114:千年の終わり
「レオン!」
「来るな!」
思わず足を踏み出しかけたクロエを、レオンは止めた。
クロエは世界樹の育み手。まだ若い世界樹が彼女を失えば、存在が不安定化してしまう。
クロエも理解している。だがレオンが負ければ、次は彼女が殺される。
(どうしたらいいの)
世界樹は、クロエの思いに応えて急激な成長を遂げた。流石にこれ以上の成長は、負担がかかりすぎる。
(レオンの力になりたい。そのためには)
クロエは世界樹を振り仰いだ。若木ながらも精霊界の魔力に満ち満ちたそれを。
「世界樹。もう少しだけ力を貸して」
枝先に触れれば、莫大な魔力が流れ込んでくる。人の器を超えた、この世のものではない性質の力が。
強すぎる力によって、体の変質が始まった。ヴェルグラードがそうだったように、魔力に耐えられるだけの肉体に変わろうとしている。
苦痛はない。ただ、自分が人間ではなくなってしまう恐怖だけがある。
もしも本当に人でなくなれば、もう村に帰ることはできない。女王となって国を導くこともできない。
クロエはあくまで一人の人間として、色んなことをやりたかった。永遠に近い寿命や強すぎる魔力があれば、人々に悪影響を及ぼすだろう。ヴェルグラードが言うような依存を引き起こしたり、あるいはクロエ自身の考えが歪む時が来るかもしれない。
もしそうなってしまったら、ヴェルグラードのように正体を偽るか、世捨て人のように生きるか。
どちらも嫌だった。変わりたくなんてなかった。――それでも。
変質の恐ろしさを噛み殺して、クロエは魔力を流し続ける。
願うのは、精霊の森と守り人にさらなる力を与えること。古い灰色の血に打ち勝つ力を得ること。
若木の世界樹と一体となって、精霊界との結びつきを強める。
光が弾けた。
枯れかけた木々と草が命を吹き返し、また伸びていく。
それらの力を一身に受けて、レオンの剣が輝く。光をまとうのではなく、光そのものへと変わった。
「何だと!?」
ヴェルグラードの声に、初めて焦りが滲んだ。
虹色の光は力強く広がって、灰色の闇を完全に飲み込んだ。
「終わりにしよう、ヴェルグラード。エリュシオンの最後の守り人」
そう言ったのは、誰だったろうか。
光の剣は錫杖を折り、ヴェルグラードの胸に突き刺さった。
光の刃は灰色の男の心臓を貫いて、その体を世界樹の根本に縫い留める。
「がはっ……!」
ヴェルグラードが血を吐いた。既に人ならぬ身でありながら、血は今でも赤。その皮肉。
逆流の力は、若木とクロエの二人分の力を受けて、完全に封殺されている。
ぴしり、小さな音がした。
心臓を中心に無数のヒビが走る。千年の時を生き続けた彼の肉体が、相反する虹色の魔力に飲まれて崩壊を始めたのだ。
「――おやおや。勝てると思ったんですけどねぇ」
さらさらと崩れ始めた己の手を見て、彼は苦笑した。
ヴェルグラードが見上げた先は、クロエとレオンの姿。クロエに視線を移し、言葉を投げかける。
「世界樹と一体化するということは、精霊と化すということ。クロエ王女、あなたは人間を辞めるのですか」
「辞めたくなんかなかったけどね。負けたら全部台無しだもの、仕方ないでしょ」
「それで、これからどうするんです。今のあなたは、四大精霊にも匹敵する存在だ。その莫大な力があれば、あらゆる望みが叶うでしょう。大地の眠りを癒やして、セレスティア王国を統一。何なら大陸全てを手中に収めるのも可能ですが」
クロエは光に包まれたまま肩をすくめた。
「セレスティアはともかく、大陸全部はいらないわ。さすがに手に余るもの。ま、とりあえずは大地の眠りを解消しなきゃ」
「クロエ王女」
体の半ば以上を崩れさせながら、ヴェルグラードは声を絞り出した。傲慢だった瞳に真摯なものを見つけて、クロエは立ち止まる。
「今となってはもう、伏して願うしかありません。その力、どうかこれ以上使わないで欲しい。人々を依存させてはいけない。彼らから生きる力を奪わないでくれ――」
クロエは近くまで歩み寄って、彼を見下ろした。
「黙って聞いていれば、ずいぶん人聞きが悪いわね。私は王女。いずれ女王になるはずだった。国を統治するの」
「その統治とは、絶対的な支配ですか? 人ならぬ力で押さえつけ、民を搾取するものだと?」
「まったく失礼だわ! あなた、私のこと評価してたんじゃなかったの? 私の理想は、違う文化、違う出自の人々が協力しあって幸せになる国よ。そのためにはそれぞれが考えて、話し合いを重ねないといけない。誰かに丸投げしないで、きちんと自分で生き方を選ぶのよ。そんな国を作るために、危機を脱するために、精霊の力を借りるの。文句ある?」
「ふ……あはは!」
ヴェルグラードは笑った。心臓と肺が半ば崩れているために、ひゅうひゅうと苦しげな息を吐きながら。
「それはそれで、理想論にすぎる。民衆とは愚かなものだ。自主性に任せるばかりでは、いつか揺り戻しが来るでしょう」
「じゃあ、その時にまた軌道修正すればいいわ」
クロエは胸を張る。ゴルト商会の陰謀に巻き込まれた時、村は分断されかけた。けれど人々は踏みとどまって、最後には勝利をもぎ取ったのだ。
ヴェルグラードは唇の端を歪めた。
「永遠の命を持つ、あなたの主導で?」
「いいえ、まさか」
クロエは首を横に振った。
永遠の命と強すぎる力を持つ存在。それは一歩間違えれば、『神』になる。神頼みはクロエの理想に反するのだ。
地に足をつけて、自らの力で人生を切り開いて欲しい。
人任せにせず、自分の意見と考えを持っていて欲しい。
生きるのを諦めないで欲しい。
そのための社会、環境を作る。
結局のところ、目指す先はクロエもヴェルグラードも同じだった。
目的が同じなのに、手段が違った。その違いがどうしても相容れなくて、この結果になったのだった。
「ヴェルグラード」
彼女は言う。
「私は理想を叶えるわ。神ではなく、人として。あなたの言う地獄は、もう来ない。だから安心しなさい」
「…………」
ヴェルグラードは答えない。否、もう答えられない。体の崩壊は喉と頭部に達して、既に声は出なかった。
ただ最後に微笑んだ。皮肉でも作り物でもない、心からの笑みのように――クロエには見えた。




