第2話 ~ずっと、一緒に暮らしてきたのに~
父が戦死したことで、ノイシュとミネアは苦渋の決断を下しながらも自らの運命を歩み始めていく――
ふと鐘の合図が耳許に届き、ミネアは顔を上げた。
農作業の終わりを告げるその甲高い音色は村の周囲に響き渡り、茜色に染まった空へとやがて溶けていく。
あの鐘はおそらく、ここマラン村の教会で鳴らされたものだろう。
ミネアが音のする方に視線を向けると、予想通りそこには教会や自邸があった――
――帰りが遅くなっちゃった。みんな怒っているかな……
ミネアは正面に視線を戻すと、土を固めただけの素朴な村道を足早に進んだ。
周囲に人影はなく、見知った畑や牧草地が視界のほとんどを占める。
時おり姿を見せる日干し煉瓦の家々からは明かりが灯り、その煙突から炊事の煙が立ち昇っていた――
――夕食の支度、私はもう間に合わないよね……
ミネアは奥歯を噛み締めた。今頃はおそらく義兄が調理を始めているだろう。
今夜の料理こそ、自分が作りたかったのだけれど――
――義兄さん……
ミネアは不意に立ち止まると、自らの手許に視線を落とした。
そこにはたくさんの花々が握られている。
今日は義兄の十六歳の誕生日だった。
花々を彼に贈るつもりで、朝から一人で郊外の森へと出ていたのだ。
しかしなかなか咲き頃なものを集められず、気づいたら陽が傾いてしまっていた。
自分は昼食にも顔を出さなかったので、きっと義兄や三人の孤児達は心配しているだろう――
――本当にいつもありがとう、義兄さん……
ミネアはしずかに両眼を細めた。今の家に引き取られて以来、彼がずっと自分の事を気にかけているのは知っている。
いや、それは決して自分に対してだけではない。
自分と義兄は歳が一つしか違わないのにも関わらず、彼は義父が引き取った孤児達の面倒までみている。
今や義父も出征してしまい、彼だけが頼りだった。
それなのに私は、彼の優しさに甘えてばかりで――
――ごめんなさい、ノイシュさん……
ミネアはそっと両眼を閉じた。そんな彼に対して、自分は未だに心を開く事ができずにいる。
その理由は分かっていた。
なぜなら義父に引き取られるまで、自分はずっと奴隷商人の顔色を窺って生きてきたから――
――ずっと撲たれていたもんね、私……っ――
ふと過去の記憶が脳裏に浮かび、ミネアは強くかぶりを振った。
思わず自らの長い髪を掻き分けると、うなじに残った古傷にそっと触れる。
それはかつて、奴隷商人に刻まれた傷跡だった――
――でも、今は違う。ノイシュさんも、孤児達もいる……っ
ミネアはゆっくりと両眼を開いた。
ついに市場で半ば捨てられていた自分を、義父は見つけて引き取ってくれた。
それ以来、彼の義娘として今の家で暮らしている。
もちろん暴力など一度も受けていない。
今の家族はとても温かく賑やかだった。
むしろ幼子が多いせいか、少し賑やか過ぎるくらいだ――
――お義父さん、ノイシュさん……っ
ミネアは小さく頷くと、大きく息を吸い込んだ。
うん、と声に出して全身の疲労感を隅に追いやり、再び早足で歩き始める。
だからせめて義兄にはこれまでの感謝を伝えるべく、こうして花々を摘んできたのだ。
できれば直接手渡したいと思う。
しかしいざその時になったら、気恥ずしさが勝ってしまうかもしれない。
正直に言って、彼に渡せる自信は無かった――
――っ、あれは……っ
ふいにミネアは足を止めた。
自邸の入り口に見慣れない荷車が止まっている。
幌もない粗末な造りであり、その先には荷車を曳く獣が二頭繋がれている。
それは人や物を運ぶ荷獣車だった。
そして獣達の傍には僧服を着た見知らぬ大人の男性がおり、ミネアはそっと家の物陰に身を隠した。
おそらく彼も義父と同じく神官だろうが、今までに見覚えは無かった。
そして彼に連れられているのは、自分と家族同然に暮らす三人の孤児達だった――
――ワッツ、ルエリ、ザザキ……
ミネアは両眼を細めた。
神官の男はワッツ達を次々と荷獣車に乗せている。
彼らの表情はどれも固く、まだ七、八歳のルエリやザザキにいたっては涙をこらえ切れずにいる。
ミネアは唾を呑み込んだ。その様子からただならぬ雰囲気を感じ取る――
――あれはっ……一体……っ
ミネアは奥歯を噛みしめると、急いで家の扉を開けた。
そして早足で義兄を探す。いったい、自分の屋敷で何が起きているのか――
――ノイシュさん、どこ……っ
ミネアが食堂の扉を開けると、そこに義兄の後ろ姿があった。
その金色の髪と、細身の体つきが特徴的な少年――
「ノイシュさんっ、みんなはどこに――」
ミネアがそう声をかけると、義兄が素早くこちらへと振り返ってきた――
「――ミネア……ッ」
そう応える義兄の表情を見て、ミネアは手にした花々を落とした。
彼の頬には一粒の涙が溢れている。
そして彼のすぐ傍らには見知らぬ人物――僧服を着込んだ女性が立っていた。
「ミネアッ、来ちゃダメだ……っ」
義兄の強い声が耳朶を打ち、思わずミネアは身体を震わせた。
「義兄さん、その人は――」
「――従軍受諾のご署名、有り難うございます。ノイシュ様」
不意に別の声が被さり、ミネアは顔を向けた。
眼前の女神官は机上の書面を取り上げると、それを鞄の中にしまっていく。
彼女はどこか冷たい、人を突き放す雰囲気を漂わせていた。
そんな彼女の様子に嫌悪感を覚えてしまう――
「――ノイシュさん、この人達はいったい誰なんですか……っ」
思わずミネアは叫んだ。しかしその声量とは裏腹に、震えた声音をしている――
「――初めまして、お嬢さん。マギラと申します」
僧服の女性は自ら名乗ると、こちらに軽く会釈をしてきた。
「――本日はお義兄様の出征召集、ならびに孤児の皆さんを護送すべく参りました」
――ノイシュさんが、出征……っ
とっさにミネアは口許に手を当てた。思わず悲鳴を上げそうだったから――
「――孤児達を、護送って……っ」
そう告げるとミネアは再び義兄に視線を向けた。
彼が苦しそうにその両眼を閉じていく――
「――ワッツ達は、遠くの養護院に行くんだ。今日から別々の場所で暮らすんだよ……っ」
――そんな……っ
ミネアはゆっくりとかぶりを振った。あまりに突然の話で、考えが追いつかない――
「――うそっ……だって……っ」
自分の唇がわななくのを感じながらも、ミネアは懸命に声を出した。
背筋からは悪寒を覚える――
「――ずっと、一緒に暮らしてきたのに……ッ」
たまらずにミネアは奥歯を噛み締めた。
とっさに瞳から感情が溢れ出してしまう。
眼前の義兄は深くうなだれ、その掌を握りしめていく――
「――ごめんっ、ミネア……ッ」
「――彼のせいではありませんよ、ミネアさん」
突如として言葉をはさまれ、ミネアはマギラの方に振り返った。
彼女の表情はいっさい変わらないが、その瞳にはどこか憐れみの色を含んでいる――
「――ノイシュさんもつらいのです。オドリック様が戦死なされ、今度は自分が戦地に赴くのですから――」
――そんなっ、お義父さんが戦死……っ
思わずミネアは後ずさった。
あまりにも信じられない話が続き、自分の感情さえもよく分からなくなる。
これが悪い夢なら、すぐに醒めて欲しい――
――今のは……ッ
不意に乾いた物音が耳朶を打ち、ミネアは窓外へと顔を向けた。
やがてそれが鞭のしなる音だと気づく――
「――お子さん達の傍らにいなくて良いのですか、ミネアさん」
後ろからマギラの声がかかり、ミネアは振り返った。
彼女が静かにその両眼を閉じていく――
「――どうやら荷獣車が出発するみたいですよ」
――みんな……っ
とっさにミネアは床を蹴った。
急く感情のままに扉へと向かう。
そこで身体の制動に失敗し、扉の枠に腰骨を打ちつけてしまう。
痛みに耐えながら部屋を過ぎ去ると、そのまま玄関を抜け、外に飛び出した――
――荷獣車が……っ
そこでミネアは立ち止まった。
視界の先では神官の男性が獣達を操っており、次第に荷獣車が動き出していく。
自分から離れていく子供達――
「――ワッツ……ッ」
とっさにミネアは孤児達のうち、一人の名前を呼んだ。
その少年もまたゆっくりと顔を上げていく。
ワッツと視線が合い、ミネアは息を呑んだ。
背が高く、力強い普段の彼からは想像できないほどに憔悴した表情をしている。
彼は自分と同い年で、三人の孤児の中でも特に気心が知れていた。
かつて彼から、その胸の想いを告げられた事もある――
「――ミネアお姉ちゃん……っ」
不意に荷台から別の声がかかり、ミネアは視線を向けた。
そこにいるのは、まだ幼い女の子だった――
「――ルエリ……ッ」
たまらずにミネアは声を上げると、彼女を追いかけた。
「――お姉ちゃんっ、ミネアお姉ちゃん……ッ」
半狂乱になった様な声でルエリがこちらに右手を伸ばしてくる。
ミネアは追いすがるべく懸命に走るものの、獣たちもまたその速度を速めていく。
少しずつ荷獣車とこちらとの距離が、開いていく――
――ルエリ、ごめんね……ッ
遠ざかっていくルエリに向かって、ミネアは激しくかぶりを振った。
彼女はまだ八歳なのだ、おそらく自分達が離れて暮らす理由さえ分かっていないだろう。
彼女は自分を姉の様に慕ってくれていた。
ずっと、あの子と一緒にいられると思っていたのに――
「――ザザキッ、待ってッ」
ミネアは夢中になってもう一人の幼子の名を叫んだ。
しかし荷台にいるその少年はじっと動かずにいる。
ひたすら両膝に顔を埋めて、激しく全身を震わせていた。
七歳という年齢でありながら、必死に涙をこらえているのだろう。
その頑固さに普段の生活では手を焼いたが、今はその姿があまりに痛々しい――
「――来るなっ、ミネアッ」
不意に荷台から大声をかけられ、ミネアは立ち止まった。
そして荒い息を吐きながら声の先を見すえると、そこにワッツの姿が映る。
彼は黙したまま首を横に振り、こちらに別れを告げていた。
追跡する者のいなくなった荷獣車はその姿を小さくしていき、やがて見えなくなった――
――ごめんねッ、ワッツ、みんな……っ
ミネアは強く両眼を閉じた。
鼻の奥で滲みる様な痛みを覚える。
喉が痺れて苦しい――
「――ミネア……ッ」
不意に背後から自らの名前を呼ばれ、ミネアは身体を震わせた。
振り向くとそこにノイシュとマギラの姿をとらえる――
――義兄さん……ッ
「――私の事は……捨てないで……っ」
無意識にそう告げてから、ミネアは両眼を大きく広げた。
とても自分のものとは思えない、どうしようもない保身の言葉だった。
でも――
「――お願いッ、私を捨てたりしないでッ」
ミネアはその場にひざまづくと、両掌を自らの胸に当てた。
胸中では絶望と羞恥心、そして何かに対する執着が綯い交ぜになる。
自分でももう訳が分からない。
瞳から溢れていく涙は一体、何なのだろう――
――ノイシュッ、私はあなたから離れられる訳が無いから……っ
「――分かったよ、ミネア」
頭上から静かに義兄の言葉が振り注がれてくる――
「――君も、術の素質があるんだ。僕と一緒に術士学院に行こう。そして卒業したら――」
そこで義兄の言葉が途切れる。
代わりにミネアが感じたのは、自らの両肩に優しく置かれる男性らしき手のひらだった――
――この時ノイシュ十六歳、ミネア十五歳。それから三年の月日が流れた――




