第67話 異変といつも通りのもの
夜の名残は、とっくに空から剝がれているのに、村の空気はまだ目を覚ましていなかった。
東の空が薄く白み始めた頃、ロイドはひとりで村の外れを歩いていた。吐いた息は白くはならないが、胸の中に残っている眠気を押し返すには十分な冷たさだ。柵の木肌に指先を滑らせ、釘の錆び具合と板の緩みをざっと確かめる。人間が作った守りは、こんなものだろう。
問題は、こっちだ。
柵の外、畑の端に目をやる。
昨日までは辛うじて青さを保っていた麦の穂先が、ところどころ灰をかぶせたみたいに色を失っていた。葉の縁は茶色く縮れ、霜に焼かれたみたいにしなっている。土から抜いてみると、根の細い毛が黒ずんでいて、指でつまむと易々と千切れた。
森の方角から、薄い霧が吐き出されている。
朝靄と違って、重く、低い。風がないのに、霧だけが地面を這うみたいに村へ向かって伸びてきていた。右手の甲の下で〈呪印〉がきし、と細く鳴る。嫌な匂いだ。嗅覚ではほとんど感じ取れないのに、胸の奥ではっきりとわかる。
足下で、小さな影が転がった。
野鼠の死骸だ。目は濁り、口の端には黒ずんだ泡が固まっている。傷はどこにもない。内側から、何かを抜かれたみたいな死に方だった。少し離れた草むらには、野兎の白い腹が見えた。同じだ。どこかに噛まれた痕跡も、引き裂かれた跡もないのに、舌だけが真っ黒に変色している。
枯れ始めた草は、畑の端だけに留まっていなかった。村外れの用水路沿い、子どもたちがよく遊んでいる小さな丘の斜面にも、白っぽく色をなくした一角ができている。足で踏むと、まだ青さを残している葉と、指で潰すまでもなく砕ける葉が混じっていた。
(こいつは、よくないな)
ロイドは小さく息を吐き出した。
派手に誰かを殺しにくる類いの危機ではない。じわじわと、足下から土を腐らせ、血の中に毒を垂らしてくるタイプだ。このまま放置すれば、畑はまず駄目になる。家畜も、飲み水も。村の奴らはまだ「最近調子が悪い」で済ませているが、そのうち普通の風邪では説明がつかない死に方が増える。
昨日のうちに片を付けられたなら、どれだけ楽だったか。だが、あの状況下であの神殿跡の中にかち込むには、あまりに危険だった。中にはどれだけ魔物がいるかもわからず、さらには明らかに〝親玉〟の気配も感じた。ロイドひとりならともかく、ルーシャもいるのだから、危険はなるべく避けたい。その点は、エレナとフランが来てくれれば、勝算は一気に高まるはずだ。彼女らの実力を知っているからこそ、それは間違いないと言い切れる。
問題は──それまで、何も起こらない保証がどこにもない、ということだった。
神殿跡の〝親玉〟が、これ以上力を溜め込んだらどうなるか。瘴気の濃度が上がれば、今は汚染だけで済んでいる領域が、魔物そのものに変わるかもしれない。村の近くにまでそれが来れば、老人と子どもがいるこの場所は、あっという間に地獄になる。
(村を守る算段も、考えておかないといけないな)
柵だけじゃ足りない。戦える大人の数も、手持ちの武具も、昨夜のうちに一通り確認済みだ。やりようはある。けれど、『全部守る』に固執すると、逆に誰も守れない場面が必ず出てくる。
最悪の場合、と頭の中で別の板地図を描いた。
村の中央の広場から、主要な家々を線で結び、そこから外へ向かう道を二本選ぶ。森に近い側の家は潔く捨てて、村人を反対側へまとめて避難させるのが懸命だ。自分は森寄りの柵の外で大暴れして、魔物の注意を全部そっちに引き付ける。〈呪印〉を開放すれば、それくらいの灯りにはなるはずだ。
(囮は……俺ひとりで足りる)
別に、死ぬつもりはない。だが、逃げ道の数を増やすために、誰かが背中を向けないといけない場面は確実にある。自分がそれを引き受けるのは、職業柄みたいなものだ。
そんな暗算をしていると、不意に暖かな匂いが風の筋を変えた。
煮立った穀物と、香草と、少しだけ焦げたパンの匂い。森から来る冷たい霧の匂いとは正反対の、生活の側の匂いだ。
「お疲れ様です、ロイド」
背中から柔らかな声がして、ロイドは振り向いた。
「え、ルーシャ?」
そこには、湯気の立つ水筒と布包みを抱えたルーシャが立っていた。淡い色の外套の裾が、朝の風にふわりと揺れる。吐く息は少しだけ白く、頬は歩いてきたせいか上気している。
「台所をお借りして、朝食を作らせて頂きました。よかったらどうぞ」
そう言って、彼女は布包みを差し出した。
布を捲ると、まだ温かい黒パンと、干し肉と野菜を煮込んだ簡素なスープの入った木椀、それから小さな果実が二つほど転がっている。水筒の蓋を緩めると、温めたハーブティーの匂いがふわりと立ちのぼった。
「ありがとう。でも、わざわざこんなところまで来なくてよかったのに」
ロイドが苦笑混じりに言うと、ルーシャは少しだけ頬を膨らませる。
「だって、いつまで経っても戻ってこなかったじゃないですか。ちゃんと食べておいてください。腹が減っては何とやら、ですよ?」
「悪い。村を一回りしておきたくてな」
謝りながら、ロイドはスープの椀を受け取った。温度が指先からじわ、と腕に登ってくる。徹夜明けの身体にしみ渡っていくようだった。
ルーシャの視線が、ふとロイドの顔を探った。
「……ちゃんと眠れましたか?」
「まあ、それなりにな」
さりげなく投げられた問いに、ロイドは肩を竦めた。
本当は、横になっても〈呪印〉の疼きと神殿の光景が頭を離れず、浅い眠りを何度か往復した程度だった。だが、そんなことまで逐一伝える必要はない。そう判断するのは、これまでの経験から来る習慣だ。
けれど、ルーシャの眉根は僅かに寄った。
誤魔化したつもりでも、やはり伝わってしまっているのだろう。彼女は一瞬だけ心配そうな顔をし、それからふっと表情を柔らかくした。
「来る前に、村の人たちに広場に集まるようにお伝えしておきました。防衛案をいくつか考えておいた方がいいと思いましたので」
「……さすがだな」
ロイドは思わず笑ってしまった。
自分が頭の中で組み立てていたことを、彼女はすでに村の側から整え始めている。どこまで見透かされているのか、と少しだけ背筋がむず痒くなった。
「わかったよ。もうちょっと見て回ってからすぐ戻る」
ロイドが肩を竦めると、ルーシャは「はい」と素直に頷いた。
その目尻に、しかし悪戯の色が混じったのがわかる。
「それと、ロイド」
「ん?」
なんだ、と問い返すより早く、ルーシャが一歩近付いた。
朝の光の中で、彼女の影がロイドの胸元に重なる。次の瞬間──。
頬に、小さな温もりが触れた。
ちゅ、と乾いた音が耳のすぐそばで鳴る。柔らかな唇の感触が一瞬だけ肌に残り、すぐに風にさらわれていった。
「……!?」
ロイドの頭の中に、瞬時に血が上った。思考より先に右手が反射的に動きかける。剣ではなく、頬のあたりを押さえそうになって、辛うじてこらえた。
ルーシャは一歩退き、いつもの笑顔より少しだけ照れた顔で見上げてくる。
「あんまり無理をしちゃ、ダメですよ?」
そう言い残し、彼女は踵を返した。
軽い足取りで、村の方へ戻っていく。外套の裾がひるがえり、朝の光の中に白い横顔が一瞬だけ浮かぶ。その背を、ロイドはしばらく呆然と目で追いかけていた。
「……こんなことされると、余計無理をしちゃうんだけどな」
誰にともなく零した言葉は、風に混じってすぐに散った。
けれど、頬に残る感触と熱だけは、簡単には消えない。さっきまで瘴気の匂いばかり気になっていた鼻腔に、ほんのりとしたハーブの香りが残っている気がした。
ロイドは自分の口元が勝手に緩んでいるのを自覚し、苦い笑みを浮かべながらスープを口に運んだ。
粗く刻んだ根菜と麦の粒が、舌に素朴な甘さを残す。塩気は控えめで、出汁も贅沢ではない。旅の途中でよく食べる、なんでもない朝食だ。だが、不思議なことに、肩から力が抜けるほど美味かった。
いつも家で食べるものより、随分と簡素な朝食。それでも、ルーシャが自分のために作ってくれた朝食は、世界で一番美味しかった。
右手の甲の下の〈呪印〉は、いつの間にか静かになっていた。代わりにそこへ、さっきの感触と彼女の声が何度も押し寄せる。
(囮になるにしても……やれることは、全部やってからだ)
スープを飲み干し、パンを噛み締める。
村を守る算段。森の中での布陣。エレナたちが到着した時の役割分担。それから、村人たちに伝えるべきことと、伝えなくていいこと。
頭の中で紙を何枚もめくるみたいに段取りを確認しながら、ロイドは最後の一欠片までパンを平らげた。指先についたパン屑を払う。
「よし」
空になった木椀を手に、ロイドはもう一度だけ森の方角を振り返る。
薄い霧は相変わらずだ。だが、さっきよりも胸の中の重さは小さい。頬に残る熱が、妙に心強かった。
広場ではそのうち、村人たちが集まり始めるだろう。
その前に、もう一回りだけ村の端を見ておくか──そう決めて、ロイドは歩き出した。畑の土を踏む足取りは、来た時よりも少しだけ軽かった。




