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京夜日記  作者: 京夜
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第二十二話 「死体解剖」

これは医学生の頃に書いたものです。

 医学を志す者にとって一番興味深く、そして恐ろしくもあるのは、間違いなく「死体解剖」だと思う。

 死体を腑分けし、その隅から隅まで覗く。

 生と死との直面。

 すべての真理がそこにある気さえする。


 僕はこの経験を通して、自分が変わってしまうかもしれないことが、恐ろしかった。

 生と死を目の当たりにして、果たして今の自分のままでいられるだろうか、それが心配だった。

 死体そのものに対する恐怖はなかったものの、そんな真理に対する恐怖はかなりひどいものがあった。



 解剖の日が間近に迫っていることに気づいたのは、なんとその前日になってからで、それまでは一度も思い出しもしなかった。


「ああ、そうだ。明日がそうなんだ」


 まるで他人ごとのように頷いて、そしてふと自分がまったく恐れも好奇心も抱いていないことに気がついた。

 いつもと同じように、明日が当然のようにやってくる。そんな気持ちと同じだった。


「みんなはどうしているかな」


 とだけ呟いた。

 眠れない人がいるかもしれない。

 そうだ、明日からしばらくお肉が食べられなくなるかもしれない。

 そんなことを考えていたが、しばらくするとすべて忘れた。


 当日。

 学内の坂を下り、地下一階にあたる広い教室に入る。

 何本もの蛍光灯に照らされて、室内は意外に明るかった。

 その中に佇む25体の御遺体は高い金属のベッドの上に横になり、白いシーツと透明なビニールがかけられていた。


 僕の位置は部屋のいちばん奥にあり、早々と御遺体の周りにつくとしばらく呆然と眺めていた。

 黙祷……の気持ちにいちばん近いと思う。

 心は何も考えることをせずに、ただ視点だけがビニールの下に透けて見える、白い布に形どられた御遺体を見つめていた。

 人の形をとった、当然のように動かない人間。

 モノに近い気持ちで見つめていたのか、人間に近い気持ちで見つめていたのかは、判然としなかった。


 一緒に解剖をする仲間達が集まると、合図と同時にビニールと布をゆっくりと取る。

 どこかで、ほんの少し悲鳴に近い言葉が漏れた。

 92才の女性の御遺体。

 全体的に赤茶けていたが、今にも動き出しそうな体。

 だけれども、僕の心は何も感じていなかった。


 昔、知り合いの人が亡くなって、葬式に出たときもそうだった。

 死が実感できない。

 恐くも、寂しくも、何ともないのだ。

 自分は何と薄情な人間なんだと、その時はひどく自分が恥ずかしかった。


 やがて好奇心の方が先行していき、実習書どおりに御遺体の皮を剥いでいった。

 抵抗はあるものの、誰もがそれを実行することができた。

 面白いことに、女性の方が意外に平気な人が多いことに気づいた。

 顔を青くしているのは、だいたい男性だ。

 それでも驚くほど、ほとんどの人は平然としている。

 多分、医学を志した時点である程度の覚悟と、何度となく聞かされた噂である程度の免疫ができているせいだろう。


 そして、覚えることは予想以上に多い。

 神経一本、筋肉一つに名前がある。

 骨一本に数十個の名前がある。

 役割、意義も同時に覚えていたら、一つの辞書が確実に出来上がる量を、僕たちは半年で覚えなくてはならない。


 数日もすると、もはやほとんど抵抗もなく、好奇心と、必死と、仕事をこなすような倦怠感を感じながら、それでも一回の機会しかないことを胸にして一生懸命やっていた。


 死とは何だろう。

 生とは何だろう。


 解剖を進めている間、幾度となく心の中で呟いた。

 解剖を進めれば進めるほど、御遺体はモノとなっていく。

 ただ、あまりにも精巧にできた仕組みと、御献体なさってくれた気持ちに対しては、畏敬の念を覚えずにいられないが、切りとられた脂肪や筋肉からもはやそれほどの感慨も受けることはない。


 一体これらのどれが、命を育むものなのだろう。

 そして、死とは何だろう。

 目の前にあるものが死なら、机も鉛筆も死だ。

 死とは何だろう。

 生とは何だろう。


 そして、どんどんと無感動になる自分が、情けなかった。

 時がたつにつれて、平気でとんでもないことができるようになる。

 御遺体の頭と体と足に3分割し、内臓を手づかみで取り去る。

 それを全員がこなす。

 誰もできない人はいない。

 人間とは、そんなものなのだろうか。

「世にも奇妙な物語」が恐くて見られないと言っている女の子が、平気で心臓を取り出す。

 自分は人を殺せないと思っていたが、あるいは平気で殺せるのかもしれない。

 心底、自分が嫌だった。


 そんなある日、ふとある小説の一節を思い出した。

 医者でもあった森鴎外は、その体験をつづった「カズイスチカ」と言う短編を書いているのだが、その小説の最後の部分である。


 主人公である花房<ハナブサ>がまだ医学士の頃に、いくつか出会った「興味深い」患者について書かれたものであり、話はどちらかと言えば学者的な冷静さと「興味深い」雰囲気をだしていた。

 ともすれば、ひどく非人間的で生理的に好かなくもあったが、今の自分にひどく似ているような気がして、そのまま抵抗なく読み進めていた。

 その最後に不思議な女の患者が家に訪れてくる。

 いくつかの医者をまわったが原因が解らず、ここに来たのだと言う。

 腹にしこりがあり、癌ではないかと先に医者には言われたらしい。


 花房はそれでもいたって冷静に、そして体をあらわにすることに患者が羞恥心を抱いてることを承知だと言うのにそれに気づかないふりをするなど、やはりひどく相手を人間として扱わない行為が目についた。

 苛立ちもしたが、しかし、自分のしていることと何の違いがあるだろうと思うと、なにも言えなかった。


 さらに先を読む。

 花房は聴診器を体の数カ所にあてると、さっさと診察を終えてしまった。

 そして横にいた助手に答える。


「腫瘍は腫瘍だが、生理的腫瘍だ」


 生理的腫瘍?

 何の病名か解らない助手に聴診器を渡し、花房はこう言った。


「ちょっと聴いて見給え。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致している母胎の心音よりは度数が早いからね」


 それはつまり、胎児がそのお腹の中にいると言うことだった。

 ふいに、今までの薄雲がかった嫌な雰囲気が晴れていくのを感じた。


「よく話して聞かせてやってくれ給え。まあ、套管針(腹に針を刺し、癌による腹水を取ること)なんぞ立てられなくて為合わせだった」


 笑ったのか、笑わなかったのかは書いていない。

 ただ、生命の誕生に気づかぬ患者に対して、医師はひとりその命の息吹を感じていた。

 解剖とは、限りなく死に近づくことで、生を知ることかもしれない。

 誰もが解らぬ生命の誕生を、医師はわずかな知識をもっと知ることができる。

 生と死を、知識として知ることによって。

 そして初めて、解剖に人間らしさが戻ってきた。



 実習も終わりに近づいたある日、献体を希望する人達との懇談会があった。

 人の役に立ちたいと心から願っている人。

 早く死にたいと呟く人。

 信じられないぐらい若い人。

 御遺体とまったく姿の変わらない人。

 そして全ての人が、いずれあの台の上に乗る方達だった。


 次の日の実習で、先生に


「昨日の方達が、こうして御献体なさるわけですね」


 と聞くと、


「そうだよ」


 と素直に言われてしまった。

 あの人達が、生きている人達が、この台の上の死体となる。


「じゃあもしかして、知っている方が台の上に乗っていたりとか」


 と聞くとやはり、


「そうだよ」


 と涼しげに言われてしまった。


「お酒を一緒に飲み明かした方達が、こうして台の上にのっている場合もあったよ。だから、不真面目に実習をされるとちょっと怒ってしまうね」


 ちょっとどころではすまない気がして、ただ御献体して下さった方に深く深く感謝と懺悔をした。


 大学の教授が亡くなったとき、ぜひ息子に解剖して欲しいと希望して、実際に息子が父の死体を解剖した例があるという話を聞いた。

 父はどんな気持ちだったのだろう。

 息子はどんな気持ちで、メスを握ったのだろう。

 御遺体を見ると、その生活が偲ばれる。

 脂肪が多い方は、それなりに裕福で大事にされていたのだろう。

 床ずれがある方は、体が不自由で寝たきりで死を迎えたのだろう。


 死に顔。

 病気。

 変異。

 義眼。


 その一つ一つを知っていく。


 父が死して初めて、息子は父の生を知ったかもしれない。



 そして我々は全ての解剖を終えた。

 もはや台の上には何ものっていない。

 御遺体を焼却して、身内の方へお返しする日はもうすぐやってくる。

 言葉では語ることのできない感謝と懺悔とを、献体して下さった方と親族の方へ。

 沢山の知識と、沢山の経験。

 いろいろな人の思い。

 その全てがこの頭の中に刻み込まれながら、


 しかし、当初恐れていた自分に、全てに対して無感情な自分に、変わることはなかった。



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