110:エリュシオン王国1
古代王国の衰退を止めるべく、ヴェルグラードは様々な活動を行った。
労働を忘れた国民に、もう一度働く意義を説く。
享楽と退廃が支配する国のあり方を批判して、正しく生きるための道を示す。
再び技術の発展を目指し、技術者の育成と勉学に取り組む。
しかし、その全ては不発に終わった。
働かずとも暮らしていける環境に慣れきった国民は、立ち上がろうとしなかった。
メンテナンス不足で精霊機構に不具合が多発しているのに、技術者のなり手がいない。
ヴェルグラードとごく一部の仲間たちだけが奔走して、大多数の人々はぼんやりと事態を眺めるだけ。
この頃になると衰退はより深刻化していた。以前の国民はそれでも生きていたが、最近は自発的に食べ物を食べようとせず、無気力のままに死ぬ人が増えた。いくら医療が発達していても、生きようとしない相手を助けることはできない。もはや娯楽を楽しむこともなく、生き物であることすら手放そうとしている。
「これでは地獄だ。入口ばかりは楽園に見えて、その実は地獄じゃないか……」
世界樹の守り人の役目を引き受けてから十数年。生ける屍と成り果てた人々を見て、ヴェルグラードは心を痛めた。
そんな彼に、まだ幼い姪が声をかけた。彼と同じ色彩、黒い髪と鋼色の瞳をした少女である。
「おじさま。数は少ないけれど、心ある人はいます。わたしだってそうです。わたしも頑張るから、もう少しやってみましょう」
「それでは駄目なのだよ。国民みなが目を覚まさなければ、滅亡はもう止まらない。何故こんなことになったのか。原因は……」
彼は一度言葉を切って、空中に投影された町の様子を見た。
「……原因は、環境だ。何もしなくともその日の食べ物が手に入る。整えられた住居もある。与えられたものをただ受け取って、日々をぼんやりと暮らす。享楽すら飽きて命を手放そうとしている。ぬるま湯に慣れすぎたせいで、生きる力を失ってしまった。生存本能すらなくしてしまったんだ」
「便利な暮らしがよくないと?」
「そうだ。魔道科学がここまで発展する前は、人間は自然の一部として強かに生きていた。それが今や生き物としての牙を抜かれ、衰退の――いや、退化の道をたどるばかり。道理を説く段階はとうに過ぎ去った。国民が、人類が生き残るには、もはや環境を変えるしかない」
「でも、どうやって」
不安そうに見上げてくる姪の頭を撫でてやり、ヴェルグラードは微笑んだ。決意のにじむ笑みだった。
「世界樹を枯らす。精霊の森を消し去って、人々を再び自然に戻すんだ」
ヴェルグラードはずっと考えていた。何故ここまで事態が悪化したのかと。
魔道科学で精霊機構を作ったのは、人間の功績であり責任でもある。
ただ、四大精霊を含む精霊たちはいつも人間に友好的だった。契約で縛ったとはいえ、進んで力を貸してくれた。
精霊たちは太古の昔から人間の――というよりも生き物全ての――味方だった。厳しい自然の中で困窮する時、いくばくかの力を貸してくれる。そんな存在だった。
そして今、その力は世界樹と精霊の森を介して無尽蔵に精霊機構に注がれている。その結果、人間が退廃と退化の末に滅亡しようとしていても、お構いなしに。
友誼も好意も行き過ぎれば毒になる。
人間の責任を承知した上で、逆恨みだと分かった上で、ヴェルグラードは精霊を憎むようになった。
世界樹の消滅を決意し、精霊の森を訪れた彼を待っていたのは、いつもと変わらない精霊たちの姿。世界樹の守り人である彼を歓迎している。
「精霊たちよ。今日は別れを告げに来た」
世界樹の根本に立って、ヴェルグラードは静かに言った。
この時の世界樹は既に樹齢千年に近い。見上げるほどの大木は光をまとって、精霊界から莫大な魔力を降ろしている。
『別れ……?』
大地の精霊が首を傾げた。いかにも不思議そうに。
『我らと、汝らは、……友……だった、はず……だが』
「それも今日までのこと。精霊たちよ。今の人間を見て、何も思わないのか?」
『何も、とは?』
本当に分からない様子で、水の精霊が戸惑っている。
「人間は衰えた。退化したといってもいい。毎日を無気力に過ごすのみで、あれで生きていると言えるのか」
『だが、命はあるじゃないか。最近はあまり子が生まれないが、それでも昔より数は増えた』
火の精霊が言えば、風の精霊も続ける。
『俺様たちは、お前らを保護してきた。魔力が欲しいというから与えた。何が不満なんだ?』
(ああ、駄目だ。彼らと人間では価値観が違いすぎる)
精霊たちは善意でやっている。契約の強制力はあるものの、彼らは助力をしているつもりなのだ。その結果、人間を退化に追いやっていると露ほども思わない。
ヴェルグラードの中で絶望と憎しみが膨れ上がる。
精霊機構を作ったのは人間だ。だが、もしも精霊がいなければ。善意のつもりで害悪を振りまく存在でなければ。
「もはや言葉は不要」
彼は小さな魔道具を取り出した。紫のバラの刻印が施されたそれは、精霊機構の中でも最も重要なもの。世界樹の守り人の証にして、精霊の力を制御する根本。
掲げて魔力を込めれば、周囲に異質な気配が立ち込めた。精霊界から降りてくる魔力が、奇妙な渦を巻く。渦は本来の道をそれて逆流していく。
『何をする! おい、やめろ!』
風の精霊が叫ぶが、彼らは手出しができない。ヴェルグラードの血に刻まれた契約は、精霊を従える。危害を加えることは許されない。
だが契約がなくとも、彼らが人を傷つけることはないだろう。精霊たちは生命の味方。善意の形が相容れなくとも、それは変わらない。
逆流した魔力は暴れ狂い、精霊の森を飲み込んだ。命を与えるものから奪うものへと、力の性質を変えながら。
(これでいい)
魔力の逆流に体をさらされながら、ヴェルグラードは思った。ここで彼の命は尽きる。精霊機構は魔力の暴走を受けて、全て破壊されるだろう。元よりメンテナンスも保護もろくに行われていなかった。復旧するだけの技術は既に失われている。
(だが最後に、もう一つやらねばならない)
世界樹はもうじき枯れるが、四大精霊が消滅するわけではない。彼らがいれば、規模は小さくともまた同じことが起こる。
「エリュシオンの血の契約を以て命じる!」
だから彼は叫んだ。最後の力を振り絞りながら。
「四大精霊は各自、自らの力を封じ、物質界の影を封印の地に留めよ! 未来永劫出ることは能わず!」
封印機構は用意しておいた。水の精霊は北に、火の精霊は南に、風の精霊は東に。そして大地の精霊は地中深くへと、命令に従って姿を消していく。
「後は頼んだぞ……」
最後に浮かぶのは、姪と仲間たちの姿。逆流した魔力に飲み込まれるのを感じながら、ヴェルグラードは満足して目を閉じた。




