第28話 まずいことになった
ドリス様はにこやかに手をあげて私たちに挨拶をすると、私の横で足を止めました。にこやかではあるけれど、瞳の鋭さが私を不安にさせます。
「ドリス様もスケートを?」
「いや、今日は魔素の調査をしようと思ってね」
そう言って持ち上げて見せたのは、硬い革のカバン。この中には魔素を測るための器具が入っていると聞いたことがあります。
泉の上ではローザと魔術師さんがこちらに手を振り、再びキャッキャと滑り始めます。
「ちょっとまずいことになってね」
目は真っ直ぐに前を向いたまま、唇をほとんど動かさずにドリス様が囁きました。私も彼にならい視線を雲へ移します。
「まずいこと……昨日の騒ぎですか?」
「ん。二重スパイってやつだよ。気付いたときには手遅れだったんだ。してやられたね、相手のほうがいくつも上手だ」
「相手って、ノヒト殿下?」
「違う。けど無関係でもなさそう、といったところかな」
今まで、ドリス様は裏の仕事の進捗について私には何も教えてくれませんでした。それが今になって突然こんな話をするだなんて。会話が進むごとに嫌な予感が胃のあたりでうごめき始めます。
「大丈夫……なんですよね?」
「今に至るまで、ニナには一切関わらせてない。ニナの能力を知る者も、この調査の関係者であることを知る者も、僕と国王陛下だけなんだ」
「それはどういう――」
「わかるよね、ニナは賢いから」
それだけ言って彼は私の頬に触れました。
空から彼へと視線を戻せば、エメラルドの瞳は今まででもっとも優しく……いえ、愛おしそうに私を見ていたのです。
びっくりして声が出なくて。彼は何か言いかけたようでしたが、きゅっと口を引き結んでしまいました。
「ドリス様?」
「国に戻ったら父を訪ねて。そしたら全てうまくいく」
「ちょ――」
私が何か言う前に、彼はいつものように額にキスを落としてから背を向けます。
「待って」
「僕は仕事しないと。またあとでね、ニナ」
振り返りもしない。
ドリス様の進む先にはスノウバイソンが引く牛車があり、護衛と思しき兵士が待っています。きっと彼らと一緒に魔素の調査に向かうつもりなのでしょう。
まずいことになったのなら逃げればいいのに。逃げてと叫びたいのに。ドリス様は自分が逃げれば私が尋問されることを理解しているから、だから捕まる気でいるんだ。
それなら私も連れて行ってくれればいいのに! だけど、彼の足を引っ張りそうな気がして追いかけられない。一緒に逃げようって、たった一言が出て来ないのです。
「ドリス様……」
どんどん小さくなっていく牛車を見送り、何事もなく戻って来ることを祈っていましたら。
城塞の方向からまた別の牛車がやって来ました。牛車だけではありません。その脇には兵を乗せた馬が数頭、並走しています。
通り過ぎる際に、牛車の中の人物と目が合いました。
「ノヒト殿下……っ!」
一瞬だけ驚いたような、泣きそうな顔になったけれど、彼はすぐに私から顔を背けてしまったのです。
ああ、彼を捕まえに行くんだ。そう思った途端、息ができなくなりました。喉からカハッと破裂したみたいな音が出て、すごく苦しいのに、だけどひどく懐かしくて。
――大丈夫だから。ゆっくり吸って、そう、その後はもっとゆーっくり吐くんだ。
あのときはドリス様が助けてくれたのに!
崩れ落ちそうになった私を、温かな手が支えてくれました。
「お嬢様? どうなさいましたか、大丈夫ですか!」
「ロー、ザ」
「お顔色が!」
慌てた様子のローザに私はほんの少しだけ冷静になって、過去のドリス様の言葉に従いゆったりした呼吸を繰り返します。ゆっくり吸って、もっとゆっくり吐いて。
そう、今は倒れてる場合ではないのです。私に何ができるかわからないけれど、だけど私だって無関係ではありません。事情を知っているのに彼にだけ全てを背負わせるだなんてとんでもない!
それに、彼が捕まったらこの任務はどうなるんですか。誰が引き継ぐんですか。私に決まってるじゃないですか!
「ごめんなさい、ローザ。ドリス様に忘れ物を届けないと。ちょっと行って来るわね」
「いいえ、一緒に参りましょう。彼に頼んで牛車を出したほうが早いですから」
彼女の視線の先では陽気な魔術師さんがニコニコと手を振っています。
私に何かあったらローザまで巻き込んでしまう……という考えが一瞬だけ頭をよぎりましたが、ごめんなさい背に腹は代えられません。ローザこそ本当に何も知らないのだから、いずれは無罪で釈放されるはずです、許してください。
「ではお願いしてもいい?」
「もちろんですわ!」
お日様みたいな笑顔で、ローザは魔術師さんの元へと走りました。牛車の手配を頼んでいるのでしょう。そういえば、彼女はいつからあんなにピカピカの笑顔を浮かべるようになったのかしら。
ドリス様は、ノヒト殿下が首謀者ではないと言った。同時に、無関係でもないと言っていた。
私はその一点に賭けたいと思います。ノヒト殿下を問いただし、我が国の貴族……いえ犯罪者と内通していたことを自白させる。それしかありません。
青い空を眺めながらそんなことを考えていると、ほどなくして牛車が到着したのでした。




