第66話 逃亡戦
窪地は、森の色から切り離されたみたいに沈んでいた。崩れた樹冠の穴から薄い光が降りているが、地表に届く前に灰を混ぜた墨に落ちる。湿りも冷えも、常の森より一段深く染みていた。鼻の奥に金属の粉をまぶされたような匂いが刺さり、右手の甲の下で〈呪印〉が細く震える。
黒ずんだ石段は、苔の毛布を荒く剥がされたようにむき出しになっていた。踏み面は割れ、段鼻は崩れて牙のように尖り、欠け口には黒い水の筋がこびりついている。石段の上、かつての神殿は輪郭だけを残し、壁と柱は半分土に呑まれていた。そこから、薄墨の霧が湧いては途切れ、また湧いて出る。
「……こいつは酷いな」
身を伏せた倒木の影から覗き込み、ロイドは息の出口だけで零した。
視界の端に白い袖が揺れる。隣で同じように身を低くしているルーシャが、唇を結んで無言で頷いた。
古びた祠は、神殿の手前の台地にちょこんと乗っていた──いや、乗っていた跡だ──屋根は潰れ、棟の木は内側から外へ向けて裂けている。四隅の石は飛び、基壇の継ぎ目には内圧を受けたような広がりの罅が走っていた。祠の背後の地面は火山灰みたいに黒く焼け、円を描くように草が枯れている。
周囲には魔物がいた。スケルトンの背骨が半ば土に埋もれて巡回する輪を作り、オチューの蔓が噴水のようにゆっくり呼吸する。奥の瓦礫には大きな影──おそらくグリズリーだ──が身を横たえ、肋骨が上下するたびに瘴気の霧が薄く脈打っていた。ロイドが訊いた。
「祠、直せそうか?」
「無理ですね……」
ルーシャは一瞬、目を細めて祠の継ぎ目を読むように視線を走らせ、それから小さく首を横に振った。
「少なくとも、私はこのタイプの結界魔法を知りません」
「失われた魔法ってことか」
「だと思います。お話を伺った限り、昔の聖女様が祠をお作りになられたのは、随分昔のことみたいですから」
「なるほどなぁ……どうしようか」
ロイドは喉の奥で唸り、祠と神殿の間に漂う霧の帯を目でなぞった。じわじわと沁み出た瘴気が外の空気を黒く染めていて、そこらの動植物全体が瘴気に汚染される日も遠くはない。そうなれば、被害はあの村だけでなく、近隣の町や村にも及ぶだろう。
無論、そうなれば領主や教会も動くだろうが、今のうちに止めておいて損はない。
「結界を新しく作り直すことは?」
「それならできますけど、ちょっと時間が掛かるので……」
ルーシャは周囲に散る魔物を数えるみたいに視線を巡らせ、苦笑いを浮かべた。ロイドも肩を竦める。
「俺ひとりでこいつらの相手はしたくないな」
素直な本音だった。無論、この魔剣〝ルクード〟と〈呪印〉の力を使えば無理ではないが、安全策とは言えない。
「それに、この祠の壊れ方なんですけど、中から壊されたような感じがするんですよね」
ルーシャの視線が祠の継ぎ目を射抜く。
なるほど、言われてみればそうだ。外からの打撃なら広がりは外に向かって乱暴に弾けるはずだが、このヒビは内側から押し広げられ、外壁が耐え切れずに割れた痕。基壇の石の裏面に、押し出された粉塵が偏って付着していたのが見て取れた。
「ってことは、封印された魔物が神殿の中から結界を破壊したのか?」
「はい。そうなります」
ルーシャは迷いなく頷いた。
「ずっと力を蓄え続けて、結界を壊せるぐらいの力を身に着けたのかもしれません。だとしたら、私が結界を張り直しても、同じように壊れてしまうと思います」
「親玉を潰してから結界を張り直さないと意味がないってことか」
「それが確実ですね……」
「でも、そうなるとここを突っ切ってあの神殿の中に行かないといけないんだよなぁ」
ロイドは顎に手を当て、唸った。
神殿の中はどうなっているかわからないし、魔物の数も未知数だ。その強さも外と同じとは限らない。一か八かでやるには、あまりにリスクが高い賭けだった。
その時──首筋の産毛が冷たく逆立った。
ぞくり、と背骨の内側を指先でなぞられたみたいな悪寒。右手の甲の下の痣が、今度は針ではなく氷の薄片で撫でられるように、広い面で疼いた。ルーシャも同じものを感じたのだろう。彼女の視線が祠の闇の奥とこちらを往復していた。
(見られている……!?)
言葉より先にその実感がロイドの背を押した。同時に、外縁に散っていた魔物たちの動きがすっと揃う。
オチューの蔓が音もなくこちらへ向きを変え、グリズリーが尻を低く構えて唸り、スケルトンの頭蓋がゆっくりとこちらに向き直った。
ルーシャは顔を青くしたまま、呟くようにして警告の声を上げた。
「ロイド……!」
「ああ。こいつはどうやらまずいことが起こりそうだ。一旦ずらかるぞ!」
ロイドは倒木の陰から身を滑らせると同時にルーシャの手を取った。
考えるより早く、身体が先に動いていた。ここに居座るのはまずい。今はとにかく逃げ一択だ。
石段の外縁で影が跳ねた。スケルトンの矢が幹を抉り、木屑が頬を掠める。ロイドは左へ身を捻り、魔剣〝ルクード〟の鞘尻で伸びてきた蔓を叩き、それを足場にするように倒木を越えた。蔓が空を切り、土に刺さって黒い汁が飛ぶ。
「転ぶなよ!」
「は、はい!」
ルーシャの返事と足音が自分の半歩後ろで正確に重なった。
退路は来た道を半ば戻る形になっていた。だが、ただの直帰は挟撃に弱い。ロイドは頭の中の板地図を呼び出し、谷筋に沿った獣道へ一旦下ってから、苔むした巨石の並ぶ側溝のような窪みを抜け、浅瀬を渡って風上に出るルートを選ぶ。瘴気は重い。風上へ向かうほど、匂いの尾は千切れやすい。
「右三歩、次に低い根っこ!」
短く合図する。ルーシャの足が根を越えた感覚が手のひらから伝わり、次の瞬間、ロイドは背後に〝ルクード〟の刃だけをひゅっと差し込んだ。
飛び掛かったグリズリーの鼻面が刃の側面で横へ弾かれ、グリズリーは横転してもんどり打つ。追い打ちはかけなかった。逃げの戦は、切り結ぶ長さを間違えた方が死ぬ。
幹の間を縫い、斜面を滑った。背後では骨のぶつかる乾いた音が次々と重なり、低い唸りが混ざり始めた。
オチューの蔓が上から降ってきた。ロイドは一瞬だけ足を止め、身体の前にルーシャを抱き込むように引き寄せ、刃で上から下へと蔓の芯を割った。軽い感触。切れすぎて怖い。二条、三条と降る蔓を肩の回転で払い落とし、間にルーシャの短い詠唱が差し込まれる。
「母なる光よ……!」
指先からの光点が蔓の基部を撃ち抜き、蔓は痙攣して力を失った。
ロイドは彼女の手をまた引き、斜面の下へ滑り降りていく。膝下までの落差を踵で受け、足首に一度しならせた。
「ルーシャ、後ろはどうなってる!?」
「まだ来てます!」
浅瀬の前でルーシャが一度だけ振り向き、短く答えた。まだ距離は取れていないらしい。
ロイドは水面の反射で敵の位置を読み、矢が放たれる瞬間に肩幅一歩分だけ左へ滑った。鏃が水面で跳ね、背後の幹に刺さる。ルーシャが手首だけの短い動きで二連の〈気弾〉を放ち、二体のスケルトンを砕いた。
渡り切り、巨石の並ぶ側溝へ身を落とす。ここは視線が切れる。ロイドは肩で息をしながらも速度を落とさず、巨石の影から影へと最短距離で駆け抜けた。
足裏の感触が土から石へ、石から根へと移る度、右手の痣の疼きがわずかに和らぐ。瘴気の層から一枚、二枚と剝がれていった。
長い逃亡だった。だが、追撃の音が少しずつ薄くなっていって、やがて森のざわめきのほうが大きく聞こえる地点へ出た。ザックたちの地図に『風の切り替え』と記されていた鞍部の手前だ。
ロイドはようやく足を止め、倒れた丸太に片手をついて背を預けた。
「ここまでくれば、もう大丈夫か」
吐き出した息に、泥の匂いではなく草の匂いが混じった。風が顔の汗を持っていく。
ルーシャは胸に手を当て、肩で息をしながらも周囲を警戒する視線を切らさない。彼女の額に薄い汗が浮かび、髪が頬に張り付いていた。
「どうしましょう……?」
息も絶え絶えに、ルーシャが言った。
ロイドは顎を拭ってから、簡潔に答えた。
「もうちょっと敵が少なかったら神殿ん中に忍び込んで親玉だけ潰してもいいんだけど、あの数だと厳しいな。中の様子もわからないし」
正面突破は愚策、潜入は賭けが過ぎる。
親玉を落とす一撃を、確実に打ち込める編成が要る。
「……ふたりに来てもらいますか?」
ルーシャの言い回しは遠慮が混じるが、ロイドも同じことを考えていた。
──エレナとフラン。ふたりで一隊分の働きをする元仲間。
彼女らなら正面で引きつけながら的確に崩せるだろうし、連携も取れる。その間に、ロイドとルーシャが親玉を断てばいい。
「それしかないよなぁ」
ロイドは頷き、背嚢の口を開いて油紙包みを引き出した。中には乾いた穀粒と、薄い革袋に入った蜜。指先で軽く揉んで温度を戻し、空を見上げた。鞍部を越えた風が、上へ流れている。飛ばすには十分だ。
その足で村まで戻り、クロンに向けて、伝書鳩を送った。




