29:秋の夕暮れ
「あなた様がクロエ様? ええ、第一王女殿下が領主として封じられた話は、聞き及んでおります。――申し遅れました。僕はフリオ、行商人をしています。去年までは荒れ地の村へちょくちょく商品を持って行っていたのですが、今年はちょっと……、他の場所の商売で失敗してしまいまして。荒れ地まで足を伸ばす余裕がなかったのです」
フリオはへにゃりと眉尻を下げた。
「ずっと気にかかっていました。あの村は、僕以外の商人はあまり行きたがりません。必要な品が不足してるんじゃないかって」
「クロエ様、フリオさんは割安な値段で色んなものを売ってくれました。ずいぶん助かったんですよ」
村人の言にフリオは首を振る。
「損はしない範囲でやっていますよ。僕だって商人ですからね。それに今年の初めに顔を出して以来、行商に行けなかったし。やっと余裕ができたので、そろそろ行こうと思ってたんです」
塩や日用品を売って、秋の作物を買い入れるつもりでしたとフリオは続けた。
「私を避けていたわけではないのね?」
クロエが少し意地の悪い口調で言えば、フリオはぶんぶんと首を横に振った。
「とんでもない! 王女殿下が領主となった話を聞いて、是非ご挨拶をと思っておりました」
クロエは無能の烙印を押されて荒れ地に追いやられた。王族からすると不名誉な話なので、あまり表沙汰にはされていない。現に代官はよく知らずに村へやって来た。
だがフリオはしっかりと情報を掴んでいたようだ。
「私は追放された身だから。すり寄っても大して良いことはないわよ?」
「僕は元々、貴族様と取引をするような商人じゃありません。村の代表となる方に顔を通したかっただけですよ。……ところで、そのご様子だともう買い物は済まされました?」
フリオは村人たちが持っている荷物を見た。主にたくさんの薪である。
「数日中に荒れ地の村へ向かう予定だったのですが、不要でしょうか」
「いえ、欲しいものはまだあるの。ただ、今は手持ちがなくてね。少ししたらまとまったお金が入る予定だから、後で来てくれるかしら?」
「もちろんです。僕の荷馬車は小型ですが、載せられる分はしっかりと持っていきますよ」
「じゃあリストを伝えるわ」
クロエが一通りを伝えると、フリオは意外そうに目を見開いている。
「農具と土木用具ですか? それなりの価格になりますが、その……」
「お金の心配なら要らないわ。これでも領主よ? それよりも、今はまだ騒ぎにしたくないの。荒れ地の村が変わりつつあること、話を大きくしないで調達してもらえる?」
「はい、お任せください。懇意にしている鍛冶屋がありますので、詮索されずに仕入れられます」
「助かるわ」
クロエたちの荷馬車はオンボロで、重い農具類を運ぶのは不安があった。その意味でもフリオに出会って幸運だったと言えるだろう。
商品の搬入日などを決めて、クロエたちは村へと戻ることにした。
クロエたちが不在の間も村では収穫が進んで、作物が倉庫にたくさん積まれていた。
カボチャ、人参、玉ねぎ、大根とカブ。夏から引き続いて豆類も豊富に採れた。
秋野菜はそのままでも日持ちするものが多い。倉庫を満たした野菜を見て、村長が満足のため息をついた。
「これだけあれば、今年の冬は安泰だ。これほど豊作だったのは、荒れ地に来てから初めてだよ」
村人たちは頷き、アオルシも嬉しそうな笑顔になる。
「俺もいっぱい野菜が食えて嬉しいよ。それに、魔羊と魔牛がいるからね。乳とチーズもたっぷりさ」
「おぉ、そうだな。今年は腹を減らす暇もないかもしれん」
みんな笑った。幸せな笑顔だった。
村で採れた塩を使って、野菜料理が振る舞われる。具沢山のスープに、牛乳で煮込んだシチュー。シンプルにチーズを乗せて焼いたものも美味しい。麦粥は通常のものとミルク粥が作られた。
アオルシは魔羊一頭を肉にして、村人たちに振る舞った。
今の村には豊富な塩がある。後ほど腸詰めのソーセージやベーコンに加工して、冬の保存食にする予定だ。
人々は自然と輪になって、自らの手で育て上げた秋野菜と魔羊の肉に舌鼓を打った。
夕暮れ時になると、村の広場に焚き火が灯された。
普段は薪の節約のため、日暮れとともに人々は家に引っ込んでしまう。でも今日は特別だった。
「大地と水の恵みに感謝を」
焚き火の明かりに照らされて、村長が目を閉じる。ぱち、ぱち……と炎の爆ぜる音がした。
「今年は水が湧き出て、荒れ地に緑が広がった。全ては精霊の……いいや、クロエ様のおかげだ」
「精霊の、と言っていいのよ。ここには私たちしかいないのだから」
夕闇の中でクロエは微笑む。
村人たちの祈りは素朴で、自然体だった。荒れ地の厳しい環境への畏怖と、今年の実りへの感謝が感じられる。
(どうして精霊は邪悪な存在と言われるのかしら)
クロエはふと考えた。セレスティア王国に生まれた彼女にとって、精霊イコール悪魔説を唱える救世教は身近な存在。精霊と呼ばれる存在に接したこともなく、疑いを抱いて来なかった。
(救世教の教義では、精霊は人をたぶらかして堕落させると言われているけれど……)
水源で見た水の精霊。光り輝く姿をしたアレは、いっそ神々しいほどだった。クロエに『愛し子』と呼びかけた声音は、愛情すら感じられた。
村人たちが焚き火の周りに野菜や料理、肉を置いた。少し下がって膝をつき、手を胸の前で組み合わせている。
「大地よ、水よ。恵みに感謝いたします。どうぞ捧げ物を受け取ってください」
焚き火に野菜と料理、肉の一部を投げ込む。燃え盛る炎はそれらを飲み込んで、赤々とした光を放った。
「エレウシスの古い慣習でな。畑で取れた作物は、少しだけ大地に返すんだよ」
村長が静かに言う。
「今までは食うだけで精一杯で、返すことはできなかった。こうして大地に感謝したのは、ずいぶんと久しぶりだ。このささやかな習慣をペリテや他の子どもらに見せてやれて、俺は嬉しい」
「わたしもですよ。先祖の習いも、ここで途切れてしまうと思っていたのに」
村長の妻が頷いた。
「大地が、野菜を食べるの? お肉も?」
ペリテは不思議そうだ。
「わたしたちの感謝の気持ちを受け取ってもらうのよ。今年一年、ありがとうございました。また来年もわたしたちを生かしてください、とね……」
「ふうん? よく分かんないけど、土がないと野菜や麦ができないもんね。羊さんの草も生えないよね。大地さん、ありがとー!」
「ありがとうー!」
村人たちが唱和する。彼らが囲む焚き火は揺らめいて、温かな光で宵闇を照らしていた。




