65:毒と悪夢
お酒抜きの宴会は楽しい空気のうちに終わって、やがて夜がやって来た。
盗品を受け取ってしまった移民たちは、眠りまでの時間を返却する品物を調べるのに費やした。残りはまた明日やろうと話し合う。
盗賊の見張りは自警団のメンバーが交代で立つことになったが、クロエは念のため草を生やして倉庫の入口を封鎖することにした。頑丈なツタで、水分を多く含むので燃えにくい。ちょっとした錠前代わり、火事対策である。
クロエは明日以降の仕事を考えながら、ベッドに入った。盗賊の再尋問、隣町への移送。盗品の持ち主の調査と返却、消費してしまった品の金額算定。なかなか忙しくなりそうである。
今日は盗賊討伐で駆け回って疲れている。眠気はすぐにやって来た。
うとうととまどろんで――。
「!?」
ギイン! すぐ耳元で硬質な金属のぶつかる音が響いた。
見れば暗闇の中、レオンが誰かともみ合っている。黒装束に身を包み、手には刃を持っている。
「何者だ!」
レオンが叫ぶが答えはない。
何度か切り結び、そのたびに鈍い音が響く。暗い中なのでクロエには様子がよく見えない。明かりを点けようとして、標的になってはいけないと思い直した。
「ぐっ」
低いうめき声が聞こえる。どうやらレオンが黒装束に一撃を与えたようだ。闇の中、白刃の輝きが微かに光る。
次いでヒュッ――と空を切る音。クロエから少し離れた場所に、ナイフが突き刺さる。投げナイフだ。クロエの背中に冷や汗が伝った。
レオンは投げナイフの刃の光の反射を頼りに回避し、叩き落とす。
「――チッ!」
ところがそのうちの一本、黒く刃を塗ったものを避けそこねてしまった。ナイフは彼の上腕をかすめて、天幕の布に突き刺さった。
黒装束の気配が遠ざかる。明かりを点けた先には、血の跡が残っていた。かなりの出血量だ。黒装束は相応の深手を負ったらしい。
「罠かもしれませんが、追跡します。殿下は動かないように」
「傷は大丈夫なの?」
「かすり傷です、問題ありません」
レオンは天幕を出ようとして――がくりと膝をついた。
「レオン!?」
「しまった……毒か」
呟いた彼の額には、びっしりと汗が浮かんでいる。クロエは慌てて腕の傷を見た。傷自体は浅いが、皮膚が気味の悪い紫色に変色していた。
「すぐにザフィーラを呼ぶわ! 大丈夫、絶対に助けるから!」
クロエの必死の声を聞きながら、レオンは意識が急速に遠のくのを感じて地面に倒れ伏した。
+++
レオンは暗闇を歩いている。視線を上げると、遠くに炎の赤い光が見える。夜闇の底を炙るような、地獄の釜を開けたような色。
炎が舞い踊り、兵士たちの鬨の声が響く。市民たちの断末魔の悲鳴が聞こえる。
(またこの夢か)
実に馴染んだ光景だった。かつては毎日のようにうなされた、幼い頃の夢。
そういえば、いつ頃からか――思うに荒れ地の村が復興し始めた辺りから、悪夢は間遠くなっていた。
夢の中の炎は故郷を焼く。同胞たちが逃げ惑い、生きながら焼け死ぬ悲鳴を内包しながら。
火の手は市街地を回り大通りを駆け上って、やがて王宮へと行き着いた。いつもと同じように。
『もはやここまで』
小さな彼を抱く手が震えている。
『ヘリオス。母は命を絶ちますが、お前は生きなさい。生きてあの者どもに復讐を。命の限り、必ずや、父母と国の無念を晴らすのです』
母の手が彼をきつく抱きしめる。
復讐を。生きて復讐を。
繰り返される言葉は呪いだった。これからの彼の人生を縛る呪いだった。
彼は母の顔を見ようと目を上げるが、まるで黒く塗りつぶされたよう。何も見えず、ただ呪いの言葉だけが響いている。
母は彼の胸に手を押し当てた。焼けるように熱くて黒い何かが刻まれていく。熱くて熱くて……吐き気がする。
――復讐を。セレスティアに報いを。
――そのためにお前は生きる。
火の手が回る。赤と黒に染まった視界は、悪夢そのもの。
『ヘリオス様、こちらへ』
誰かが彼の手を引いて住み慣れた王宮から離れていく。振り返った先は、夜闇の底を炙るような、地獄の釜を開けたような色。
強い恐怖のためか、はたまた呪いのためか。気づけば黒かった頭髪は、色が抜けたような白に変わっていた。
その日から彼は本来の名前を奪われて、敵国に潜伏して暮らすようになった。与えられた呪いの通り、復讐だけを胸に抱きながら。
子爵家の三男の身分を与えられ、王族に近づくために護衛騎士を目指した。復讐するために、そしてその末に破滅するために、剣の腕を磨いて無意味な努力を繰り返した。
(あぁ――いつもの悪夢、だ)
けれども一つだけ、いつもと違う点があった。焼け付く炎の熱がだんだんと引いて、遠ざかっていくのだ。いつもであれば目覚めるまでひどく熱くて、息苦しいほどなのに。
誰かが彼の名を呼んでいる。本来の名ではなく、偽りの名であるレオンを。
その声はまっすぐで、彼の心に染み渡り、混濁する意識を引き上げてくれた。
炎の熱はもう遠い。呼び声を道しるべに、彼は歩いていく――。
+++
毒の熱に浮かされるレオンを、クロエは必死に看病した。ザフィーラの助言に従いたくさんの薬草を生やしては、煎じて飲ませ、あるいは傷口に染み込ませた。
一つの薬草が効果を発揮し、レオンは大量の汗をかき始めた。
「効いたようです。汗が出れば解毒が進むでしょう」
ザフィーラの言葉にほっと胸を撫で下ろす。
レオンの全身が汗で汚れてしまったので、上着を脱がせて汗を拭くことにした。
「クロエ様、わしがやりますぞ。何も若い乙女である貴方様が、殿方の肌に触れなくても」
「今更でしょ。レオンは私の護衛騎士だもの。後でうんと恩を売ってやるんだから」
照れる気持ちがないでもない。だがそれ以上にレオンは苦しそうで、そんなことを言っている場合ではないとクロエは考えた。
医療行為、これは医療行為と自分に言い聞かせながら脱がせる。
鍛えてしっかりと筋肉がついた上半身があらわになると、クロエはさすがに赤面して手を止めた。ザフィーラがむず痒そうな顔をしていて、余計に意識してしまう。
ところが。
「……これは」
汗にまみれた体の一点、心臓の周囲に黒い痣があった。それは黒いバラの花のようで、左胸から肩の近くまでを覆っている。
はっきりした紋様は何かの意図を感じた。ただの痣とは思えない。
「何かしら……。毒と関係ある?」
「いいえ、毒ではありません。文字のようにも見えますが」
「確かに。古代文字にちょっと似ている……?」
クロエは古代文字を読めない。学んでおけばよかったと後悔しながら、今となってはどうしようもない。
薬湯に浸して固く絞った布で、レオンの体を拭いていく。
服を着せる前、もう一度見た紋様は、心臓を縛るように護るように絡め取っているかのような印象を受けた。




