117:エピローグ
北の土地は、村人たちが戻ってきた。短い期間の避難だったので、誰一人欠けることのない帰還である。
村長とロイド、移民のリーダーがよく取りまとめてくれて、大きなトラブルは起きなかった。
「クロエ様! ただいま!」
「おかえり、ペリテ」
ペリテが走り寄って、抱きついてくる。出会った当初は幼児のように小さかったのに、もう十一歳。背もぐんと伸びて、少女らしくなった。
「みんなで力を合わせて、避難先でも元気にしていたよ。牛さんと羊さんもいい子だった」
ペリテが振り返ると、動物たちを連れたアオルシが手を振っている。
「クロエ様。女王に就任すると聞きました。おめでとうございます」
「おめでとう。もう姫さんと呼べなくなるなあ」
ロイドと村長もやって来る。
「あれ? レオン様は?」
周囲を見回すペリテに、クロエは微笑んだ。
「ちょっとだけ別行動をしているの。大丈夫、必ずまた会えるわ」
「そっか。クロエ様が女王様になるから、色々忙しいもんね」
ペリテはにかりと笑う。
北の村は何も変わらない。ここはクロエの第二の故郷だ。
心が温まるのを感じながら、クロエは決意を新たにした。
翌年、クロエは正式にセレスティア女王となった。
戴冠式の日に、新女王は宣言する。
「私はセレスティア女王、クロエ・ケレス・セレスティア。しかしながら古い王国の慣習にとらわれず、新たな国造りをいたします。まずは憲法の制定と議会制の導入。貴族と平民の区別なく、能力と気概のある者に門戸を開き、国政に力を尽くしてもらいます」
セレスティア王国という古い器に、立憲君主制という新しい酒を注ぐ。
大きな変化である。それだけに混乱も起こるだろう。
特に議会を構成する議員のパワーバランスは、慎重に見ていかなければならない。かつてのように貴族ばかりではいけないし、今の平民では意識と教養が足りないのだ。教育が必要だった。
「憲法の草案は用意しました。これから議論を尽くして細部を決めていきます――」
憲法の基本は王権を制限するもの。クロエは権力を乱用するつもりはないが、過去の国王は横暴な者がいた。未来にそういった王が出ないとは限らない。
王権を弱めて議会を盛り立てる。時間をかけて国民の意識を育んで、いずれは王がいなくても国が立ち行くようにしたい。
誰もが自分自身の主でいられるよう、社会を整えていきたいとクロエは考えている。
「新たな国の名は、『新生セレスティア王国』。他者との違いを越えて、互いに互いを思いやる。その心を国の基本とします」
そうして彼女は走り出した。あの日、消えゆく精霊の森で交わした約束を守るために。魂を燃やした熱でもって、胸に宿る花を咲かせるために。
何よりも彼女自身の思いのために。胸を張って彼を迎えに行けるように。走り続けた。
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あれから何年が経ったのだろう、と、クロエは思う。
少女だった彼女は、今ではすっかり大人の女性になった。蜂蜜色の髪は長く伸びて、美しく結い上げられている。若草の瞳は深くなり、知性と優しさの光で誰もを魅了する。
息つく間もなく駆け抜けた歳月だった。大変だったし、辛いこともあった。それでも歩みを止めるつもりはない。
――季節は春。もうずいぶん昔になってしまった十五歳の年、王都を追放されて北へと向かった季節。
青い水をたたえる湖畔を、ただ一人で歩いていく。涼し気な風が吹いて、湖面にゆるやかな波紋を描いた。
湖の中央には、草木の茂る中島が見える。橋も船もなく、渡る手段はない。
「さて。久々にやるとしましょう」
クロエは湖に向かって立ち、息を大きく吸い込んだ。
「おーっほほほほ! 草ですわ! 草生えますわ~!!」
にょきにょき! ぴょこぴょこ!
高笑いを上げれば、湖底から水草がどんどん顔を出した。草は互いに絡まって、しっかりとした足場を作る。
「うん、いい感じ。水草たち、ご苦労さま」
クロエは水草の橋を踏み、軽やかな足取りで渡っていった。目指すは中島。かつて水の精霊が眠り、世界樹が芽吹いた場所である。
今は静かなその場所に立って、クロエは目を閉じた。
やり方はもう分かっている。
思いのままに、心を解き放つ。
胸に宿る世界樹の枝が、新たな変化の兆しに震えた。何年もの時を駆け抜けたクロエの魂の熱が、固い蕾を花開かせようとしている。
それは芽吹きに比べれば、ごく小さな変化。たった一輪の花が咲くだけの、小さな小さな奇跡。
けれどクロエが心から待ち望んだ瞬間だった。
やがて蕾はほころんで、純白の美しい花弁が開いた。花はクロエの胸の前に咲いて、奇跡の到来を告げる。
見事に咲いた花に導かれるように、細い――まるで糸のようなかぼそい魔力が、天から降ってくる。あまりにわずかな、人間一人分がやっとの量。
一滴の魔力は、やがて人の姿を取った。懐かしく、追い求めていた青年の姿を。
最初、彼は眠っているように見えた。樹木の根元にもたれかかって、目を閉じている。
「……レオン?」
震える声で名を呼べば、彼はゆっくりと目を開けた。現れたのは、変わらない鋼色。
「クロエ?」
ぼんやりとした様子で戸惑っている。
「良かった……! 会いたかった。ずっと!」
涙を浮かべるクロエを見て、レオンは怪訝そうな顔をした。
「本当にクロエなのか? いつもと様子が違う。何だかひどく……綺麗だ」
妙に実感のこもった言い方に、クロエは噴き出した。
「失礼ね、それじゃあ昔の私が綺麗じゃなかったみたいでしょ」
「昔?」
「そうよ。あれから何年も経ったの。あの時と何も変わらないあなたより、今じゃ私の方が年上よ」
「なんだって……」
立ち上がろうとしたレオンは、足に力が入らずよろめいた。
支えるために手を差し出して、クロエは笑う。
「積もる話がたくさんあるわ。あなたに聞いて欲しくて、ずっと我慢していたんだから。今度こそ最後まで付き合ってよね」
差し出された手を取って、レオンは心から笑う。
「ああ、もちろんだ。もう……離れることはないよ」
クロエの理想は未だ道半ば。立憲君主制が始まった新生セレスティア王国は、まだまだ問題が多い。
一人ではくじけそうになった時もあった。約束だけを支えに進んでいた。
でも、これからは二人でいられる。支え合って生きていける。
もう奇跡は必要ない。
生命の力の軌跡が、この世界を形作っていくことだろう。
――終
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これにて本編完結です。最後までお読みいただきありがとうございました。
少し間を開けて番外編をいくつか投稿予定です。
番外編はアオルシとペリテの羊旅とか、ヴェルグラードの姪の旅路をぼんやりと考えています。
最後になりましたが、完結記念にブクマや評価をいただけると嬉しいです。評価は画面下、★5つで満点です。
既にくださっている方はありがとうございます。
感想と合わせまして、応援してくださった皆様のおかげで完結まで持っていけました。
それでは、また。




