107:扇動と分断
そして今回、クロエは精霊を引き連れて大陸を救うのだという。
風の精霊の姿は、王太子も目の当たりにした。強大な魔力に満ちた、美しく気高い生き物だった。風と雷とを身にまとって飛ぶ姿は、畏怖の念を持つのに十分だった。
(精霊までもがクロエに従う。この俺には何もないと言うのに!)
悔しい。苛立たしい。そして何よりも、みじめだ。
(クロエも同じ気持ちを味わうべきだ。何もかも失って、みじめに死ねばいい!)
彼が飛び込んだのは、騎士たちの訓練場。王宮を守る近衛騎士団が、今は訓練を中止して出撃の準備をしている。近衛騎士団は普段は王宮から出ないのに、今回は特例の王命で北の土地に赴くのだ。
「聞け、騎士たちよ!」
訓練場の真ん中に立ち、王太子は声を張り上げた。【扇動】スキルを全開にして、声に魔力を込める。
「王命は取り消しだ。邪悪の精霊から国を守ることこそ、騎士の務め! 救世教の手助けこそすれ、阻むとは何事か。今すぐに心を入れ替えて、俺と共に来い!」
言葉に込められた魔力が騎士たちを打つ。
「しかし殿下、王命は正式なもの。取り消しは陛下のお言葉でしょうか?」
騎士団長が恐る恐る言うが、王太子は取り合わなかった。
「国王陛下とて判断を誤ることはある。俺が問うているのは正義だ。邪悪な悪魔を野放しにして、この国を食い破られていいのかと、そう聞いている!」
「……それは」
騎士たちに動揺が走った。
幼い頃から受けてきた、救世教の教え。
近衛騎士として王宮で見た、王太子とクロエの器の違い。特に昨今のゴルト商会の騒ぎ。
つい先程目にした、風の精霊の姿。クロエは見事に大鷲を御していた。
魔道帝国が発表した声明。
扇動スキルによる補正。
それらがないまぜになり、騎士たちの心は乱れた。
「もう一度問う! お前たちに正義を思う心があるならば、俺と共に来い! 救世教に合流し……、いや、我々自身の手で悪魔を討滅し、この国に正義をもたらすのだ!」
「――殿下についていきます」
騎士の一人が声を上げた。壮年の人物で、エレウシス戦争に従軍した者だった。
「十八年前、我らは邪悪の国を滅ぼしました。彼らが邪悪なればこそ、幼子まで殺したのです。あの行いを無駄にしないために、私は行きます!」
「よくぞ言った。お前こそが真の騎士、真のセレスティア人だ!」
王太子の激励に、さらに空気が揺れる。私も、私も行きますと声が上がった。
「よせ、王命に背く気か?」
「あの風の精霊を見ただろう。あれが悪魔だとは思えない……、いいや、たとえ悪魔だとしても、クロエ殿下が見事に従えていた。王女殿下を信じるべきだ」
そのような声も上がる。
ざわめく騎士たちに王太子は苛立ち、奥歯を噛んだ。
「もはや議論の時は過ぎた。邪悪に取り込まれた者は要らぬ。正義を持つ者のみ、俺について来い!」
言い放ち、訓練場に背を向ける。
相当数の足音が背後に続く。その気配を感じて、彼はようやく笑みを浮かべた。
+++
クロエの目の前には、まだ小さな苗木の世界樹があった。
周囲を見渡せば、光に満ちた森。四大精霊が魔力の歌を歌う中、名を持たぬ小さな精霊たちが嬉しげに宙を舞っている。湖水はきらきらと輝いて、この世のものではない虹色の光を振りまいていた。
「これが……精霊の森」
呆然と呟く彼女に、大地の精霊が語りかけた。
『精霊の森……とは、世界樹を……通じ、我らが故郷……精霊界……の魔力を……降ろす、触媒』
『ここは既に半ば精霊界。物質世界と魔力世界の狭間にある世界なのです。この世界樹はまだ若いから、精霊の森も小さいけれど』
水の精霊が続けた。
『たとえ小さくとも、精霊の森がこの世に在れば、私たちは大きな力を振るえる。東の土地の災厄も、今ならば止められます。ねえ、大地?』
『うむ……』
大地の精霊は頷いて、琥珀色の瞳を閉じた。ぶわり、彼女の下半身を取り巻く闇が広がり、森の地面へと染み込んでいった。緑のきらめきと黒の闇。二つの輝きが大地の精霊を彩る。
水の精霊は盟友の傍らに立つ。緑と黒の魔力の奔流に、自身の青い魔力をそっと注いだ。
『災厄の鎮圧は大地に任せるしかないな。水ならば助力できようが、我と風はあまり役に立たない』
火の精霊がぐるっと目玉を回して、口から小さな火を吹いた。風の精霊は不満そうに羽ばたいて、くちばしで火トカゲをつついた。
『てめえと一緒にすんな。だがまぁ、地面の深いところへ俺様は干渉できん。そいつらに任せておけばいい』
「良かった。これで飢饉が解消できる」
クロエはほっと息をつく。
――と。
「クロエ、危ない!」
ガキンッ!
レオンの叫び声、金属がぶつかる音。
振り返ったクロエが見たのは、抜剣したレオンと地面に突き刺さる錫杖だ。投擲された錫杖をレオンが弾いたのだ。
「あの杖は」
クロエがみなまで言う前に、光り輝く森の向こうに人影が現れた。光の中の異質な影。大地の精霊の闇ともまた違う、無機質で乾いた灰色の気配。
「やあ皆さん。お揃いで」
常と変わらぬ笑みを浮かべ、大司教ヴェルグラードが立っていた。




