(平穏な日々)7
女刺客は景虎に従った。
抵抗も口答えも一切しない。
牙を抜かれた雌狼。
でもそれは偽りだった。
景虎の勘が働いた。
唇を奪った瞬間に寒気を覚えた。
即、反撃した。
左手で雌狼の喉を掴み、右拳で鳩尾を突いた。
「ぐっ」
腹を押さえて蹲る雌狼を見下ろした。
無様だ。
雌狼が景虎を見上げた。
「殺せ」精一杯の声。
景虎は優しく尋ねた。
「ワシの舌を嚙み切るつもりだったのか」
雌狼が腹を押さえた姿勢で開き直った。
「そうだ、それがどうした」
「行動する前に、後先をよく考えろ。
噛み切ったらどうなる。
舌はお前の口の中に残る。
一緒に血も、お前の口の中に流れ込む。
ワシの命だけでなく、それも望んでいるのか」
雌狼は悔しそうに敷布団に裏拳を叩き込んだ。
「くっそう」
「厠へ案内しようか」
雌狼が落ち着きを取り戻した。
それを見て取った景虎は尋ねた。
「ワシの暗殺に失敗したのでは、風魔の里には戻れぬな」
雌狼に口を開く様子はない。
顔色を読まれるのを警戒し、俯いていた。
景虎は続けた。
「暫くワシの傍にいるか」
雌狼が顔を上げた。
怪訝な表情。
景虎は笑みを浮かべた。
「傍に居れば、機会があるぞ」
外から朝の気配。
下働きの者達が働き始めたようだ。
景虎を起こすまいと忍ぶ声、足音。
少しして、寝所の外から声が掛けられた。
「殿、朝で御座います。
そろそろ起きられては如何でしょう」
景虎は隣を見遣った。
雌狼は高鼾。
かなりお疲れの様子。
起きる気配がない。
外の気配は相変わらずだ。
側仕えのみでなく、軒猿や黒梟も居るのだろう。
彼等に、夜這いに応えている姿は見聞きされていた筈だ。
が、それを顔や声に表すほど初心ではない。
景虎は半身を起こした。
肌を露わにしている雌狼に布団を掛けた。
「軒猿も黒梟もいるのだろう。
くノ一を手配しろ。
この女の世話を命じる。
・・・。
陣僧にするか。
・・・。
女を風呂に入れて髪を剃れ。
尼僧とし、陣僧の様に近くに置く」
「宜しいので」
「良い」
「風魔からの刺客ですが」
「ワシの役には立つ。
それで充分だ。
あっ、剃り過ぎるな。
頭だけで充分だ」
景虎は執務室で筆を走らせていた。
遠くから怒鳴り声が聞こえた。
それが足音と共に近付いて来た。
それより早く小走りで先触れが来た。
入室を許すと、見知りのくノ一が転がる様に入って来た。
「殿、あの方が怒っています」
「あれがか」
「はい」
あれが断りもなく入って来た。
側仕えの一人が阻止しようと立ち上がった。
他の者達は警戒する姿勢。
何時でも抜ける様に腰の脇差に手を掛けた。
景虎は平然と口を開いた。
「皆の者、落ち着け、相手は無腰だ」
それでも誰も警戒を解かない。
だけではない。
騒ぎに気付いた者達が駆け付けて来て、廊下や庭先が家来で溢れた。
当然、軒猿や黒梟の姿もあった。
景虎は相手を観察した。
尼僧の出で立ち。
寝姿も良いが、立ち姿も良い。
怒る姿は最上だ。
湯上りの尼僧がそれに応じた。
グッと睨んで対峙した。
景虎は優しく尋ねた。
「どうした、癇癪か」
「ふっ、ふざけるなっ。
どうしたもこうしたもない。
何故、髪を剃らせた」
「似合うと思ってな。
いや、実に似合ってる、そう思わんか皆」
景虎は皆に同意を求めた。
生憎、それに応える者はいない。
尼僧が腕を組んで居丈高に怒鳴った。
「誰も答えんだろうが」
「その美しさに見惚れているんだろう」
「ふん、何を企んでいる」
「お前はワシを殺したいんだろう」
「当然だ」
皆の前で即答した。
序に首を斬る仕草。
「だったらワシの側近くにいる必要がある、違うか」
「そうだ」
「だったら陣僧が一番良い。
戦にも帯同できる。
だから尼僧にした。
これからは今までの陣僧とは別に、
お前も陣僧の一人として戦に帯同する」
尼僧が黙ったからか、新たな足音が聞こえた。
それが庭先から姿を現した。
門衛の者の案内で軍装の者が。
その者は息せき切っているが、景虎を認めるや、両膝を付いた。
景虎にとっても見知りの者。
沼田城の武将の一人だ。
呼吸を整えて言上した。
「厩橋城が落ちました」
景虎は思わず尼僧を振り向いた。
彼女は知っていたらしい。
ほくそ笑み、しまったとばかり俯いた。
それでも肩の小刻みな震えだけは隠せない。




