第62話 瘴気を纏った石
「やあ、ふたりとも。いらっしゃい。ちょうどよかった」
ロイドが扉を開けるや否や、帳簿机にいた〝子供商人〟がにやりと片手を上げた。手つきだけは年相応に大人びていて、その表情は相変わらず子供みたいだ。
「……ちょうど?」
ロイドが僅かに眉を寄せると、その答えはすぐ視界の端から現れた。帳場の前の空いたテーブルに、先客が二人。そのうちのひとり──フランがこちらを振り返り、ぶんぶん手を振った。その拍子に、ふわりと短めの黄緑の髪が揺れる。
「やっほー! ロイド、ルーシャ!」
「なんだか随分久しぶりって感じね」
その隣で、腰掛けたままのエレナが小さく手を上げる。
「おう、来てたのか」
「おはようございます。フラン、エレナ」
ロイドも片手で応え、ルーシャはぺこりと一礼してからフードを外した。店内の明るさに白銀の髪がきらりと光る。
クロンの目が一瞬だけそこに留まり、すぐ帳簿へ戻った。ロイドはふたりを見やって、訊いた。
「首尾はどうだ?」
「どうもこうもないわよ」
エレナが溜め息を吐いて、肩を竦める。
先に、フランが頬を膨らませた。
「コキ使われっぱなし! ほんと、クロンって人遣い荒いよねぇ」
エレナとフランがじろりとクロンを睨みつける。
一方のクロンは気にした様子もなく、ペンを手元でくるりと回しただけだった。
「忙しそうで、何よりだよ」
ロイドは呆れたように口の端を上げ、横でルーシャがくすっと小さく笑った。
文句を言う余裕があるなら、上手くいっている証拠だろう。
「そうそう。ふたりに借りてた分の材料費、一応貯まったから先に返してしまうわね」
エレナが腰の革袋からきちんと束ねた金貨の袋を取り出し、ロイドへ差し出した。
「そりゃ構わないけど、いいのか? そっちの方が色々要り様だろ? 返すのはもっと後でも構わないよ」
エレナたちの家の中は、もちろんまだ何もない。ベッドも卓も椅子も器も布も、暮らすには欠けているものが多すぎる状況だ。
優先順位を考えれば、金はそちらに回すのが自然だと思えた。だが、エレナはきっぱりとそう言い切った。
「ふたりに借りを作りたくないのよ」
「そーそー。友達にお金借りるのって、あんまり好きじゃないよねって話してたんだよね」
フランも同意するように、うんうんと勢いよく頷く。
(友達、か……)
ロイドには言い慣れない響きだった。遠くのものだと思っていた領分に、不意に自分の名が書かれる心持ち。むず痒いが、嫌ではない。
ルーシャが横からそっと覗き込み、柔らかな笑みを浮かべた。
「ロイド、嬉しそうです」
頬の熱を正確に指摘されて、ロイドは苦笑で返した。
でも、嬉しそうなのは彼女も同じだ。
「そっちこそ」
「……ですねっ」
ほんの一瞬だけ視線が合って、ほどける。
お互い、友達がいないような人生だった。だからこそ、こうして当たり前に友達と言ってもらえることが、嬉しい。
黒と白、呪と聖で正反対なはずなのに、彼女とは妙に共通点が多かった。もしかすると、これが惹かれ合った要因でもあるのかもしれない。
「わかったよ。じゃあ、こいつで貸し借りはなしってことで。もう修繕は終わってるから、いつでも住めるよ」
ロイドはエレナから金貨袋を受け取り、言った。
フランが目を丸くして前のめりになる。
「え、もう直してくれたの!?」
「はい。昨日終わりました。お掃除も済ませてありますよっ」
ルーシャは頬を綻ばせ、声を弾ませた。
「やったーっ。早く見たい! ね、エレナ!」
「ええ。楽しみだわ」
弾む声と抑えた声。どちらにも、安堵が混ざっている。宿暮らしをしている者にとって、拠点が決まった安心感はやはり格別なのだろう。
とりあえずふたりの〝なんでも屋〟活動は順調そうだ。家具を揃えられるぐらい貯まるまでは安宿で暮らし、揃い次第、新居へ──そんな感じで、エレナたちの引っ越しの段取りは決まった。
商館の空気は穏やかで、何もかもが予定通りに進んでいるように見えた。
ただ、この部屋の主だけが笑っていない。紙を繰る手の動きは滑らかだが、視線の奥が沈んでいる。ロイドはその陰りを見逃さなかった。
「どうした? 何かあったのか」
ロイドの問いに、クロンは筆先を止めて顔を上げた。
「ああ、うん。さっき、『ちょうどよかった』って言っただろ? ちょっとした厄介ごとが起きててね。どちらかというと、今回の依頼は君たちの専門分野なんだ」
「私たちの専門分野? なんでしょう?」
ルーシャが小首を傾げ、重ねて尋ねた。
「まあ、見てもらえばわかるさ」
クロンは机の引き出しを開け、布に包まれた小さな塊を取り出した。
白い布切れの角を二、三度つまんで解く。現れたのは、手のひらに収まる暗色の石。いや、石と呼ぶには冷たさが過ぎる。空気の密度がそこだけ重なったような、あの、嫌な圧。
机の上に置かれた途端、ロイドの右腕がずきりと疼いた。〈呪印〉の痣が、微かな脈を打って反応する。皮膚の下をゆっくり撫でるように黒いさざ波が這う、あの感覚だ。
ルーシャの吐息が小さく震えたのが、すぐ横でわかった。
「これって……」
「ああ。瘴気だな」
見間違えようのない臭い。前触れのない不快な冷気。ロイドが〈呪印〉の力を解放する時に必ず嗅ぐ、硬質な陰。ほんの微かだが、確かにこの石は瘴気を纏っていた。
「どういうこと?」
エレナがクロンへ目だけで矢を送る。
クロンは両手の指先を軽く組み、説明の速度を選ぶように息を吸った。
「詳しいことはわからないんだ」
「わからないって……そんな無責任な」
フランが眉を顰めた。
白聖女が絡むと、穏やかなフランの表情が少し厳しいものになる。それはもう、教会にいた頃からの癖みたいなものだろう。友達と想っていても、そう簡単に以前の習性が消えるものでもない。
「そんなに怖い顔をしないでくれ。隊商でミンガラムという南の小さな村を訪れた時に、そこの長老からこんなものを拾ったって相談を受けただけなんだ。最近、その村の近くではやたらと魔物が出てくるようになっていて、これが関係してるんじゃないかって話さ」
「ミンガラムか」
ロイドの頭に、地図の端の白い斑点が浮かび上がる。
グルテリッジから数日ほど移動した場所にある、山裾の浅い盆地。支流がいくつも合流し、風の抜けも悪い地域だ。石が微かに瘴気を纏っているということは、きっとその大元がどこかその地にあると見て間違いない。
放っておけば、村の縁に歪みができるだろう。魔物の出現頻度が上がるのは、その歪みに似合った結果の一つに過ぎない。
フランが腕を組んでロイドとルーシャを交互に見た。
「なんか結構危なそうじゃない? あたしたちも手伝おっか?」
「んー……」
ロイドはちらりと隣のルーシャを見た。ルーシャもまた、ロイドを見ていた。
なんとなく同じことを考えているんだろうな、というのがそれだけでわかった。
エレナたちはエレナたちで、今は稼ぎ時だ。他にも依頼はあるだろうし、この街の〝困り事〟を解決して回る方が、きっとお金にはなるだろう。
何より、今はまだ因果関係さえわかっていない。ただ瘴気を浄めるだけで片付くなら、ロイドとルーシャのふたりで十分だ。
ロイドはルーシャに短く頷いてみせると、フランへ向き直った。
「いや、一旦俺たちふたりで行ってみるよ」
フランはすぐに顔を曇らせ、隣のルーシャを案じる視線に変えた。
「本当に? 大丈夫?」
「はい。まずは調べてみないことには、何が問題なのかもわかりませんし。解呪だけでしたら、私だけでも何とでもなりますから」
ルーシャはにっこりと微笑んで応えた。
その笑顔を見て、ロイドも小さく息をついた。
「もし大事になりそうだったら、こっちに戻ってきて助っ人を頼むよ」
段取りはそれで足りる。まずは、ミングラムの状況確認が先だ。
もし魔物の数があまりにも多いだとか、ふたりだとどうにも危ないと判断した時は、遠慮なく頼らせてもらおう。
「了解!」
「わかったわ。いつでも頼ってちょうだい」
フランの明るい返事とエレナの端的な承諾が、妙に心強かった。背中を押す声は軽いのに、不思議と重みがある。
これが仲間、というやつだろうか。以前パーティーを組んでいた時にはなかったものを、確かに感じた。
「じゃあ、これは君たちに渡しておくよ」
クロンは石に布をかけ直し、ロイドへ渡した。石から手のひらに鈍い冷たさが移り、右手の痣がずきりと反応する。
「やれやれ。面倒なことにならなきゃいいけどな」
エレナたちはまだ依頼の話があるとのことなので、ふたりを残してルーシャと商館を出ると、早速ロイドがぼやいた。
「そうですね……」
ルーシャは空を見上げた。
空は白く褪せ、風だけが通る。何かの未来を予知しているかのように、彼女の表情もどこか不安げだった。




