第57話 ふたりの家選び
腹に温かな重みが沈み、呼吸の度に僅かに肋が軋む。
匙もフォークも、もうこれ以上は持ち上がらない──そんな種類の満腹感だった。卓の上には、それでもなお小鉢や大皿がいくつも残っている。皿の縁に残った白いソースの跡が、さっきまでの戦いの激しさを物語っていた。
ルーシャは客人の食事を見届けてから、ふっと肩の力を抜いた。だが、その視線の先にあるのは空になった皿ではない。まだ三分の一ほどは手つかずに近い料理たちだ。香りはまだ立っているのに、腹はもう受け入れを拒んでいる。どれだけ腹が空いていても、やっぱり胃袋にも限度というものがあった。もうこれは夕飯にでも回すしかないだろう。それまでに腹が減れば、の話だが。
「うぅ……ルーシャ、ごめん。全部食べ切れなかった」
フランが苦虫を噛み潰したみたいな顔で、申し訳なさそうに俯いた。胸の前で両手を合わせ、ぺこりと頭を下げる。
「いえいえ! 私の方が作り過ぎてしまっただけですので。美味しそうに食べてくれて、とっても嬉しかったです」
ルーシャの返事は、いつもの柔らかさに少し弾みが加わっていた。
人を喜ばせるのが心から好きな聖女様だ。ロイド含め、三人がバクバクと食べる様をずっと嬉しそうに眺めていたのが印象的だった。
「うん、ほんと美味しかったよ! 毎日食べたいくらい!」
フランは誇張でもお世辞でもなく、心底嬉しそうに言った。
彼女の素直さは、この家の空気と相性がいい。
「私の料理でよければ、いつでもご馳走します」
ルーシャが照れたように笑い、両手を膝の上で重ねた。
ロイドはそのやり取りを眺め、エレナと視線が合うと、同じタイミングでふっと笑った。どうやら、同じような感想を抱いたらしい。
「すっかり仲良しね」
「もともとふたりとも人懐っこい性格だからな。タイプが違う分、相性はいいんだろ」
「まあ、誰とでも仲良くなりそうだしね。フランは」
エレナがどこか呆れたように肩を竦めた。からかいと誇らしさが半々、といった顔だ。
「……嫉妬か?」
「何でそうなるのよ!」
即座に飛んできた叱責に、ロイドは手のひらを見せて降参の仕草をした。軽口はこの辺でやめておくのが賢明だ。
そんなロイドを見て、エレナは困ったように笑った。
「全く。あなたからこんな類の冗談を言われるなんて、想像もしていなかったわ」
「そうか?」
「そうよ。初めてじゃない?」
言われてみれば、こうしてエレナたちと冗談を交わしたのはこれが初めてだ。いや、そもそもロイドはこれまで軽口を叩くことさえなかった。
(俺も、変わったってことかな?)
それを思うと、ほんの少し照れ臭くもあり、嬉しくもあった。
彼女からもたらされる変化があるなら、喜んで受け入れよう。素直にそう思えた。
「ところでエレナ、フラン。腹いっぱいのとこ悪いけど、家の候補見に行かないか? 暗くなってからだと判別もしにくいだろうし」
会話が落ち着いたタイミングで、ロイドは腰を上げて訊いた。
「いくー!」
「そうね。じゃあ、食後の運動も兼ねて見て回ろうかしら」
ふたりの返事は早かった。ロイドは振り返り、ルーシャへ問いかける。
「ルーシャはどうする?」
「そうですね……私は少し後片付けをしておきます。お料理も傷む前に保存しないといけませんし」
ルーシャの視線が食卓をかすめ、並んだ鉢にそっと注がれた。
壺や瓶の蓋を閉め、冷ました方がいいものもある。鍋に戻すものもあるだろうし、洗い物も山のようになっていた。
「洗い物は俺がやるつもりだったんだけど」
「いえ、こういう時こそ分担しましょう。台所は私に任せてください」
「わかった。助かるよ。次は俺がやるから」
「はい。その時はお願いいたしますね」
ルーシャは嫣然として笑うと、小首を傾げた。
可愛い、と頬が緩みかけて、気を引き締める。さすがに客人の前で顔を緩ませるわけにもいかない。何を言われるかわかったものではなかった。
玄関で外套を引っかけ、家の外に出た。戸口に立つルーシャが、手を振って見送ってくれた。
「ラブラブだねえ」
「何だか、もうすっかり夫婦みたいね」
「……からかうな。ほら、行くぞ」
背に飛んでくるふたりの声を受け流し、ロイドは先を歩いた。引き締めたつもりだったが、十分顔が緩んでいたらしい。
外気が、緩んだ頬に触れる。昼の陽は少し傾き始めているが、光はまだ高かった。森の縁を渡る風が、乾いた草をざわりと撫でる。
三人で歩を合わせ、廃村の小径を抜けた。屋根の一部が落ちた家、壁が白く風化した納屋、斜めに沈んだ石造りの井戸──人が去って時間が過ぎた痕跡は、どれも黙ってそこにある。
だが、目を凝らせば、骨組みの健在な家、梁がまだ真っ直ぐな家が、ところどころに点在していた。〈修繕魔法〉を用いれば、骨だけでも立っていれば家は息を吹き返す。
ロイドは先頭に立ち、一軒一軒、柱の傾き、梁の継ぎ目、土台の割れ具合、屋根が葺き替えられそうかを目で確かめた。実際に直すのはルーシャだが、目利きはできるに越したことはない。それに、〈修繕魔法〉が使えないところは風呂の時のようにロイドが手を加えなければならなかった。
村をひと回りして、候補を三つほどに絞った。どれも壁の大半は落ちているが、土台は生きている。屋根の傾きが少なく、雨仕舞いさえ整えれば住めるような状態だ。水場の近さ、風の通りも悪くない。
「この中で言うと、ここかしらねえ……」
「だね」
エレナが杖の先で示したのは、森へ少し寄った位置にある家だった。ロイドたちの家からの距離にして、ぎりぎり目で追えば見えるかどうか、という塩梅。
ただ、少し離れた並びに、もう一軒、状態の良い廃屋がある。屋根の傷みが少なく、壁も真っ直ぐ立っているので、修繕の手間はあちらの方が圧倒的に軽かった。
「ここ? あっちの方が状態よくなかったか?」
「いや、まあ……それはそうなんだけど」
「ねえ?」
エレナとフランが、何故か苦い笑みを交わす。ロイドは眉を寄せた。
「どうした? 何か問題あるのか?」
「いや、大有りでしょ」
「え? 何?」
ロイドが訊ねると、エレナは半目になって返した。
「聖女様とあなたのイチャつきが目に入るかもしれないからよ。言わせないでよ」
「ばっ……そんな人前でイチャつくかよ!」
意味を理解した瞬間、頬の温度が跳ね上がった。
耳の後ろから、じんわりと熱が上がってくる。
「イチャつきだけならいいよ? もし、ねえ? 夜の声が聞こえたりしたら……あたしはもう生きていけないよおおお! 聖女様のイメージがああああッ」
フランが両手で頭を抱え、真っ赤になって叫んだ。
芝生がざわりと不安げに揺れる。何でそこでフランが死にかけるのか、理屈はわからないが気持ちはわからなくもなかった。
「こ、この距離で聞こえるとかどんな大声だよ! アホか!」
言い返しながら、頭の後ろを掻いた。実際のところ、ここまで離れていれば声など届くはずがない。少なくとも、そこまで彼女は大きな声は出していなかった……はずなのだが、こうして指摘されると、今さらながら一昨日の夜や昨日の朝のことを思い出す。
互いに求め合っている時は何も考えていなかった。もしかすると、聞こえる可能性も……いや、考えるのはやめだ。余計に顔が熱くなる。
「……すけべ」
「変態」
フランが呟き、エレナが追い打ちをかける。
理不尽だと胸の内で抗議しつつ、完全否定ができないあたりが痛かった。ロイドは口をつぐみ、喉の奥で呻いた。
ただ、そういった冗談やからかいを抜きにしても、家の選定としては理に適っている。こちらの生活の影が余計な形で届くことも、向こうの生活の灯りがこちらに差すことも少ないはずだ。互いに気を使わなくていい距離。家族ではないのだから、そういうご近所付き合いもありかもしれない。
兎角、こうしてエレナとフランの家の候補が決まったのだった。




