111:エリュシオン王国2
「おじさま! おじさま、しっかりして!」
姪の声でヴェルグラードは目を開けた。
ゆっくりと身を起こす。
すぐ先には枯死した世界樹があった。周囲は荒れ果てており、つい先程まで存在した豊かな森の面影はない。
「私は死ななかった、のか」
立ち上がろうとして、体内に異様な魔力を感じた。命を奪う魔力の逆流、その渦が彼の中で蠢いている。世界樹と精霊の森を飲み込んで死に至らしめた莫大な魔力、その一部。たった一部ではあるけれど、人間が持つ魔力の量ではなかった。
「おじさま。よかった、ご無事で」
「……エリュシオンはどうなった?」
「精霊機構が全て止まって、大混乱に陥っています。食料生産が止まってしまったので、備蓄はすぐに尽きるでしょう」
姪が悲しそうに目を伏せた。
「そうか。これからは精霊機構に頼らず、昔のように人の手で田畑を耕して生きていくべきだ。耕作地に人々を連れて行かなければ」
ヴェルグラードとしても、全くの無策で国を壊すつもりはなかった。最低限の田畑や住居などを作って、その土地で暮らしてもらうつもりだった。
とはいえ、そのような手段で養える人口は限られている。国民の大多数が飢え死ぬだろう。それを覚悟の上だった。
「ぬるま湯の中で生きる力を失ったのであれば、苦境に追い込むことで生存本能を取り戻す。そうだろう?」
問いかければ、姪と仲間たちは唇を引き結ぶ。
「はい。でも、本当に正しかったのでしょうか……」
町の混乱を見てきた彼女は、迷うように首を振った。そんな姪の髪を撫でてやろうとして、ヴェルグラードは手を止めた。彼の中では命を奪う魔力が渦巻いている。触れれば良くないことが起きると、直感で感じた。
「おじさま?」
「何でもない。さあ、行こう。新たな苦難の時代を生き延びなければ」
そうして彼らは歩み始めた。混乱と大量死と悲劇の災害の幕開けを。
精霊機構の喪失はエリュシオン王国に、つまりは人類全体に大打撃を与えた。
各地のネットワークは分断されて、今起きていることの把握もままならない。食料の備蓄はすぐに尽きて、町では餓死者が相次いだ。与えられるままに生きてきた人々にとって、あまりに過酷な環境だった。
それらの惨状を目の当たりにして、ヴェルグラードの仲間たちからも疑問の声が上がった。特に姪は心を痛めて、自分の食べ物を分け与えていた。
「やめなさい。お前のものを分け与えたとて、何人分にもならない。生き延びることを第一に考えるんだ」
「おじさま。わたしたちは、人々を救うためにこんなことをしたんですよね。頭で分かっていたはずなのに、いざ起きてしまうと苦しいんです。わたしたちのせいで、ここまでの死者が出た。どうしたらいいんだろう……」
「…………」
姪はまだ十代半ば。ヴェルグラードの理想をどこまで正確に理解していたか分からない。
叔父の語る危機に乗せられてしまった面はある。
「お前が過剰に責任を感じることはない。真に責任を取るべきは、我々大人だ。国と国民の退化を招いた者と、この大破壊を起こした私。この両者こそが最も責められるべきだよ」
「……はい。でもわたしは、できることをもっと考えたいんです」
用意した耕作地は周囲が荒れ地に変わったことで、細々とした収穫しかできず、さらに被害を拡大させた。
荒れ地となった土地の冬は厳しく、冬を越せずに死んだ人が多く出た。ヴェルグラードの仲間であっても例外ではなかった。
「お前のせいでこんなことに!」
身内をなくした国民から、ヴェルグラードは悪鬼のごとく罵られた。石を投げられ、唾を吐かれることも日常茶飯事だった。彼はそれを全て当然のものとして受け入れた。むしろ怒りと憎しみをむき出しにする民衆に対し、無気力よりもよほど良いと感じたくらいだった。
一方で命を奪われるほどの危害は加えられなかった。というのも彼の体は変質しており、少しばかりの暴力で傷つくことはなかったからである。たとえ殺すつもりで加害されても、ヴェルグラード自身が死を受け入れても、死ねない体になっていた。
数年が過ぎた頃、大陸の人口は実に九割が命を落としていた。残り一割の多くはヴェルグラードの元にいたが、ある日、姪が言った。
「おじさま。わたし、仲の良い人を連れて西に行こうと思います」
「西に……? 何故だ。ここにいれば最低限の畑作ができる。この時代に旅をするなど、死にに行くようなものだろう」
「西には海がありますよね。海まで出れば漁ができる。ここの畑だけでは、食べ物が足りませんから」
姪の言った通り、世界樹の枯死から数年後の今でも死者は出続けている。彼女はいわば口減らしに志願したのだと理解して、ヴェルグラードは黙った。
「羊を少しだけ、もらっていっていいでしょうか。あの子たちは草が生えている場所が分かる。水の気配にも敏感です。旅の助けになると思って」
「ああ、いいよ。連れていきなさい」
羊や豚などの家畜は、大切な資産だ。それでもヴェルグラードは姪に羊を何頭か与えた。この頃の人々は一致団結して生きており、姪の意図は正確に理解されて、文句は出なかった。
「それじゃあ、行ってきます」
出発の日。人々と羊を引き連れて、姪は別れを告げる。
懐には、かつてのエリュシオン王家の象徴だったムーンローズの種子を忍ばせて。
「生き延びる意思を、決して忘れないように」
ヴェルグラードが言えば、彼女は微笑んだ。
「もちろんです。あれだけの悲劇を生んだわたしたちには、責任がある。簡単に死んでたまるものですか」
現実的に考えれば、わずかな羊だけを連れた長旅は自殺行為に等しい。だが明るく笑う彼女を見ていると、皆、本当に西の海までたどり着けるような気がしていた。
荒れ地を旅した彼女が遊牧民とエレウシス王国の祖となったのは、また別の話である。
ヴェルグラードは数百年の後に彼女の足跡をたどって、それを知ることとなる。




