レク
民宿や茶店で、チヤ休憩を続けながら先を進むと、ますます荒涼とした風景に変わってきた。両側の絶壁は岩盤が剥き出しになり、見事な縞模様の地層がパノラマで浮き出ている。
長く続く雨のせいで、両側の絶壁からは、無数の小さな滝や沢が生じていて、モディ川に流れ込んでいた。モディ川も、ここでは大きな沢という印象だ。
「まるで、東西の滝の中央を歩いているような感じだな。雲が滝になって、落ちてきているみたいだ。晴れていれば、絶景なのだろうなあ」
谷はかなり狭くなっているので、両絶壁から無数に流れ込む滝の轟音が、こだまになって響いている。
それでも、谷を流れるモディ川の流量を見ると、ほとんどの雨は、ここより南で降っているのだろう。恐らくは、ガンドルンやチョムロン、そしてセヌワの斜面で降っているはずだ。
道は完全に沢沿いに変わり、家くらいの大きさの巨石が乱雑に転がっている中を、縫うように進んでいく。絶壁が崩れて、落ちて来た岩なのだろう。それらの岩をよじ登りながら、高度を上げる。
「降りてくる人が、もう居ないな。急がないと」
辺りが次第に暗くなり始めていた。八月なので、まだ日没までには時間があるのだが、分厚い雨雲のせいだろう。
赤白の縞模様が目立つ、測量ポール杖をカンカン鳴らしながら、岩が転がる道を上っていく。確かに、この岩だらけの道となると、ロバ隊には厳しいのだろう。道にも、ロバ糞を見かけなくなった。
標高が容赦なく上がっていく。それにつれて、空気も冷たくなってきた。森や土の臭いが消えている。
代わりに、泥炭やコケの湿った臭いに変わってきた。気温が年間を通じて低いので、有機物の分解が遅くなり、泥のようになる。その、やや刺激臭を伴った湿った臭いは、レクに特有のものだ。
そんな風景と臭いの変化を楽しみつつ、岩の道を上っていると、坂の上に明かりが灯っているのが見えた。測量ポール杖を使って、カンカン、コンコンと音を立てて、コケや草に覆われた巨岩の道を上っていく。
上っている途中で、濃い雲の中に入ってしまい、視界がほぼ効かなくなった。足元しか見えないような状況で、それでも杖のリズムを変える事無く進むゴパル。
「あ、ここか」
坂を上り切ると、茶屋があった。その茶屋のある場所だけは、雨に濡れていない。
「ん?」
不思議に思い、ゴパルが見上げると、茶屋の上には、巨大な岩がせり出していた。これが、傘のような役割を果たしているのだろう。残念ながら、濃い雲のせいで、傘岩の全容が見えない。
「いらっしゃい。チヤが沸いているら、お客さん」
茶屋のオヤジが、ゴパルに声をかけてきた。茶屋は、本当に小さなもので、小さな持ち運び式の灯油コンロが一つあるだけだ。その灯油コンロの上にヤカンが置いてあって、湯気を盛んに出している。
見ると、オヤジの側には、炭酸飲料の瓶が詰められたプラスチックの箱が、いくつか置いてある。ゴパルが、その箱を見て感心していると、茶屋のオヤジがニヤリと笑った。
彼はグルン族では無く、チベット系の民族のようだ。民族服は着ておらず、普通のジーンズに登山靴、それにダウンジャケットだ。
「チソもあるが、もう夕方だぼ。飲むと体を冷やしてしまうら」
チベット訛りが加わった話し方だ。チソというのは、炭酸飲料全般を指すネパール語である。直訳すると『冷たい奴』となる。なお、冷蔵庫で冷やしていなくても、チソと呼ばれる。
ゴパルも素直に同意した。
「そうですね。それでは、チヤを一杯下さい。で、ここはどこでしょうか? デオラリまでは、まだ遠いですか?」
茶店のオヤジが、早速ヤカンからチヤをガラスコップに注いで持ってきた。
「ヒンクだぼ。デオラリは、ウ~チョ、すぐそこにあるら」
ウ~チョが出たか……と、内心で苦笑するゴパルである。もうしばらくは、歩く事になりそうだ。




