(平穏な日々)31
☆
執務していた私に声が掛けられた。
「殿、根の詰め過ぎです。
そろそろ珈琲にしましょうね」
幼い頃からの付き合い。
お園の言は的を得ていた。
目にしょぼしょぼ感。
「庭を見るか」
私は筆を置いて、縁側に足を向けた。
お園と同じ側仕えの長倉金八が障子戸を開けた。
途端、初夏を思わせる風が入って来た。
私は縁側に腰を下ろし、踏み石に足を乗せた。
日当たりが良いせいか、踏み石がちょっと暖かい。
疲れた身には心地好い。
お園の指示で侍女がお盆に珈琲とお菓子を載せて来た。
私の傍にそっと置いて下がる。
私は珈琲に砂糖を入れて掻き混ぜた。
仕上げに麦焼酎を少し垂らした。
この瞬間を待っていたかの様に、庭先から猪鹿小熊に声を掛けられた。
「殿、宜しいですか」
猪鹿蝶の兄、猪鹿家の嫡男だ。
忍びだが、この居館の慣例に従い、足音を立てて現れた。
庭で警護に従事していた者達が動かないという事は、
それなりの手続きを踏んだ証。
「聞こうか」
「尾張からの文が届きました」
「一向一揆の件か」
「はい、織田方が長島にて服部友貞を討ち果たし、
一揆勢を輪中に押し込めました。
ただし、織田方は勝ったものの、被害も大きく、
掃討には至っておりませんとのこと」
「戦線は膠着か」
「はい、信長様は佐久間信盛殿に包囲網構築を命じられ、
ご自身は沓掛城に入られました」
沓掛城は長島の一揆と南三河の一揆を両睨み出来る位置にあった。
柴田勝家と佐々成政により、旗頭の石川康正を討ち果たし、
南三河の一揆勢を掃討したのだが、それでも沓掛城に拘るのは、
それなりの疑念があるのだろう。
おそらくは一向一揆の再興。
信徒は雑草と同じで、踏んでも踏んでも、
雨後のタケノコの様に生えて来る。
義兄には同情してしまう。
宗教を相手にするには、鬼に成切らねばならない。
でなければ、こちらが喰われるか、飲み込まれる。
頑張れ、信長殿。
願いを込めて珈琲を飲み干した。
うっ、苦い。
私は話題を変えた。
「ところで、お蝶や蒼次郎からの文はないのか」
猪鹿蝶と沖田蒼次郎。
縁づけた序に、畿内巡りを申し付けた。
山城、大和、河内、和泉、摂津。
旅人にとって然程、危なくない所だ。
野盗より何より、怖いのは関所。
関所が多いので、払う通行料が嵩むのだ。
なので祝いとして銭金を余分に持たせた。
なのに届く文が少ない。
小熊が困った顔をした。
「実家への文も少ないのです。
申し訳ありません」
近江から伊賀を抜け、大和に入るとは聞いていた。
ところが伊賀と大和からの文が届いたっきり。
どこで何をしているのやら。
まあ、公務として派遣した訳ではない。
遊び心で派遣しただけのこと。
目くじらを立てるほど私は野暮ではない。
二人の身に危険が及ぶ事は少ないだろう。
何しろ二人は腕利き。
加えて、忍び衆役方が畿内各地に出先を置いていた。
その多くは商家。
何か問題が発生したら、そこへ駆け込み、助けを求めれば良い。
長倉金八の小さな声が聞こえた。
「なんて羨ましい」
お園が注意した。
「あの二人は良いのですよ」
「でもですね」
「でもは野暮ですよ。
悔しければ今の奥様を離縁し、新しい奥様を貰いなさい。
さすれば祝い金を弾みますよ。
出来ますか、おっほっほほ」
長倉の奥方は一男二女を産んだ。
その三人の子を長倉は溺愛していた。
非番の日は三人を連れ回しての可愛がりよう、との噂。
今さら、離縁はない。
この所、うちの側仕え達のボヤキが多い。
もしかすると、暇なの。
平穏続きで心身共にだるいの。
そんな所へお蝶から文が届いた。
管領と京兆家に提携する動きが見られると。
管領は細川晴元。
京兆家は細川宗家で、当代は細川氏綱。
暗闘を繰り広げていた管領家と京兆家が手を携える、・・・か。
甚だ疑問だが、仕入れたのはお蝶。
信頼に値する。
でも、何してるのお蝶。
畿内漫遊を堪能して欲しかったのだが。




