第58話 騒がしい夜
家の候補が決まったからには、最終確認だ。
ロイドたちは一旦家に戻り、台所で片付けをしていたルーシャに、家の状態を見てもらうことにした。〈修繕魔法〉は万能ではない。どこまで魔法で賄えるのか、どこから先は人力と素材が要るのか、その判断はルーシャ本人に確認してもらわなければならなかった。
ルーシャを連れて、四人で候補の廃屋へと舞い戻る。風はもう夕方の匂いを含んでいて、林の影が少し長くなっていた。
「あ、この家にしたんですね」
ロイドが戸口のない開口部から中を覗くと、ルーシャはひょいと身を乗り出し、中の梁と壁の繋ぎ、床板の目地を見回した。
仕草は可愛いが、その眼差しは真剣そのもの。台所での彼女と同じくらい、いやそれ以上に、こういう時のルーシャは頼もしかった。
「確か、私たちもここを候補に挙げてましたよね?」
「あー、そういえばそうだったな」
この廃村に来た初日、ふたりで見て回った時に一度「あり」と印を付けた家だ。最終的に今の家を選んだのは、向こうの方が広く、修繕する箇所が少なかったからに過ぎない。
そこで、ルーシャが外を見て、はたと首を傾げた。
「あれ? でも、間にもうひとつ家がありますよね? あちらも悪くなかったように思うのですが──」
「あ、あっちはその! 色々あって、こっちの方がいいってふたりが言ったんだ。な?」
ロイドは慌てて話を遮った。
また夜の声がどうの、という話をされては堪ったものではない。ここで掘り返されたら、ルーシャが耳まで真っ赤になって固まるのが目に見えていた。
いや、それだけではない。エレナとフランが引っ越してきたら、そういうことをしてくれなくなる可能性すらあった。
エレナとフランを睨みつけると、ふたりは「わかってるわよ」と言わんばかりの意味ありげな笑みを浮かべた。もちろん、からかいの矢尻だけはしっかりこちらに向けたままだ。
「……? そうなんですか? あっちの方がご近所さんなのに」
無垢なルーシャは、眉根をハの字に寄せて小首を傾げた。
そんな彼女に、ロイドは胸の内で手を合わせる。彼女の純情さだけが、今は味方だった。
「じゃあ、早速状態を見てもらえるか? 魔法じゃ無理なところは他のもので補強していこう」
気を取り直し、ロイドは床板の抜けた場所や、壁の裂け目を指差していった。
ルーシャは頷きつつ、膝をついた。指の腹で材の繊維を確かめ、鼻先で湿り気を確かめるように息を吸っている。
「そうですね……ここと、ここの穴。それから床に空いてしまっている穴も多分直せないので、補強してもらわないとかもです」
言いながら、梁から落ちた小片を拾い、割れ面を見せた。
繊維が粉を吹くほど死んでいる。ああなると、繊維の結びが利かないようだ。
「え、ちょっと待って。じゃあこっちの壁とかは直せるってこと?」
エレナが、ひび割れが蜘蛛の巣みたいに広がった壁を杖で示す。触れば崩れそうに見えるくらい、もうボロボロの壁だ。
「はい。その程度であれば、大丈夫ですよ?」
ルーシャは立ち上がり、手を翳した。
「大地を統べる母なる御方よ……破れし契り、断たれし道、再び結び、元の姿に戻したまえ」
その瞬間、淡い光が手元に灯った。
光は手から離れ、音も立てずに壁の裂け目へ滑り込む。生き物のようにひびの一本一本をなぞり、ほどけた繊維を探し当て、優しく包み、縫い合わせていく。さっきまで砂のように脆かった壁面が、目に見えて締まった。
「これが噂の〈修繕魔法〉ね……さすがだわ。こんな魔法、初めて見た」
「すっご! あたしには絶対真似できないよ、こんなの」
ふたりの声が素直に弾んだ。
ロイドも初めて見た時は同じ顔をしたのを覚えている。何度見ても、不思議な魔法だった。壊れたものが、元の姿を思い出すみたいに直っていくのだから。
「これなら、本当にちょっと素材を買ってくるだけで家の形を取り戻せそうね」
エレナの言葉に、ロイドは顎を一度だけ落とす。
「実際に、あそこの家もそんな感じだったしな。明日街まで出るつもりだから、ついでに諸々乗せて帰ってこようか?」
「うん、お願いー!」
フランが即答した。
勢いの良さと素直さが彼女の長所だ。頼るところは頼る。ひとりで何でもやってしまいがちなロイドからすると、少し羨ましいところでもあった。
「あ、でも……街まで戻るなら、そろそろ帰らないと。暗くなると、さすがに私たちだけじゃ危ないし」
エレナはそう呟き、不安げに西の空を見上げた。
もう影が長くなっていて、森の縁にはすでに夜の色が滲み始めていた。
街道でも、夜は魔物が増える。後衛ふたりだけでは、些か心許ないのだろう。
そんな彼女を見て、ルーシャがおずおずと提案した。
「そのことなんですが……今日は皆さん、うちで泊まっていっては如何でしょう? そうすれば、明日一緒に街まで出れますし」
「え、いいの!?」
「それは助かるけど……迷惑じゃない?」
その提案にフランが顔を輝かせたが、エレナは不安げにこちらを見てきた。
ロイドは肩を竦めてから、こくりと頷いてみせる。
「まあ、俺は最初からそのつもりだったんだけどな。一応共用になる風呂も一回入ってみてほしいし。それからここで暮らすかどうかの判断してもいいんじゃないか? そんなに急がなくてもさ」
風呂という単語に、フランとエレナの瞳の輝きが増した。
「噂の毎日入れるお風呂ね!」
「そんなの絶対幸せだからもう決定でいいんだけど!?」
「ま、まあ入ってから決めてくれ」
ロイドはルーシャと顔を見合せ、苦笑いを交わした。
風呂、という単語はどうしてこうも女子の士気を底上げするらしい。ルーシャも毎日の楽しみにしているようだし、きっと特別なものなのだろう。それに、女の子はいい匂いがした方が男側からしても嬉しいので、困るものでもない。
とはいえ、問題がひとつだけ残っている。寝床だ。人が寝られるようなベッドは、今のところこの村にはうちの寝室しかない。ベッドは大きめだから女三人なら入るだろうが、さすがにそこでロイドも一緒に寝るわけにはいかなかった。
(まあ、リビングで寝ればいいか)
毛布ならあるし、もともとどんな場所でも仮眠が取れるタイプの人間だ。ひとりで寝るのが少し寂しいところではあるが、今夜は仕方ない。
その結論に至ったところで、ルーシャが袖口をそっと掴んで小声で話し掛けてきた。
「その、ロイド。寝床の件なんですが」
「俺はリビングで寝るから、気にしなくていいよ」
「……すみません。ありがとうございます」
眉根を寄せつつ、困ったように微笑んだ。
気の回し方が、少しだけ申し訳なさそうだ。
「いいって。友達とのお泊り会、したかったんだろ?」
軽口で押し流すと、ルーシャはふいと横を向いて、頬を淡く染めた。
「……今日のロイド、少しいじわるです」
そう言って、こちらを横目で睨んでくる。
拗ね方がまた可愛い。顔が緩みそうになるのを、ロイドは喉の奥の小さな咳払いで押さえた。
その後も、最低限の確認を済ませた。直し切れない穴は丸太材と板で裏から塞ぎ、上から〈修繕魔法〉で結ぶ。床の抜けは梁を渡して受けを作るのが良さそうだ。屋根は野地板の無事なところが残っているので、明日釘と防水油を買えば、当座の雨は凌げる。水場は近い小川から手押しポンプを引けばよく、風の通りも悪くなかった。扉は一から作る必要があるので、長さも測っておいた方がいいだろう。
(まあ、このくらいがいい距離感かもな)
ふと、自分の家の方角を見て思う。これだけ距離があれば、互いの明かりも声も届かず、これまでと変わりない生活を送れる……さっきの冷やかしに対する反論ではないが、理に適っていた。
家に戻る頃には、森の上半分が藍色に沈み始めていた。戸口を開ければ、昼間の熱がまだわずかに残る室内の匂いに、夕食の香りが薄く混じっている。ルーシャはすぐに台所へ向かい、鍋の火加減を確かめ、保存しておいた料理を壺から出し、明日の朝用に何皿かを選り分けた。
フランとエレナは最小限の手伝いを申し出たが、ルーシャが「お客さんなんですから」と譲らず、結局、彼女たちは廊下の棚に置かれた手拭や寝具の位置を覚えてもらうに留めた。
風呂の支度はロイドが引き受けた。浴室小屋の窓を開け、精霊珠で水を生成してから珠を水に浸け、湯を張る。湯気が立ち上る頃には、夕空の最後の明るみが森の端で薄紙みたいに破れていった。
ロイドは湯温を確かめ、精霊珠を浴槽の中から取り出した。ついでに、いい香りのするハーブも一緒に浸けておく。これもルーシャが森で採ってきたもので、湯舟に入れておくだけでいい匂いがして、心が安らぐのだ。
「風呂、もう湯は張ってあるから先に入ってくれ」
家の中へ戻ってそう声を掛けると、いち早く反応したのはフランだった。
「じゃあ、ルーシャも一緒に入ろうよ! 女子三人で! お泊り会っぽくて良くない!?」
明るい声で、エレナとルーシャに提案する。
ちょっとその絵を想像してしまってどきっとするが、ロイドは気付かれないように視線を逸らす。
すると、ルーシャは瞬きを一度だけして、少しだけ考え込んだ。
「広さ的に、三人はちょっと厳しいかもしれません。ふたりなら入れたんですけど……」
〝白聖女〟の何気ない一言に、場の時間が止まった。
フランとエレナの表情が同時に固まり、ロイドの背筋にも冷たいものが走る。
いや、待てルーシャ。それはまずい。その発言はまずいって──そう思うものの、咄嗟に良い言い訳など思いつくわけがない。
「え?」
「……入れた?」
ゆっくりと、ふたりの冷たい視線がロイドに向いた。
空気がひやりとする。どうしてだろうか? 何故か、部屋の温度が雪国くらい寒くなった気がした。
「あっ……えっと」
ルーシャもそこで自分の失言に気付いたらしい。頬に赤みが差し、俯いて小さく肩を窄めた。
その反応が、火に油を注いだ。
「ロ・イ・ド~?」
「あんたって奴は……!」
「い、いや、待て! それにはちょっと深い事情が──」
ロイドは慌てて弁明しようとする。確かに『ふたりで入った』のは事実だが、あれは決してやましいものではなかった。
お互いに引くに引けず、気まずさを誤魔化すように入っただけで、実際にいかがわしいことなど何もしていない。というか、当時はそういう関係ですらなかったのだ。
だが、口で説明しても信じてもらえる空気ではない。むしろ、交際関係になる前に風呂に一緒に入ったなどと言えば、何を言われるかわからなかった。
エレナとフランは、氷のような視線を向けたまま、同時に口を開いた。
「……すけべ」
「変態」
先ほどと同じ言葉が、再び刺さる。
ルーシャは耳まで真っ赤にして俯き、ロイドは額を押さえて深くため息をついた。
(どうしてこうなるんだよおおおおお!)
ロイドの心の叫びは、誰にも届くことはなかった。




