70:夜の川辺
刃の冷たさを首に感じながら、クロエは彼を見上げた。月光を浴びて青ざめる男は、自嘲するように唇を歪めた。
「動じない、か。俺が手を出さないと思っているのか?」
「……ヘリオス王子」
呼びかけに、彼はぎょっとした表情で腕を震わせた。十六年ぶりに聞く本来の名だった。
死んだとされていた王子の名は隠されてはいない。クロエが知っていても不自然ではなかった。
「ヘリオス王子であれば、やるかもね。でもうちのレオンはやらないわ。彼は皮肉屋を気取っているけれど、案外お人好しなの。踏み台だのなんだの言いながら、護衛騎士の仕事もしっかりやってる。手先が器用で、お料理までしちゃう。村人から頼られて、きちんと応えている。そんな人が私を殺すとは思えないわね」
「なんだ、それは……」
「そういえば、クローバーの花で花冠を編むのも得意だったっけ。あれはエレウシスの文化?」
青い月光の下、クロエは彼を見上げた。信頼と親愛を込めた目で。
男の鋼色の瞳が揺れる。揺れて、ふと……視線が伏せられた。
「……母の趣味だよ。母の生家は、自然が豊富だったらしい。平民の子らと交じって遊ぶうち、覚えたと言っていた」
呟くような言葉は、まるで独り言のよう。
川面の光を映す鋼色の瞳は、ここではない遠い場所を見ていた。憎しみに囚われる前、幸せだった時間を。
「――そんなことは、今まで忘れていた……」
レオンの腕が力なく垂れる。剣が滑り落ちて地面に跳ねた。
クロエは一歩進んでレオンの手に触れた。ムーンローズのトゲで傷ついてしまった手を。
レオンはぎくりと身を震わせる。けれど払いのけることはしなかった。
重ねた手が温かい。そっと撫でれば、鍛え抜かれて骨ばった手の感触が伝わってくる。
復讐を唱えながら、彼の剣は彼女を何度も守ってくれた。
一度だって傷つけることはなかった。
皮肉屋で口が悪くて、主君に対する礼儀なんてこれっぽっちもなかったけれど……レオンはいつもクロエを助けてくれた。
「ありがとう、レオン」
だから自然に言葉が出た。
「……礼を言うのは、俺の方です」
クロエが目を上げると、月の光を写し込んだ鋼色の瞳にぶつかった。
「俺にとって復讐とは、呪いそのもの。逃げ場もなく追い込まれ、やるしかないのだと思い込んでいた。……だが、そうではないのかもしれないと思えた」
彼はクロエから目を外して、村の方を眺めた。
「もう消え去ったと思っていたのに、エレウシスの人々は懸命に生きていた。王と王族が不甲斐ないばかりに、要らぬ苦労をさせてしまって……国は消えたが、人は生きていた。俺はもう王子ではなく、古い血を半端に受け継ぐだけの存在。復讐以外に価値を見い出せなかったのに、そうではないと気づかせてくれた」
重ねた手に少しだけ力が入れられる。
「あなたの、おかげです。この村で皆と暮らして、それでいいのだと感じられた。額に汗して働くのも、村を守るために剣を振るうのも、誇らしい時間でした。――今はまだ、復讐心を捨てられないが。それ以上にこの村と村人の役に立てるよう在りたいと、そう思えるようになりました」
クロエが見上げた表情は、どこか少年めいた無垢さがあった。レオンという人を形作る外殻を――敵国に潜伏する警戒心や重圧、呪いである復讐心――取り払った素の顔は、案外こういうものなのかもしれないと彼女は思う。
彼がヘリオス王子のままであれば、国と家族を失う痛みを持たなければ、このままでいられたのに。
取り返しのつかない過去を思って、クロエの胸が痛んだ。しかもその原因は彼女の父が作ったものなのだ。
迷う心のままに、ぎゅっと手を握る。そっと握り返された。
「俺の左胸の黒い痣ですが」
レオンは少しためらいながら続けた。
「あれは母が死に際にかけた呪いです。エレウシスは古代王国の末裔。王家にのみ伝わる術がいくつかあり、これもその一つです。幼い頃の記憶が確かであれば、対象の心身に制約をかける術だったはず。両親はエレウシス滅亡の無念を晴らすよう、俺に言いました。王と王妃としての責任を思えば、そうする以外になかったのでしょう。だからこそ俺は、復讐を捨てていいのか今でも分からない。たとえ記憶が遠く薄れても、国はもう亡くとも、この体に流れる血は祖先と親から受け継いだもの。無いものとして打ち捨てるのは、できそうにありません」
親が子にかける呪いとしては、この上なく残酷なものだろう。
国はもう亡くとも仇は残っている。しかしもしセレスティア国王を暗殺すれば、後に待っているのは身の破滅だけだ。
レオンの過去は無かったことにはできない。世界樹の守り人の血は精霊と結びつきが強く、存在が明らかになれば救世教が消しに来る。体に呪いを背負い、心に秘密を抱えながら彼は生きていかなければならない。
「実際のところ……」
これ以上レオンを見ていられなくて、クロエは口を開いた。
「守り人の血は薄まっていないと思うわ。呪いだって関係ない。だって水の精霊の封印は解けたでしょう。火の精霊の声も聞こえたわね。たぶん、私が大地の精霊と特に結びつきが強いから、世界樹の種をもらってしまったのよ。あの精霊、ノリでそういうことしそうだったから」
「ノリで」
レオンは思わずクロエを見るが、彼女は大真面目な顔をしていた。
「そう、ノリで」
大地の精霊は秋の夜にいきなり出てきて、世界樹の種を押し付けて去っていった。おかげで大司教に目をつけられてしまった。勝手をされて、クロエは微妙に恨んでいるのである。
精霊の中でも性格が天然なのだと思っていた。『世界樹の守り人』に種子を預けないでどうするのかと。何か理由があるのなら、しっかり説明してほしかった。おかげでレオンが追い詰められる一因となったではないか。
レオンはぽかんとしていたが、やがて額を押さえて低く笑い始めた。
「くくっ……、もう真面目に考えるだけ馬鹿らしいな。まあ、大司教に警告されるまでもなく、精霊の恵みはもう十分と言える。救世教の言う通りにするのは癪だが、あとは人々の力で発展をさせるべきなのだろう」
「今回のゴルト商会の騒ぎだって、精霊は何も関係なかったもの。私たちは力を合わせて勝ったのよ。世界樹の種は眠らせておいていい」
クロエは人々の力を信じている。精霊のおかげで荒れ地が復興したから、感謝はしている。自然の化身として敬意も持っている。
精霊を友と呼ぶエレウシスの風習は尊重したい。だが彼らだって、自然への感謝と友愛を抱いているだけなのだ。
大司教ヴェルグラードが言ったように、依存だとか退化だとかが関係してくるとは思えない。
レオンを取り巻く問題はまだ解決していない。けれど彼は一歩を踏み出した。復讐よりも大事なものができたと言ってくれた。
だから。
「帰りましょうか。明日からまた、バリバリ働かないといけないから」
クロエが手を離そうとすると、握ったまま引き止められる。眉を寄せて軽く睨むと、彼は微笑んでいた。その笑みがあんまり綺麗だったので、クロエは思わず見惚れてしまう。
「あぁ、そうだな。奇跡に頼らない以上は、地道にやるしかない」
そっと指を絡ませたまま、二人は連れ立って歩き始めた。
最後に振り返ってみた川面は、紫の花弁をわずかに残してさらさらと流れていた。
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ここまでお読みくださりありがとうございます。これにて第5章は終了です。
次回は人物紹介を挟みまして、次章に続きます。
そろそろ物語も後半、終盤。話の畳み方を意識しつつ頑張って参ります。
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