ブトワルへ
ブトワルはテライ平原にある街である。そのまま南へ進むとインドのUP州との国境に接するため、街並みは北インド風だ。
ちなみにUPはウッタル・プラデシュというヒンディー語の略称で、意味は『北国』というところだろうか。
ただ、UP州の風景とも違っているので、よく見ると見分けがつく。住民の顔立ちもネパールの山間地とは異なり、彫りが深くなり眼光も鋭くなる。今回訪問する先は原住民とも呼べる位置づけの住民で、タル族の村になる。
タル族はちょっとした謎に包まれている民族で、出自がよく分かっていない。一説によるとアフリカから直接旅してやって来た民だとか何とか。顔つきは北インド風な人が多いのだが、スリランカ人のような人も居る。
ブトワルの近くにはルンビニという仏陀の生誕地がある。ここはその昔シャカ族が治める王国だったのだが、タル族との関わりは無かったようだ。
そのため、タル族は仏教徒ではなく土着シャーマニズムが色濃く残っているヒンズー教徒だ。王政時代に行われたヒンズー教への改宗運動の影響である。
タル族はネパールの王室に従っていたのだが、残念ながらカースト制度では『奴隷に堕ちうる酒飲み階級』に組み込まれてしまった。
連邦共和制になった現在では地位回復運動が盛んである。ちなみにゴパルのスヌワール族やグルン族、マガール族は『奴隷に堕ちない酒飲み階級』になる。
ネワール族には独自のカースト制度があるため単純比較はできないが、レカのシュレスタ族はゴパルと同じ階級に相当する。その下に、いわゆる不浄カースト階級が存在していた。
ブトワルのタル族とは、レカのリテパニ酪農が事業展開で関わっている。今は主に牧草栽培だ。
そのため、本来であればゴパルやカルパナではなくて、レカや彼女の兄のラジェシュが行くべき案件なのだが……二人とも風邪をひいて寝込んでしまっていた。
ディーパク博士も巻き添えを食らって風邪をひいているので、彼らの代理としてゴパルとカルパナがタル族の村を訪問する事になったのであった。
そのレカから送られてきた感謝の文面をチャットで読みながら、カルパナが気楽な表情でゴパルに微笑んだ。
「レカちゃんの熱は下がり始めたそうです。酪農仕事ですから、なかなか休めませんよね。今はクリシュナ社長さんが頑張っているみたいですよ。ギャクサン社長とバルシヤ社長も手伝いに来ているとか」
ゴパルはラジェシュからのチャットを読み終えた所だった。
「ラジェシュさんも回復傾向のようですね。良かった」
病状が良くなってきている事を喜んでから、不安そうな表情になるゴパルである。
「ブトワルではサトウキビ栽培を始めるんですよね。私は素人ですよ」
カルパナも困ったような笑顔でうなずいた。今はカルパナが運転するジプシーで、ブトワルへ向けて山道を走っている。
今回はポカラ工業大学の事業で、準天頂衛星群を用いた全自動運転の実証試験を併せて行っていた。そのため、運転席のカルパナはハンドルを握っておらず、アクセルやブレーキペダルにも足をかけていない。
「私もです。有機農業団体のインドやタイの加盟者から色々聞いて勉強はしてみましたが、それだけですね。本来でしたら、今日はシャムさんのコーヒーを試飲するだけだったのですが……」
カルパナとゴパルが同時にため息をついた。
気を取り直したゴパルが、運転席に取りつけられている機械を見つめた。
「これが全自動運転のユニットですか。思ったよりも小さいですね」
マグカップくらいの大きさで、ドアポケットに突っ込まれている。カルパナが肯定的に首を振った。
「はい。本当に私は座っているだけで済みますね。運転する必要がないので、退屈になってきました」
準天頂衛星群による測位システムの精度は、誤差数センチ以内に収まっている。この道は幹線道路ではあるのだが、交通量はそれほど多くない。
そのため減速する場面がそれほどなく、電気モーターの回転音だけが静かに聞こえてくる。
ゴパルがカルパナに同情した。
「ドライブ好きな人には退屈でしょうねえ……私のような下手くそ運転手には朗報ですが」
将来は、飛行ドローンの発展型である『空飛ぶ車』の運用を目指すと意気込んでいる、ポカラ工業大学のスルヤ教授とディーパク助手(博士なのだが肩書は助手のままである)の顔を思い浮かべた。
「ブトワルに充電設備ってありましたっけ、カルパナさん」
カルパナがスマホを取り出して地図を確認した。
「ええと……ありますね。村から近い給油所に設けられています。このジプシーは軽いので、家庭のコンセントからでも充電できますし問題ないでしょう」
ゴパルも確認すると、給油所のは大型トラック用の設備だった。
「へえ……つい去年までは、電気自動車って自家用車だけだったのですが。トラックも電気駆動になってきているんですね」
カルパナは少し残念そうな表情をしているようだ。
「電気モーターは音が静かすぎるんですよ。爆発的な加速が楽しめないので退屈ですね」
電気自動車では稼動するのはタイヤと冷却ファンだけだ。エンジンが無いので大きな音がしない。タイヤの素材は宇宙エレベータのレールで使われているモノの廉価版なので、パンクも起きない。反対に路面がタイヤによって削れてしまう有様だ。
全自動運転なのだが、不測の事態に対応するため運転手は必要になる。そのためカルパナが今回選ばれて座っている訳なのだが……かなり退屈そうだ。
この道はひたすら山中の森の中を走るため、道端には民家が少なくて道路で寝ているような人も居ない。放牧されている牛や山羊が道を塞いでいるくらいだろうか。吸血ヒルに襲われて脚が赤くなっているのも交じっているが。
途中で二回ほど道端の食堂前に停車して、チヤ休憩とトイレ休憩を挟み、ゴパルとも運転を交代する。
最初は運転席に座って緊張していたゴパルだったが、本当に何もする事がない。すぐに大あくびをして退屈な表情になってしまった。
そんなゴパルを助手席のカルパナが見て、クスクス笑っている。
「便利なのは嬉しいのですが、退屈ですよね」




