(西から迫る兵火)40
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明智家の後方撹乱が畿内の、特に都の人々を震えあがらせた。
野放図に上京区下京区問わず火が放たれ、焙烙玉が投げ込まれた。
極めつけは昼日中に官軍の兵糧集散所が焼失した事だろう。
慌てた朝廷は幕府に都の治安維持を命じた。
これに幕府は応じざるを得なかった。
近江へ、四つの口から侵攻しようとしていた官軍は動きを止めた。
しかし、全軍の引き揚げは無理筋。
糧食と宿営地の問題から、全軍が都へ入る事は不可能だった。
為に、妥協策として、一部の軍を侵攻口に備えとして残したまま、
半数が都へ戻り、残りが山城全域を遠巻きする形で宿営する事とした。
明智家が密かに逆侵攻を開始した。
大和口を主導したのは南近江勤番五番隊。
五番隊の隊長、藤堂平太が指揮官を務めた。
自らの組下三千を含めた一万二千を率いた。
近江から南下した軍勢は何の妨害もなく伊賀へ入った。
伊賀衆より、事前の交渉で、戦後に伊賀の国を明智家の版図に加える、
との条件が突き付けられていた。
平時であれば明智家当主の判断が必要となる案件であった。
しかし、状況は戦時下。
この方面の一切は指揮官に委ねられていた。
従い、藤堂は自分の判断で了承した。
それを受けての伊賀入国。
無駄な血を流す事なく、伊賀を抜けて静々と大和に入った。
大和の守護職は武家ではなく興福寺が長らく務めていた。
しかし、昨今の下剋上で国人衆が力を得て来た。
筒井氏に代表される北の国人衆。
越智氏に代表される南の国人衆。
そこへ乱入したのが三好家の松永久秀。
瞬く間に国人衆を蹴散らし、
信貴山城を拠点に興福寺勢をも討ち平らげた。
これで大和を統一したかのように見られた。
ところが国人衆が一筋縄では行かなかった。
地縁血縁で結ばれた者達が隙を見ては各所で蜂起した。
加えて、力を取り戻した興福寺も立ち上がった。
大和動乱の幕が開けた。
そんな折りに官軍招集が持ち上がった。
当然、明智家討伐の軍であった。
大和で内輪揉めをしている場合ではなかった。
国人衆には元々幕府奉公衆の家柄も多かったので、
両者は和議を結び、兵を退く事にした。
官軍の大和口の大将は三好長逸。
三好家の旗を掲げた二万で大和に入った。
ただし、全てが三好家の兵ではない。
大半は手柄に引き寄せられた近隣の国人衆や地侍衆、陣借り衆だ。
三好家の兵自体は少ない。
当主の病に付け込んだかの様な安宅冬康の手法に、
家臣の多くが反発し、無視を決め込んだ。
そうとは知らぬ大和の国人衆は最大の兵力を挙げて官軍を出迎えた。
賦役の足軽雑兵が多いが、それでも数は大したもの。
おおよそ一万。
計三万が大和口から伊賀を抜けて、近江に攻め寄せる事に相成った。
ここで予想せぬ問題が持ち上がった。
松永家が官軍への参加を拒んだのだ。
明智家討伐は義理を欠くので見合わせたい、そう公然と口にした。
これに大和の国人衆が反発した。
「「「明智家の前に血祭りに上げろ」」」
多くがそう口にして三好長逸に詰め寄った。
困ったのは詰め寄られた三好長逸。
攻めるのは容易い。
攻めるだけならば。
しかし松永久秀は老練な戦を好む。
おそらく信貴山城に籠るだろう。
そうなると戦の帰趨が読めない。
何しろ相手方には松永長頼と松永孫六もいた。
戦上手の二人が小さいながらも城を持っているのだ。
都合三つの城を攻め落とさねばならない。
これは日程的に無謀というもの。
それにそもそも、松永久秀を攻めるというのは悪手。
三好家の内輪揉めが勃発する。
安宅冬康の手法に反発する家臣が多い今、それは避けるべきだろう。
困った三好長逸を救ったのは朝廷の方針の転換。
都の治安維持が最優先となった。
これで松永家批判が立ち消えた。
痛し痒しで、大和口の兵力も多くが消えた。
都へ割かれたのだ。
だけではなかった。
残った兵力もしだいに減少した。
手柄に引き寄せられた連中が、夜になる度に姿を消して行くのだ。
それは大和の国人衆も同じ。
兵糧を惜しんで賦役の足軽雑兵を村へ戻した。
近距離なので何時でも呼び寄せられると皆が考えた。
三好長逸は兵力が少なくなっても手を抜かない。
伊賀方面への警戒は万全を期した。
各所に張り番を置き、定期的に巡回も行わせた。
闇の中で一人一人、その命が消えて行く。
悲鳴を上げる暇を与えない仕事振り。
各所の張り番が、巡回が倒れ伏す。




