第65話 瘴気の森の中で
薄雲の向こうで日差しが白く伸びる頃。ロイドとルーシャはザックたちが描いた地図を手に、村を発った。村外れの柵を越えると、森はすぐそこに口を開けている。細い獣道は谷筋へと斜めに落ち、湿り気を帯びた風が下から吹き上げた。
地図の最初の目印は、折れた標識杭。苔に半分埋もれ、黒ずんだ木肌に古い刻印が覗く。次は倒れた樫、それから小川の浅瀬。板に記された距離感は、歩幅で測ったかのように正確だった。さすがは地元民だ。ロイドは心の中で彼らに礼を言い、足取りを先へと送った。
やがて、森の色が変わっていく。葉脈が黄ばんで縁から茶に腐り、蔓の先は黒く痂皮を纏って垂れ下がっていた。地表のシダは白粉を浴びたみたいに色を失い、根の浅い草は踏まずとも自重で折れている。風が通っているのに、匂いが動いていなかった。まるで湿った袋に閉じ込められたように、空気が停滞していたのだ。
「これも瘴気の影響でしょうか?」
「だろうな。可哀想に」
「……元気を出したくださいね」
ルーシャが触れると、その植物だけ息を吹き返したかのように、すっくと上を向いた。色も、元に戻っている。
「瘴気を払ってやったのか?」
「はい。気休め程度にしかならないと思いますけど」
「そんなことないさ。きっと、こいつだって喜んでる。な?」
ロイドが冗談っぽくその植物に話しかけると、ルーシャもくすっと笑った。
「この子達のためにも、早く解決してあげないとですね」
「ああ」
口にした瞬間、右手の甲の下で〈呪印〉が細く鳴った。
針の先で皮膚をつつくような、いつもの警鐘。
ロイドは拳を軽く握り、痣のさざめきを宥めつつ前へ出た。
地図の円印が示す『第1の結節点』が近い。耳の奥が詰まったように、音が遠くなった。鳥の声が途切れ、葉擦れはあるのに葉の表面だけが擦れて芯が動かない妙な気配。ロイドは肩越しにルーシャを確かめ、頷いて合図した。
最初に出た魔物は、グリズリーだった。樹間から崩れるように飛び出し、土を抉った爪が光る。毛並みはところどころ白く固まり、涎は灰色に泡立っている。
目が、普通の動物のそれではない。明らかに瘴気を浴び狂暴化していた。
「下がってろ」
ロイドは半歩前に出て、魔剣〝ルクード〟を鞘から抜き放った。
グリズリーがロイド目掛けて猛スピードで襲い掛かってくるが、腰を切って刃を送る。魔剣の重さが手のひらに吸い付き、鋼の面がひと息で伸びた。
前脚の腱を断ち切るはずの斜めの一閃が思ったより軽く抜けて、骨ごと断ち切ってしまった。熊手が跳び、巨体がのめって地面が揺れる。
(うん……? 何か、身体軽くないか?)
追撃の刺突が、意識より先に届いていた。肩口から胸へと浅く薙ぎ、返しで首筋を断つ。血と土の匂いが一瞬だけ濃くなった。
ロイドは目を細め、刃先を払う。
魔剣〝ルクード〟の刀身が、いつもより黒光りしている気がした。
続いて、背後で腐葉土が盛り上がる気配が続いた。太い蔓が鞭のように伸び、硬い棘がぎらりと光る。
オチュー……瘴気に膨れた食人蔓だ。蔓先が地面を叩く前に、白い光線が横から走った。
「私に任せてください」
今度はルーシャが前に立った。
「母なる光よ!」
ルーシャは短く詠唱し、〈聖光〉を放った。
光は閃光としてではなく、糸状に束ねられて蔓の節々へ刺し込まれ、内側から崩す。水膨れのように膨張していた蔓が一つずつ乾いた破裂音を立て、崩れた繊維が灰となって地面へ散った。
空気が微かに暖かくなる。右腕の痣にまとわりついた冷えが剥がれ落ちる感覚。
ロイドは視界の端でルーシャの立ち位置を確認し、周囲の陰影を読む。幹の裏、倒木の影、切り株の窪み。次は下だ。
茸の傘がもこもこと盛り上がり、マイコニドが現れた。吐息に胞子が混じる厄介な相手だ。
「こいつは俺が請け負うよ」
ロイドは手早く鼻と口元へ布を当て、斜めに身を滑らせた。胞子が霧のように広がるより早く、ロイドの足が地面を発つ。跳び上がった勢いのままキノコの傘を蹴り飛ばし、空中で一回転しながら刃を水平に走らせた。キノコは真っ二つになり、乳白色の繊維が千切れて崩れ落ちる。
だが、敵は一体だけではなかった。ロイドが降り立った付近からも次々とマイコニドが現れた。ざっと十匹。
「ちっ。多いな」
ロイドは舌打ちをして後方へ跳ぶと、間に白い閃が重なった。
「母なる光よ……圧となりて、かの敵を討て」
ルーシャの指先から放たれた〈気弾〉が、次々にマイコニドたちの核を撃ち抜いていった。
放物線と直線を織り交ぜて、周囲のマイコニドを包囲的に撃ち分けていく。ひと弾が傘の縁をかすめ、もうひと弾が芯を撃ち抜く。光は弾けず、貫いた場所だけを確実に焼いていった。
弾が三つ、四つと走ったところで、ロイドは違和感に気付いた。
光弾の軌跡が通常の〈気弾〉より速くて量も多く、さらに強かった。貫通後の灰化も早い。瞬く間にマイコニドたちは朽ちていき、周囲から魔物の気配が消えていた。
「あれ……?」
そんな呟きが聞こえて背後を見ると、ルーシャ自身も一瞬ぽかんとした顔で自分の手を見下ろしていた。
「どうした?」
「さっきザックさんを治した時も感じたんですけど……なんだか私、強くなった気がします。前はこの程度の魔力でこんなにも威力が出なかったんですけど」
彼女は手のひらを開閉して、魔力の流れを探るように指先へ意識を集める。
ロイドも刀身をじっと見つめて、頷いた。
「ルーシャもか。実は俺もなんだ。身体がやけに軽くて困る」
「ロイドも? どういうことでしょう?」
ルーシャは小首を傾げた。
「もしかしたら、〈共鳴〉したお陰かもな」
「あっ……」
ルーシャが何かに納得したように、小さく声を漏らした。お互いに、それくらいしか思い当たることがない。
実際に、気のせいではなかった。刃の伸び、重心の移動、視界の縁の反応速度、それから身体能力。そのどれもが大幅に上がっていた。魔剣〝ルクード〟の切れ味も、刃文の底にもう一段階深い刃があるように滑らかだ。
普段から鍛錬は積んでいるが、ここまで劇的に動きや身体能力が変わることはない。まるで、常に身体強化魔法を纏っているかのような気分だ。
「ロイド!」
背後をはっと見て、ルーシャが警戒の声を上げた。
「ああ。全く、お喋りくらいさせてほしいもんだな」
ロイドのぼやきと枝を折る乾いた音が重なる。
腐った肉の匂い、湿った骨の軋み。ゾンビとスケルトンが混じった小群だ。瘴気の濃い場所ではよく見る取り合わせだった。
ロイドは剣を構え直し、状況を即座に把握した。
「左に三つ、正面に四つ、右に三つ。左の奴らだけ任せていいか?」
「はい!」
ゾンビの先頭がのたのたと腕を伸ばし、後ろからスケルトンが弓を引く。弦が鳴るより早く、ロイドは横へ跳ねた。矢は幹を抉り、木屑が頬を掠める。
着地と同時に踏み込んで、刃の腹でゾンビの肘を叩き折り、返しで首椎を落とす。首が転がっても胴が前へ来るのが厄介だが、足首を切れば転ぶ。刃先で足首を払う手順を機械のように反復し、間合いを押し戻した。
左側で白い弾が連続して弾け、骨の束ねが瓦解する音が聞こえてきた。
ルーシャは腰を落として連射を抑え、肘の角度を変えながら核たる魔力結節を正確に撃ち抜いていく。撃つ度に肩が小さく揺れるだけで、呼吸が一切乱れていなかった。平坦に見える動作の下で、魔力のやり繰りが以前より滑らかに循環しているのがよくわかる。
しかも、詠唱なしで魔法を発動している。自身の魔力の増幅を見て、無詠唱でもいけると踏んだのだろう。〝白聖女〟たったひとりで、勇者パーティー分くらいの働きをしていそうだ。
(こいつは負けてられないな)
ロイドは一歩引いて半身を作り、魔剣〝ルクード〟の切先を上から滑り落としていく。スケルトンの骨が鳴き、砂のように砕けた。最後のゾンビが横から噛みつこうとした瞬間、ロイドは柄尻で顎を跳ね上げ、そのまま回し蹴りを食わせた。腐った首が明後日の方向へと飛んで行き、静寂が戻る。
周囲を見回すが、敵の気配はなかった。無事、殲滅したようだ。
「すみません、質問いいですか?」
ルーシャがそろっと手を挙げた。
「もちろん」とロイドは促す。
「〈共鳴スキル〉というのは、標準的な能力も上昇するものなのでしょうか?」
「いや……そんなことはなかったかな」
ロイドは剣を鞘に収めると、顎に手を当てた。
フランとエレナ、ユリウスたちが使っていた〈共鳴スキル〉を思い返してみても、そんな現象はなかった。あれは互いの技や魔法を重ねることで発現し、それぞれの能力を増幅させる。標準の腕力や反射そのものが底上げされるわけではなかったはずだ。
「もしかすると、私たちが特別なのかもしれませんねっ」
ルーシャは目を丸くし、それからふわりと笑った。
「かもしれないな」
「はい。だとしたら、とっても嬉しいです」
無邪気な声色と笑顔。この森の重い空気の中で、その一滴だけが軽かった。
ロイドは胸の奥で苦笑しつつ、同時に思う。〈呪印〉の暴走を唯一抑えられるのが彼女で、彼女の神聖魔法を唯一濁さず受け止められるのが自分。属性が噛み合っているだけ、では説明が足りない気がしていた。
(いや、今はいいか)
意識を現在へ引き戻す。地図の第二結節点はすぐ先、谷が浅くなる手前の鞍部。そこを越えれば、祠のある窪地へ降りる道筋が見えるはずだ。日の高さはまだ余裕がある。だが、帰り道に戦闘が重なれば日暮れにかかった。余裕は残しておきたい。
「いこう。日暮れまでには村に戻りたい」
「頑張りますっ!」
ルーシャが両手を胸の前でぐっと握り、やる気を見せた。
ロイドは頷き、次の地図の目印へと視線を投げる。
谷がふっと浅くなり、木々の奥で空の色が白んだ。その先に、崩れた石段の頭がわずかに覗いている。
二人の影は、瘴気で褪せた草の上に細長く伸び、森の奥の白んだ光へ滑り込んでいった。




