第64話 祠の噂
翌朝、村の空気は夜露を吸った麻布のように重く、冷たかった。雲は低く、森の稜線の向こうで太陽が鈍く白んでいる。
ロイドは寝台から静かに身を起こし、窓の隙間から裏庭を覗いた。鶏は早くも餌箱の周りをうろつき、子どもの笑い声はない。代わりに、戸の開閉音と、重い大人たちの足取りが村のあちこちで続いていた。
隣ではルーシャが髪に櫛を通していた。目が合うと、にこりとこちらに笑みを向けてみせる。瞳は澄んでいて、彼女の中にある決意がそのまま表に出ていた。
この村に教会がないことも、関係しているだろう。教会関係者の目がないというだけで、解放感が大分違うようだ。
「よし、行くか。とりあえず話を聞いて回ろう」
「はい!」
ルーシャが元気よく頷き、ふたりは一緒に戸口を出た。冷えた空気が頬を刺し、土の匂いに獣の生ぬるい気配が絡む。
最初の聞き込みは、村長の紹介で畑仕事に出る前の家を順に回った。
まずは、腕に古傷のある猟師上がりの男の家だ。縁台に腰掛け、腰巻の端で手を拭いながら、低くゆっくり話す。
「家畜が失踪してな。柵は壊れてねえのに、朝になると消えてやがった。夜は……魔物の遠吠えみてぇのがたまに聞こえる。山犬どころじゃない、もっと深い声だ」
ロイドは薄板に印を入れ、日付と場所、時間帯を書き付ける。男の視線は何度も森の方角へ滑り、言葉の合間に唇を噛んだ。
二軒目の女は洗濯桶の前で手を止めた。小さな子が裾を掴み、ロイドたちを凝視している。彼女は低い声で、けれどはっきりと言った。
「皆『祠が壊れた祟りだ』って言ってます」
「祠? 何の祠ですか?」
ルーシャが一歩前へ出て、首を傾げた。
女は桶の縁に両手を置き、とぎれがちに語る。
「古い祠が森の奥にあるんです。大昔の聖女様が、村の加護のために設置してくださったといいます」
その場にいた年寄りが口を挟み、昔話の糸を足していった。
曰く、この地方には大昔、邪教の神殿があったのだという。聖騎士団が派遣され、その神殿は滅ぼされた。そして、それを率いた聖女が祠を建てて、邪なる気からこの地を浄化したそうだ。だが、ついこの前の大嵐で、祠が壊れてしまった。
「なるほど、な」
ロイドは短く応じ、脳裏の地図に印を打つ。祠。結界。嵐。瘴気。断片は互いに吸い寄せられ、同じ一点を指している。
さらに三軒、四軒。語る内容はどれも似通っていた。
夜の遠吠え、家畜の減り、森の奥で光が歪んで見えること。大人しいはずの牛が柵の中で怯える夜が増えたこと。村の外れの護符が色を失っていくこと。
ロイドは聞きながら、相槌を最小限にし、要点だけを薄板に刻んでいく。ルーシャは時折優しく語りかけることで、村人を落ち着かせていた。言葉の端々を、指先で水面を掬うみたいに戻していく。
そんなやり取りを繰り返し、午前の半ば、井戸端に差し掛かった時──。
「ザックの奴がやられたらしい! 大怪我を負ってる!」
叫びが村の細い路地を走り、空気が一気にざわついた。
ロイドとルーシャははっとして顔を見合わせ、同時に駆け出した。
井戸から裏路地を抜け、納屋の前の人だかりへ。地面に若者が横たわり、血が土に黒い花びらを描いていた。呼吸は荒く、胸の上下動が浅い。腕には深い爪痕、脇腹は噛み破られ、布が真っ赤だ。
「退いてください!」
ルーシャの声が空気の芯を真っ直ぐ貫き、人垣が左右に割れる。
彼女は地面に両膝をつき、ザックと呼ばれた若者の手を取った。虚ろな瞳に焦点を合わせるため、視線を下げ、呼吸を同期させる。
「いいですか。あなたは助かります。どうか、気持ちを強く持ってください」
若者の目が微かに揺れ、喉の奥で「あっ……」と音が漏れる。頷きとも痙攣ともつかない動きだが、意志はそこにあった。
ルーシャは短く息を整えてから、はっきりと詠唱した。
「大地を統べる母なる御方よ……この者の傷を癒したまえ」
瞬間、空気の温度が一段上がる。光が、彼女の手のひらから静かに溢れた。派手な閃光ではなく、雪解けの水が土へ染みていくような、深い浸透。
ロイドはいつも通り周囲の視線と動きを警戒しながら、同時にその光を横目で見やった。瘴気のさざ波が右腕の痣を撫で、さっきまでの針先の痛みが、温かさに溶けるように引いていく。
ザックの傷口は縫い合わせる間もなく、肉が寄って血が止まり、皮膚が新しい膜で覆われる。魔物の爪痕が潮が引くように浅くなっていった
次第に呼吸が深くなり、胸郭が大きく上下する。彼の目が、確かな焦点を取り戻した。誰かが息を飲み、誰かが両手を胸の前で組む。
「あ、ありがとうございます……! 助かりました」
ザックは上体を起こし、両手で地面を掻いて、慌ててルーシャに頭を下げた。
村のあちこちから歓声が上がり、手を打つ音が続いた。泣き出す女の子を抱き上げる母親。老人の目から、静かに涙が落ちる。
ロイドは一歩、ザックの側にしゃがんだ。血の量に対して意識の戻りが早い。よかった。これなら大丈夫そうだ。
「どこでやられた? 村の近くか?」
ロイドは矢継ぎ早に訊いた。治ったばかりで急かして悪いとは思うが、襲われたのが村の近くだと調査よりも防衛準備の方が先になる。
「見回りの範囲を伸ばして、森の奥に行ったら……魔物の数が桁違いに増えて、逃げるのが精一杯でした」
ザックは息を一度、深く吐いた。声は震えているが、言葉はまとまっていた。
村の近くではないらしく、安堵の息を吐く。
「その奥ってのは、例の神殿の近くってことか?」
「はい。壊れた祠まで見に行ってみようと足を伸ばしたら、このザマです」
少年は項垂れて、自分の服を見やった。散々追い回されたのだろう。爪痕で服はボロボロだ。
ロイドは頷き、右手の痣へ視線が行きかけるのを堪えた。先ほどまでの疼きが、またじわりと戻る。瘴気の濃度が高い筋道が、一本に繋がった。
「自分の天運に感謝しておけ。お前はツイてる」
ロイドはそう言い、視線だけでルーシャを示した。
ザックがはっとして、もう一度深々とルーシャに頭を下げる。
「ありがとうございます、シスター。本当に助かりました」
「いえ、気になさらないでください。これも女神様のお導きですから」
ルーシャは照れたように言って、小首を傾げた。
ザックの頬に赤みが灯ったのがわかり、ロイドは思わず目を逸らす。
(全く……その笑顔を、誰彼問わず振り撒かないでくれ)
心の中で、そんな愚痴を漏らす。
誰かが自分の恋人に恋する瞬間を見るのは、あまり気持ちのいいものではなかった。
ロイドは小さく嘆息してから、ザックの方に向き直った。
「さて、ザック。起きて早々で悪いんだが、簡単でいいからこのあたりの地図を描いてくれないか? その祠の位置も含めてな」
「はい、もちろんです!」
周囲から猟師たちが二、三人、気づけば集まっていた。
納屋の壁に板を立て、木炭と短い棒を持ち寄り、ザックが中心になって描き始めた。小川の位置、浅瀬、ぬかるみ、倒木、獣道、崩れた橋脚。村人の記憶は、地図にするとき驚くほど具体性を持つ。
ロイドは位置の誤差を問うために、二人以上の口から同じ地点の話を引き出した。ルーシャは記号の脇に印(危険・匂い・音)を分けるよう提案し、板の端に簡単な凡例を作った。
描いているうちに、村の空がわずかに明るくなり、太陽は薄雲を通して輪郭を隠した。村長が温かいスープを運び、少しの黒パンを配ってくれた。
ロイドとルーシャは礼を言い、口に運びながら板を覗く。森の奥へ続く谷筋、その先の窪地に、丸で囲った小さな印。ザックが木炭で指先を黒くしながら、そこを叩いた。
「ここが祠です。石段があって、半分くらい崩れ落ちてます。嵐で木が倒れて、上から潰れたみたいで。で、その少し手前に、石が四つ並んでました」
「それが結界か何かか?」
「だと思います」
ロイドの問いに、ルーシャが頷いた。境界杭の類だろう。古い聖域は、四隅や方角に結節点がある。そこで結界の張力を保つのが通例だ。
板の別の位置に、猟師の一人が『匂い』の印を点々と足し、別の者が『足跡(小型多い/大型一)』と書き加える。
しばらくして、板の上には諸々の情報が揃った。あとは、現地で空気の匂いと風の筋道を確かめるだけだ。
「地図が完成し次第、俺たちも一度そこに行ってみるか」
地図を描いてくれているザックを眺め、ロイドは言った。
ルーシャもこくりと頷く。
「ですね。その祠というのも、見てみないことにはわかりませんし」
「祠、直せるか?」
「どうなのでしょう……? 結界魔法の類だとは思うのですが、今の段階では何とも」
ルーシャは困ったように首を傾げた。彼女の知で補える部分と、古式の術式の断絶。その間に橋を架けられるかどうかは、現物を見ない限り判断できない。
大昔の〝聖女様〟の術が、いかほどのものか。〝白聖女〟と呼ばれる彼女と、同じ系譜の魔法であればよいのだが。
(もしかすると、出番がくるかもな)
ロイドは自身の右手を見下ろした。右手の痣が、森の方角を意識した瞬間にぴりりと反応する。嫌な予感ではない。むしろ、正しい方向に近づいている時に鳴る、警鐘のような合図だった。
切り札は使わないに越したことはない。だが、聞いている限りでは、魔物の数も結構なものだ。〈呪印〉の力なくして切り抜けるのは難しいかもしれない。
ふと、その右手をルーシャが取って、ぎゅっと両手で握りしめた。
「……もう、あんな無茶はしないでくださいね?」
そして、心配そうにこちらを見上げ、懇願するように言った。
以前の影狼との戦いのことを言っているのだろう。あの時は意地を張ってしまって、彼女にも心配を掛けてしまった。
「わかってる。もうあの時の俺とは違うから」
その手を握り返し、ロイドはできるだけ優しく言った。
そう。あの時とは違う。今はもう、ルーシャと〈共鳴〉しているのだから。
そんなロイドにルーシャは一瞬だけ目を丸くしてから、嫣然と微笑んでみせたのだった。




