第50話 それぞれの事情
エレナとフランの視線が、ルーシャに釘付けになった。
部屋の空気が一瞬だけ沈み、次の瞬間には破裂したみたいに動く。
「ちょ、ちょっと!? 何で〝白聖女〟様がこんなところにいるのよ!」
エレナがガタンと音を立てて身を起こす。ローブの裾が跳ね、杖の石突が床を打った。
「ひ、ひええええ! 聖女様にお茶淹れさせちゃった! ほ、本当にごめんなさい! 許してください、知らなかったんですぅ~!」
フランは半ば悲鳴を上げながら膝から崩れ、絨毯に両手をつき、そのまま額を床に擦り付けそうな勢いで頭を下げた。
教会の末席に身を置く彼女にとって、〝聖女〟は教皇に近しい存在だ。狼狽の色が、全身から浮かび上がっている。
「あ、あの! 話を最後まで聞いてくださいッ」
ルーシャは慌てて立ち上がり、フランの前に膝を折って目線を合わせながら、両手を軽く上げて制した。
「落ち着け、ふたりとも」
ロイドは嘆息して腕を組んだ。
彼女が名乗るたびに、大抵こういうことになる。自分が初めて知った時も似たような反応だった。それは、この事務所の主も同じだ。
後ろの作業机では、その主が顎に手を添え、目だけで面白がるようにやり取りを追っていた。クロンもまた数日前、同じようにソファから飛び上がって、盛大に狼狽して見せたのだ。その時のことを思い出しているのだろう。
やがて、ルーシャに宥められたふたりは、恐る恐るソファに腰を戻した。
ふたりの視線が、忙しく揺れる。ルーシャの顔に留まってはロイドへ、またルーシャへと、落ち着きのない振り子になっていた。
ロイドはルーシャと一瞬だけ視線を交わし、互いに苦笑を洩らした。
「まあ……色々あって、〝白聖女〟ルーシャ=カトミアルと行動を共にしてる」
どこまで話す? と目で問いかけると、ルーシャはにっこり微笑んで、軽く頷いた。
「ロイド。おふたりには、私からお話させて頂いてもよいでしょうか?」
もちろん、それを断る理由はない。頷いてみせると、彼女は膝の上で指を重ね、淡々と語り始めた。
余計な修飾は一切ない、必要最低限の骨格だけを話していく。自分に降りた神託、教会が上から腐り始めている内実。都合の悪い神託を握り潰そうとした上層と、それに抗って貼られた〝偽聖女〟の烙印。身代わりの聖女を立てて民衆の目を誤魔化し、ルーシャ自身は牢獄に捕らえられていたこと。処刑される寸前、旧友の手のお陰で逃げられたこと、そこからは逃避行の日々を送っていたが、遂には追手に捕まりそうになったこと。そして──
「それで……絶体絶命という時に、ロイドに助けて頂いたんです。それからずっと、ロイドとは一緒にいます」
言い終えると、ルーシャは「ね?」と言いたげに小首を傾げ、ロイドに嫣然と微笑みかけた。
その仕草が胸の奥を不意に叩く。昨夜と今朝の記憶が、温度ごと蘇ってくるのを意識で押し留めた。
エレナとフランは、ううむ、と同時に低く唸った。ふたりとも、予想だにしていなかった事情に困惑しているようだ。
「俄かには信じられない話だけれど……本物の〝白聖女〟様がここにいるということは、きっと事実なんでしょうね」
エレナは顎に添えた指先で、杖の柄をとん、と一度叩いてから言った。目の奥は早くも状況の整理に向いている。
「聖女様を〝偽聖女〟として処刑しようとしたって……罰当たりが過ぎます。絶対に許せません」
フランに至っては、聖女を前にすっかり畏まってしまっていた。陽気な彼女も〝白聖女〟の前ではおちゃらけられないようだ。
ただ、教会に属していたからこそ、許せない話だったというのもあるだろう。教会上層部は信者全員に嘘を吐いていることに他ならないのだから。
「俺が引き受けられないって言った理由、わかってもらえたか?」
ロイドは肩を竦めた。ふたりの視線が同時にこちらへ戻る。
エレナが肩先で短く頷いた。
「まあ、ね。要するに、教会と国王、どちらの目からも逃れないといけないってことだものね」
「そういうことだ」
王国と教会。その繋がりがどれほど深いか、ロイドの立場からでは判然としない。
だが、王城にも教会と繋がりの濃い者はいる。仮に王国がロイドと〝白聖女〟が共にいることを知られたならば、教会側へ情報が流される可能性もあった。今のふたりの生活を脅かすには、十分すぎる懸念だ。
「でもさ、それって難しくない? だって、あたしらだって割とすぐにロイドに辿り着けたよ?」
フランが眉を寄せて言った。
ロイドと話す時とルーシャと話す時で口調が全く変わるのが、少し面白い。ただ、未だ緊張しているのか、指先は膝の上の布をつまんだままだ。
「……それが、想定外だったんだよ」
ロイドは正直に認めた。
彼女たちの口ぶりからすると〝なんでも屋〟の噂を辿ってここまで来たのだろうが、まさかそんなに簡単に辿り着かれるとは思ってもいなかった。そもそも〝なんでも屋〟という職自体珍しく、このあたりでは聞き馴染みがなかったというのも話が広まった原因だろうが、それにしても早すぎる。
「それに関しては、僕のせいだな」
クロンが手を上げ、申し訳なさそうに口を挟んだ。
「僕が何でもかんでもロイドたちに頼り過ぎた。実際にふたりは町の〝困り事〟を見事に解決してくれていてね。評判が頗る良くて、依頼がどんどん増えてるんだ。昨日の影狼討伐もあって、今日町は〝なんでも屋〟の話題で持ち切りだよ。すまなかった」
子供顔に似つかわしくない深い溜め息をついて、クロンは小さく頭を下げる。
ロイドはそれを手で制した。
「やめてくれ。俺たちもあんたには世話になってるんだ。それはお互い言いっこなしさ」
借りと貸しは、もう積み上がっている。どちらが重いか量っても仕方がない。
だが、名が広がる速度には気を配る必要があった。〝なんでも屋〟の看板は便利だが、目印にもなる。仮に王国側がロイドの死を疑い、その名を追って〝なんでも屋〟という単語を聞き付ければ、簡単にここまで辿り着かれてしまうだろう。今回の件で、それを彼女たちが証明してくれた。
「それで……ロイドはこれからどうするつもりなの? ルーシャ様を危険な目に遭わせるわけにはいかないって、さっき言っていたけれど」
エレナが話を戻す。真っすぐな問いだった。
ロイドが無意識に隣を見ると、ルーシャと視線が合った。彼女は一瞬だけ頬を染め、慌てて目を逸らす。その細い指先が、膝の上で控えめに布を押し撫でていた。
「まあ……正直、目的なんてものはないよ。今みたいな生活をずっとしてられたらそれでいいかなって、思ってる。名誉だなんだ、なんて柄じゃないしな」
それが本音だった。斬新な志でも、高尚な目標でもない。
ただ、朝に起きて飯を作り、頼まれれば手伝い、夜に帰って灯りをともして眠る。その生活の中に彼女の笑顔があれば、それで充分だ。
「ルーシャ様は、それでいいの?」
エレナの視線がルーシャへ向かった。問いは柔らかいが、核心を外さない。
ルーシャは穏やかに笑って頷いた。
「はい。私もロイドと同じ意見です。もう今更〝聖女〟に戻りたいとも思えませんし……それに、なんていうか、今の生活の方が自分らしく生きられている気がするんです。こんな風に思えたこと、今までありませんでしたから」
柔らかな声と笑顔。だが、その声の芯には静かな確信があった。
エレナは細く息を吐く。理屈ではなく、腹で納得した、というような様子だ。
「なるほど、ね」
「う~ん……あたしら、どうしよっか?」
フランが上目遣いでエレナを見た。
視線の先で、ふたりは短く目を合わせる。途端に、深い溜め息がふたつ落ちた。
唯一の当てが外れた、ということだろう。王都へ戻れば王命違反、教会へ戻れば背信者。行くも地獄、戻るも地獄というわけだ。
ロイドは胸の内で苦いものを噛む。手を差し伸べられない理由があるとしても、突き放した罪悪感は残った。
(何かしてやれないかな……)
そう思い悩んではみるものの、すぐに名案が湧くわけもない。
誰もすぐには口を開けなかった。窓の外で夕光がわずかに色を変え、室内の影をゆっくり伸ばす。紅茶の表面に映る光も、細長く歪んだ。




