第63話 ミンガラムへ
南へ伸びる街道は、森の影と陽光の斑が地面に模様を作っていた。
車輪が轍を踏み、軋む度に乾いた砂が低く鳴いて舞い上がる。御者台に腰を据えたロイドは、手綱を緩めたり締めたりしながら、前方の樹間を見計らっていた。風向きは南西。森の吐息が、鼻腔の奥で湿って重く滞っている。
隣でフードを畳んだルーシャが、遠くへ視線を細めた。指先が膝の上で寄り添うように結ばれ、白銀の髪が光を受けて淡く揺らめいた。
「なんだか、森の空気が少し重いですね」
「ああ。嫌な感じだ」
口にした瞬間、右手の甲の下で〈呪印〉がぴりっと針先のように疼いた。
皮膚の内側で黒い水がさざめく感覚。風に混じって、極薄く砕けた硝子のように刺す匂い──瘴気の匂い──が、確かにある。ロイドは意識の端でそれを宥めるように、指先を軽く握り込んだ。
「大丈夫ですか?」
ルーシャの視線が右手に落ちて、柔らかな手のひらがロイドの腕に触れた。
痣が疼いていたのは、すぐにばれてしまったようだ。恋人という言葉が持つ意味は、こういう時に骨身にしみる。
心配をかけたくなくて、ロイドは軽口を叩いた。
「大丈夫だ。何ってったって、俺には〝白聖女〟様がいるからな」
「もう、ロイドったら」
唇に笑みを作るルーシャにつられて、胸の強張りが少しほどける。重い空気は相変わらずだが、喉の通りが幾分ましになった。
日が傾き始めた頃、森の薄闇がとぎれて、丘の谷筋の先に点々と屋根が並んだ。ミンガラム──山裾の浅い盆地に抱かれた、小さく古い村──に着いた。
家々の壁は土と木で、石積みの基礎が低く露出している。畑の畝は細く、ところどころに刈り残した茎が目立った。軒下の護符は色が抜け、風鈴は鳴らずに蜘蛛の糸だけが揺れていた。
村の入口で、背の低い柵の影から覗いていた子どもが、こちらを見た途端、ぱっと目を見開き、泥の跳ねを立てて走り去った。戸口が音を立てて閉じる。細い廊下に潜る影が、ひとつ、ふたつ。そんな様子を、ルーシャが寂しげに見つめていた。
「怯えられてしまってますね……」
「まあ、な。そんだけ今、この村は不安で一杯なんだろ」
村の空気が、どんよりと重い。活気のようなものはなかった。
足を止めた馬の鼻息が白く散って、静けさが戻る。
視線は感じていた。窓の隙間、垣根の向こう、干し網の影。刺すような敵意ではないが、怯えと訝りが混じる、閉じた視線だ。
「とりあえず、ちょっとでも友好的な奴を探そう。傍を離れるなよ」
「はい」
馬繋ぎ場に馬車を停めると、ふたりは御者台から降り、村の中央へと歩を進めた。
人通りはまばらで、井戸端の桶の水面に落ちた葉が小さく回っている。数人の男たちが距離を置いて立ち、こちらを観察していた。
ロイドは両手を見せるように軽く広げ、努めて落ち着いた声音で切り出す。
「俺たちは、ここ最近の魔物の増加を調べに来た。前に、ここに来た隊商から依頼されてな。そいつからこれを預かってる」
上着の内ポケットから取り出した布包みを解いた。
手のひらに収まる暗色の石。瘴気の薄い膜が、石の表皮から滲みていた。
群衆の後ろから、若い声が弾んだ。
「それ、僕が拾って村長に渡したやつだ!」
声の主はまだ少年と青年の間の年頃で、頬に細かい傷がいくつも走っている。彼は大股で近づいてくると、緊張と安堵が混じった顔でロイドを見上げた。
「村長のところへ案内します。どうか、僕らの村を助けてください」
「最善は尽くすよ」
ロイドは頷き、示された方角へ身を返す。
家々の奥、緩やかに曲がる路地の突き当たりに、大きな屋根の家があった。梁はしっかりしているが、戸板の隅が摩耗して白くなっている。
家の前まで行って少年がノックをすると、中から白髪の老人が現れた。顔の皺は深いが、眼差しは鋭い。
少年から軽く説明を受けると、老人の表情が一気に柔らかくなった。
「おお……あの商人さんが人を派遣して下さったのか。女神様に感謝を」
声に滲む安堵が、そのままこの村の疲労に重なっているのが伝わってきた。
「どうぞ、中へ」
ロイドとルーシャはそのまま中へ通された。
広間は簡素で清潔だが、壁際に積まれた干し草束の量が少ない。食料も燃料も、ぎりぎりなのだろう。
卓を囲んで腰を下ろすと、村長は状況を手短に語った。
最近、村の外縁で魔物の影が増えていること。夜になると遠吠えが近く聞こえ、畜舎の扉が引き裂かれたこともあること。何度か巡回の猟師が怪我を負っていて、薬草も足りないそうだ。
「領主には連絡しなかったのか?」
「送っておるとも。何度もな」
村長は苛立った様子で答えた。
これまで彼らは既に領主へ文書を送ったのだという。だが、一向に調査団や討伐隊は派遣されず、状態は日に日に悪くなっているようだ。クロンが話を聞いた時よりも状態は悪化していると見て間違いない。
「教会も何もしてくれないんですか? ここにも神父は来ていますよね?」
今度はルーシャが訊いた。
ここに来るまでの過程で村を見回していたところ、教会は見当たらなかった。教会がないような小さな村は、近くの村や町の教会の神父が派遣されてくることが通例だ。主に説法をしたり結婚式・葬式を取り仕切るのが彼らの仕事だが、村の見回りも兼ねている。曰く、問題が起きていそうな村は神父から教会に報告が行き、教会側が調査団を送ってくることもよくあるそうだ。
だが、村長は首を横に振った。
「神父さんも、魔物が多く出るようになってから来なくなってしまったよ。小さな村故に、人を回してもらえなかったんだろうね」
村長の言葉の端々が、悔しさに震える。村の壁に掛かった古い聖画の前で、幼い子どもが母の裾を握ってこちらを見ていた。祈る相手はいる。だが、その手は彼らには届いていなかった。
(何だよ、それ。完全に見捨ててるじゃないか)
つい、イラッときてしまう。彼らだって税金を納めているし、信仰も捧げていた。それなのに、恩恵を得ている連中は何も対処していない。
ルーシャの指が、膝の上でわずかに強く結ばれた。目元の影が一段深くなる。
「……大変でしたね」
ルーシャは村長を慮るように言った。
静かな同情。その一音ごとに、〝白聖女〟の怒りが薄い層になって重なるのを、ロイドは横顔から読み取った。
きっとロイドと同じように苛立ちを覚えたのだろうが、それをぐっと堪えて、その一言で済ませたのだ。いや、教会の上層部にいたからこそ、こうして弱者を切り捨てるような行為が尚更許せなかったのかもしれない。
ロイドは村長へ向き直って言った。
「この村を拠点にして調査をしたいんだけど、どこか部屋を貸してくれないか? ないなら、納屋でもいい」
「それでしたら、うちに一部屋余っております。お使いください」
村長は即座に応じ、奥の廊下へ案内した。
通された部屋は簡素な寝台がふたつと、小さな卓、窓。窓辺には薄布のカーテン。外の光は柔らかく、庭の隅に干した薬草束が陰を落としていた。
荷を解き、ロイドは窓際へ歩む。カーテンを指二本分だけ閉め、残りの隙間から外を覗いた。今この部屋が見張られている様子はなさそうだ。
「ふぅ……」
ベッドの端に腰掛けたルーシャが、小さく息を吐いた。肩の力がほどけ、背筋から力が抜けている。
「疲れたか?」
「はい。少し、疲れました」
ロイドが訊くと、彼女は苦笑いを浮かべてみせた。
移動に次ぐ移動。これだけ長い時間を馬車の中で過ごしたのは、あの家で暮らし始めてからは初めてだった。
最初の逃亡劇を思い出したのかもしれない。
「結局……領主も教会も、こうした小さな村は見捨ててしまうんですね」
ぽつりとルーシャは呟いた。その呟きが、空気の温度を一度だけ下げる、寂しい正直さ。
教会には治安維持の役目もある。ルーシャを追っていた神官騎士たちも、本来はこうした小さな困り事を解決する役割も担っていた。
けれど、帳尻を合わせる計算の端で、数値の小さな村は切り捨てられてしまう。優先順位と効率。言葉は正しいけれど、人の暮らしはその正しさだけでは守れない。
「だからこそ、俺たち〝なんでも屋〟がいるってもんさ」
ロイドは窓から離れ、彼女の隣に腰を落とした。
言いながら、胸のどこかでクロンの顔を思い浮かべる。あの〝子供商人〟がグルテリッジの困り事を引き受け続ける理由が、まさにそれだった。領主が拾わないものを拾い上げるために、彼は帳簿と知恵を使う。ならば、剣と魔法で拾い上げるのが、ロイドたちの役割だ。
「……そうでした」
ぽわっと灯りがともるように、ルーシャが微笑んだ。
体温が近づき、彼女はそっとロイドの肩に頭を乗せた。髪の香りが薄く広がり、窓の隙間から入る乾いた風と混ざっていく。
壁の向こうで、誰かが戸口を閉める音がした。庭では鶏が羽を鳴らし、夕方の影が少しずつ部屋の輪郭を柔らかくする。
遠く、森の奥でひとつだけ、鳥が低く鳴いていた。




