116:世界樹の花
大地の精霊は世界樹の枝を手折って、クロエに手渡した。
世界樹の種子を受け取った時と同じように、花芽のついた枝は胸に吸い込まれていく。
『世界樹は、これから……我らとともに、精霊界に……還る。だが、お前が……その枝を、持っていれば……。つながりが、完全に……切れることは……ない』
クロエの胸の中の枝は、温かな魔力を放っていた。種子の時と同じく、種子の時よりも優しく。クロエの思いに応えるように。
『いつか、花を……咲かせて、みせろ……。お前が、……精一杯生きて……思いを……叶えた時。きっと、花は……咲くだろう……』
『花が咲いた時、もう一度だけ精霊界とこの世界をつなぎます。それまで守り人の魂は、私たちが預かりましょう』
水の精霊も微笑んでいる。
『精霊界とこの世は、時間の感覚が違う。お前たちの世界じゃ長い時でも、こっちは一瞬さ』
『そういうことだ。守り人はうたた寝から覚めたら、お前が迎えに来たような気持ちになるだろうな』
火と風の精霊も口々に言った。
クロエは彼らを見回して、ぎゅっと手を握る。
「私がしっかりと生きればいいのね。理想を叶えて、叶えられずとも目指し続ければ、いつか花は咲くのね?」
『あぁ……そうだ……』
『大事なのは、命と魂の輝き』
『お前は世界樹の種子を温めて、見事に芽吹かせた。きっとできる』
「分かったわ」
精霊たちの言葉を受けて、クロエは力強く頷いた。
「必ずやり遂げてみせる。人々が幸せに暮らす国造りも、レオンを取り戻すのも。全部ぜんぶ諦めないで、手に入れてやるんだから!」
世界樹が一際強い光を放った。精霊界から降りていた魔力が、次々に空へと還っていく。
四大精霊と小さな精霊たちが虹色の光に包まれて、輪郭を溶かしていく。
「ありがとう、精霊たち。世界樹。また会いましょう!」
世界樹を中心に光の柱が立ち上った。あまりの眩しさにクロエは目を閉じる。
温かな魔力の奔流が巻き起こり――やがてそれが収まった後には、森は消え去って、元の湖だけが静かに水をたたえていた。
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それからのクロエは精力的に動いた。
魔道帝国から証言を取り付けて、魔力の逆流災害が終息したと発表。帝国の魔力測定器により、北の土地から莫大な魔力干渉が起きて、災害が消し止められたことを証明をした。これにはヘルフリートが全面的に協力をした。
クロエは帝国に大きな貸しを作った形になる。
ヘルフリートは元老院の反対を押し切って、帝国の責任を記した文書を作成し、クロエに預けた。クロエとしては当面の間表沙汰にするつもりはないが、魔晶核と魔道回路の開発抑制に効果を発揮するだろう。
不作と飢饉の傷がまだ残る中、帝国の台頭を抑えられるのは大きい。
文書を手渡す時のヘルフリートの表情は、決意と少しばかりの寂しさが伺えた。
「クロエ。僕、今度こそもっと上手くやるよ。魔晶核の技術の危険性を明らかにして、可能な限り破棄する。魔道科学の違う方向性を探ってみる。今回の事故と、古代王国とヴェルグラードの悲劇を繰り返したくないから」
「ええ、そうね。あなたのような人がいれば、たとえ間違いを犯しても、また歩いていけると思うわ」
王太子は最後まで精霊を認めず、クロエともども悪魔と罵っていた。
しかし精霊の森で光の奇跡を目の当たりにした兵士と騎士たちは、王太子から離反。孤立無援となった兄にクロエは和解を提示するも、拒否される。
やがて王太子が精神を不安定化させたので、王族としての権利を剥奪の上、王宮の奥の塔に幽閉となった。
「あんなのでも兄だからね。説得は続けるつもり」
「はい……」
クロエの言葉を聞いて、弟のサルトは神妙に頷いた。彼としては、姉を傷つけ続けた兄が嫌いだ。でも他ならぬ姉が言うのだし、父王も家族の情を切り捨てられないでいる。
弟として、もう一度話をしてみようと思った。
セレスティア王はすっかり老け込んで、健康を害してしまった。
飢饉は脱したものの、それまで無理矢理に飲み込んでいたエレウシス戦争の罪悪感と、罪のないクロエを追放して苦労させた後悔が精神の負担としてのしかかっている。
最後の仕事として、厳しい労役を課されていた旧エレウシス人の解放を決めた後、クロエに王位を譲ると発表した。
新しい女王を、民衆は熱狂的に迎えた。
クロエは若く美しく才気にあふれており、何よりも飢饉から大陸を救った救世主。風の精霊を従えた姿は、王都の人々の多くが目にしている。
誰が呼んだか『悪魔使いの女王』。悪魔よりももっとすごい存在として、子どもから大人まで熱心なファンが増えた。
「悪魔使いですって! 人聞きが悪すぎるわ!」
クロエはおかんむりだが、周囲は笑っている。悪魔と恐れるばかりではなく、笑い飛ばす余裕ができている。精霊が悪魔だという認識は完全に消えなかったものの、この一件で相当に薄れた。
救世教は大司教を失い、混乱に陥った。
大司教の後釜を狙う者、生存を信じて帰還を祈る者。ヴェルグラードという絶対的なカリスマが消えたことで、分裂が始まった。
クロエは穏健派の有力人物に接触し、後ろ盾になる代わりにセレスティアとの対立を避けるよう交渉。当初はなかなか信頼を得られなかったが、ヴェルグラードの最期を話したところ、彼は深い溜め息をついた。
「大司教様は、最期まで理想に殉じられたのですね……。あのお方が千年を生きた古代人とは、にわかに信じられません。でも、腑に落ちる点は多い。今までの疑問が解ける思いです。そして、努力を重んじる教義が間違っているとは思いません。ただ……精霊については、少し考える必要がある」
そう言って、少しばかりの譲歩をしてくれた。
その後の救世教は過激派と穏健派に分裂するが、穏健派のリーダーにその人物が就任。セレスティアと対立せず、過激派を牽制してくれた。




