
「カウレ村に尽力してくださって、ありがとうございます。この食堂も売り上げが増えているんですよ。国外へ出稼ぎに行く人を、この食堂で雇えるようになってきました」
シャムが照れながら補足説明した。
「今は出稼ぎするにも、準備金やら健康診断が必要でして。そのお金の工面で難儀している人が多いんですよ。出稼ぎに行っても、給料をもらえなかったりする場合がありますしね。地元で働けるのが、一番安心できます」
ゴパルは出稼ぎとは無縁の生活なので、興味深く聞いている。カルパナはシャムの話に深く同意していた。
「そうなんですよね。私の所でも農業を再開する人が増えていますよ。良い傾向です」
食堂のオヤジが、早速コーヒーを淹れて持ってきた。ついでに食事の注文も受けつける。とはいっても普通のネパール料理屋なので定食になるのだが。コーヒーはゴパルとカルパナの希望で、何も加えていないブラックである。
ゴパルが一口飲んで、垂れ目をキラキラさせた。
「ほえー。何か別の飲み物に変わっていますね。でもこれはこれで美味しいですよ。低温蔵でも発酵させていますが、水温が違うせいか風味が異なりますね。こちらの方が良いかな」
しかし、苦かったようですぐにミルクと砂糖を入れ始めたが。カルパナも同じ事をしている。
「何となくですが、チーズのような風味が少し感じられますね。桃のような香りもして、個性的なコーヒーになっていると思います。あ。ミルクコーヒーにすると、もっと良いかも」
シャムがニコニコしながらも、困ったような雰囲気になった。
「二百リットルのタンクにコーヒー果実を入れて、KLと砂糖を加えて発酵させているんですが……タンクごとに味が違うんですよ。どうしたものでしょうか」
ゴパルがミルクコーヒーをすすりながら、気楽な表情で答えた。
「やはり、多種多様な野生酵母や乳酸菌が働いていますね。味の良かったタンクの残り液を保存して、それを次に仕込む際に種菌として使ってみてください。それを繰り返すと、次第に安定してくるはずですよ」
残り液は二十リットルほど保存しておけば十分と説明する。この方法はKL培養液を仕込む際にも使う事が可能だ。
シャムが真面目な表情で了解した。
「なるほど。やってみます。酒づくりに似ているんですね」
試飲を済ませた後でネパール料理を食べたのだが、ゴパルがディーロ好きだと知っていたようだ。ゴパルには粟のディーロを出している。喜ぶゴパル。
「わあ。嬉しいな。水牛のギーも使っているんですね。良い香りがします」
ギーというのは、済ましバターの事だ。
カルパナは白ご飯だったのだが、こちらも美味しそうに食べている。ちなみに二人とも手づかみだ。
「山米が美味しいです。地元産ですか」
キメ顔で笑う食堂のオヤジである。
「当然だ。インドの米なんか使わないよ」
地鶏の香辛料煮込みと、笹の子の香辛料炒め、それにイラクサの香辛料煮込みも美味しかったのだが、さすがに酒は遠慮するゴパルとカルパナであった。
「すいません。規則で今は飲めないんですよ。スルヤ教授が怒りますので……」
自動運転なのでハンドルを握らないのだが、実証試験中である。公式記録に残るので、酒は控えている。
食堂の隣が民宿だったので、そこのオヤジに頼んで発酵コーヒーのサンプルを首都に発送した。二日後には届くという事なので、クシュ教授宛にチャットで知らせるゴパルだ。
「よし、これで仕事の半分は終了かな」
シャムが民宿の掛け時計を見上げて、軽く腕組みをした。
「少し急いだ方が良いですね。今からですと、ブトワル到着は夜中になります」
当初の予定でも、ブトワルには夜に到着する事になっている。ゴパルがスマホをポケットに戻して、シャムに礼を述べた。
「発酵コーヒーと食事、美味しかったですよ。今後が楽しみですね」
照れるシャムである。
「出稼ぎにいく人が減れば大成功です。地道に努力しますよ」




