第61話 悪戯には悪戯で
ある日の昼下がり。家の前の空き地で、ロイドはいつもの素振りと体幹の鍛錬に励んでいた。
足裏で土の硬さを確かめ、重心の線が地面へ垂直に落ちる感触を探す。腕を引き、体を捻って力を溜め、解き放った。それを繰り返すうちに、汗が背中を伝って裾へ落ちる。
戦場にいた頃と違って、今は切迫した必要があるわけではない。〝なんでも屋〟でも、影狼のような危険が伴う依頼はどちらかというと少なかった。
けれど、いつまたああいう危険な依頼があるかわからない。いや、依頼でなくとも、いつこの生活が脅かされるかもわからないのだ。
そうであれば、いつ何時でも自分のフルパワーが出せるように、心も体も準備をしておく。そう思い、鍛錬に励んだ。
ふと、家の戸口が影を伸ばし、涼やかな気配が近づいてきた。
もちろん、ルーシャだ。
「ロイド」
「ん?」
「お茶を淹れたのですが、一緒にどうですか?」
「おお、ありがとう。じゃあ、ちょっと休もうかな」
ルーシャから差し出された木杯を手に取ると、澄んだ冷気が立った。
口縁に触れると、外気より一段階下の温度が舌先を撫でる。魔法で冷やしてくれたのだ。
胸の奥にこもった熱が、一口で静まっていく。こういうところでさりげなく気を回してくれる彼女の感覚が、ロイドは好きだった。
地べたに腰を下ろし、喉にひと筋落とす。
「美味いな、これ。運動後の身体に染み渡る」
「この地方でしか採れない茶葉だそうです。美味しいですよね」
ルーシャも隣に腰を下ろし、自分の木杯に口をつけた。ふたりの間にひと筋の影が落ち、飲み干す音が二拍ずれて重なる。
風が渡り、葉擦れが耳の奥に染み込んでいく。見渡せば、空き地の向こうには、朽ちた家がひとつ。そのさらに先に、この前直したエレナたちの家が見えた。土の匂いと木の匂いが薄く重なって、昼を伸ばしている。
(汗を引かせるのにはちょうどいいか)
ロイドは小さく息を吐いて、隣を見やる。彼女の気配が隣にあるだけで、どうしてこんなにドキドキするのだろうか。未だに慣れないものだ。
沈黙が和らいだ頃合いを見計らうように、ルーシャがぽつりと落とした。
「できれば、ちゃんと全部整えてあげたいんですけどね」
彼女の視線の先には、一番近くの廃屋があった。普段あまり意識しないが、こうして見ると、廃村に住んでいるんだなと実感させられる。
「さすがにふたりでそれをやるのは骨が折れる。新しく住む奴が増えれば、また進めればいいさ」
ロイドは木杯の底を光に透かしながら答えた。実際問題として、ここはもう地図に名前のない場所だ。街道から外れた忘れられた点。結界が張られているから魔物は来ないし、来るとしたら野盗崩れが風を測り損ねて迷い込むくらいだろう。
無論、そのための備えも怠ってはいない。村跡を囲む木立の間に、目立たない踏み糸を交互に張った。どこか一箇所でも引っ掛かれば、家の梁に吊るした小鈴が鳴って知らせる。数日前、狐が一度だけ鳴らした以外、静かなものだ。
村の端、補修済みの屋根の斜面に日が斜めに差す。乾いた光の上を、薄い雲の影がゆっくりと滑っていった。
「フランたちは、上手くやっているでしょうか?」
「何も連絡がないってことは、上手くいってるってことさ」
ふと、家の前にある伝書鳩の籠を見やった。中には一羽だけ。 クロンからの伝書鳩は、まだ来ていない。
あのふたりなら、仕事を選ばなければいくらでも稼げるはずだ。エレナの几帳面さと真面目さ、それからフランの明るさは、むしろ勇者パーティーとしてよりも〝なんでも屋〟の方が適性が高いようにすら思えた。
対して、ロイドとルーシャは良くも悪くも目立ってしまう。ロイドが力を解放すれば黒い瘴気を纏うし、ルーシャの神聖魔法も強力過ぎた。いつぞやの依頼では、光の柱を天に昇らせたことがあった程だ。聖女の力も〈呪印〉を隠すのは、それなりに難しいものだ。
ただ、何もない日々をこのまま続けるのも、それはそれで悪くなかった。空は広く、昼は穏やかで、夜は静かだ。穏やかに愛を育み、年老いていくのも悪くはなかった。
だが、静けさだけでは腹が満たされないのも事実。ロイドは訊いた。
「食糧、そろそろ尽きる頃合いか?」
「そうですね。明日の朝の分で最後です」
「じゃあ、明日あたり街に行ってクロンのとこにも顔を出してくるか」
「そうですね。街に出るのは久しぶりなので、楽しみです」
ルーシャははにかんで頷き、そのままロイドの二の腕へ身体を預けてきた。体温が寄り、布越しに重みが乗る。汗で張り付いた襟元に、ロイドは遅れて気付いた。
「……俺、今汗かいてるぞ」
「そんなの、気にしませんよ」
くすくす笑って、ルーシャが言った。
嬉しいけれど、ちょっと恥ずかしい。
「俺が気にする。せめて風呂に入らせてくれ」
そう言うと、ルーシャは少し照れたような顔をして。
こう続けたのだった。
「じゃあ……久しぶりに、一緒に入りますか?」
「え!? まじ!?」
思わず、身体をがばっと起こした。
一緒に入ったのは、初めてここの浴室小屋を利用した時以来だ。
あの時と今では、関係が違う。今一緒に入ればどうなってしまうのだろうと思いを馳せてしまうのも無理はなかった。しかし──。
「冗談ですっ。一緒にお風呂は……やっぱり恥ずかしいので」
舌をぺろっと出して、おどけてみせた。木杯の縁を指先で叩いてから、彼女は上目遣いでこちらを見上げてくる。肩に残った寄りかかりの重みが、くすぐったい。
ロイドは、苦笑いとも溜息ともつかない息を短く吐き、木杯を地面に置いた。愛しい、と思うまでに時間はかからない。台所での気配、魔法の光の柔らかさ、疲れたときの目尻の落とし方、そして今みたいに、冗談で距離を縮めてくる無邪気さ。全てに対して、身体が反応してしまう。考える前に感じてしまう、というやつだ。
「こんの、悪戯っこめ」
冗談の返礼は冗談で──そう決めて、ロイドは草に座ったままの姿勢で彼女の手首を軽く引いた。
抵抗はされなかった。柔らかな体重がそのままこちらへ倒れてきて、ふたりの影が一つに重なる。
「……んっ」
彼女が驚きの声を上げる前に、唇を塞いでやった。先ほどの紅茶が唇に残っていて、少し冷たい。彼女の呼吸がふっと乱れて、ロイドの口付けに応えるように、首に腕を回した。
指が衣服の皺を撫で、胸の鼓動が少し速くなる。訓練の熱と、彼女の近さの熱が、喉の奥で混ざった。
視界の端では、風が草の先を平らに撫でていく。鈴は鳴らず、村は静かなままだ。遠くの樹間で鳥が入れ替わり、空に薄い筋が一本だけ引かれた。
「続きは、夜な」
ロイドは唇を離し、距離を指幅ほど空けて彼女の額に軽くキスをした。冗談が冗談で終わるくらいの軽さに留めて、けれど言葉にしない答えをきちんと残しておく加減で。
「……少し、安心しました」
彼女が瞬きを二度、三度。それから、ほっとしたような笑みを零した。
ここでおっ始めるでも思ったのだろうか。さすがに、人がいないとはいえ、そんな恥ずかしい真似はできない。
ロイドは無言のまま彼女の肩を起こすと、木杯を取って、残りの紅茶を飲み干した。喉を通る冷たさは、さっきよりも柔らかい。
汗はまだ引き切らないが、胸の奥にあった焦りのようなものは、とっくにどこかへ消えていた。




