(近江戦の戦後処理)9
☆
織田信長は清洲城の居館で執務していた。
勿論、部屋には彼一人ではない。
下座に並べた二十の文机が満席であった。
併合した三河の公文書が増えたので、その分、仕事が煩雑になり、
右筆等の文官が増強されたのだ。
信長は手を止め、彼等の仕事振りを見た。
何時ものことながら感心した。
この手の仕事を得意とする者達がいるという事実にだ。
彼等の出自は武士なのだ。
それが戦働きより、机仕事を好む。
人は色々だな、そう実感した。
一人が仕事に飽きた信長に気付いた。
即、動いた。
部屋の隅の囲炉裏にひざを進めた。
カンカンに沸いた湯で珈琲を淹れた。
用意したお盆に珈琲と砂糖を載せて運ぶ。
信長が珈琲の薫りを嗅ぐと、それが休憩の合図になった。
右筆等文官が囲炉裏の周りに寄り集まり、
それぞれ好みの飲み物を淹れ始めた。
珈琲党もいれば緑茶党、烏龍茶党もいる。
でも一番多いのは紅茶党。
彼等は惜しげもなく砂糖を投入した。
一人が甘みを嗜みながら言う。
「疲れには甘いのが一番ですな」
そう言いながら、前以て用意されてるお茶菓子、煎餅を手にした。
一口齧った。
「醤油味もいける」
隣の者が膝を打った。
「お前は、おかめでもいける口だろう」
こうなると場が賑わう。
信長の暗黙の了解もあり、馬鹿話で盛り上がって行く。
一人が何の気なしに話題にした。
「ところで長篠城の一件はどうなった」
城を預かっていた斎藤道三とその子息、
合わせて三人が姿を消した一件だ。
その際、居館に詰めていた者達が全員殺害された。
警邏中の城兵も数人が殺害された。
けれど、織田家としての損害は無きに等しい。
居館に詰めていた者達は全員が道三の家来。
殺害された城兵は三河由縁の者ばかり。
純粋に考えると、織田家としての人的被害が皆無なのだ。
あるのは正体不明の者達の侵入を許したという不名誉のみ。
事情通らしき者が言う。
「さっぱり進展していないそうだ」
信長は珈琲に集中している振りをして、雑談に耳を傾けた。
知ってか、知らずか、別の一人が言う。
「それで良いんじゃないか」
これが織田家全体の空気だ。
道三は正室の実父という立場に甘んじていれば良かったのだ。
それが、美濃への執着か、老いたのか、そこは判然とせぬが、
裏でこそこそ蠢き始めた。
信長が気付いたのは明智家へ嫁がせた妹二人からの文であった。
文で二人が、明智家にて明智家当主を害する陰謀が進められている、
そう知らせて来たのだ。
それで信長は、はたと気付いた。
子飼いの忍びが、舅・道三の動きを怪しんでいた。
美濃の国人や地侍共との文の遣り取りが余りにも頻繁、
度を越しているのではないか、そう懸念していた。
そこで信長は忍び衆を舅とその周辺に貼り付けた。
三河を併合して、この忙しい時期にだ。
それだけ妹二人を可愛がっていた。
確たる証拠は無かったが、
かつての美濃守護・土岐家と文の遣り取りをしているのが判明した。
そこで土岐家の周辺も調べさせた。
道三周辺よりも口が軽い者が多かった。
それで土岐家と組み、美濃に返り咲こうとしている事実を掴んだ。
まず手段は問わず、明智家当主の光国を取り除く。
然る後に、土岐家の古い権威と道三の力技で美濃を取り戻す。
土岐家を守護に祭り上げ、守護代の斎藤家で美濃を仕切る。
そういう策謀だと推し量れた。
これに信長は頭を痛めた。
可愛い妹二人を嫁がせたのは、明智家に織田家の血を入れる為。
子をなさせて、明智と織田の仲を盤石の物にしようとした。
それが分らぬのか、道三。
老いたのか。
美濃に斎藤家が返り咲いても織田家としては、祝福はできない。
道三の娘・濃姫に懐妊の兆しが無いからだ。
濃姫が子をなさぬまま亡くなれば織田と斎藤の縁が切れる。
下手すれば敵になる。
信長自身、道三の謀殺を考えた。
子飼いの忍びからの催促もあった。
それでも踏み切れなかった。
思い迷ったのは、道三への情が少し残っていたからだ。
今回の件は、渡りに船だった。
深刻な顔で濃姫に説明した。
捜索や捜査に人手を割いた。
しかし、進捗状況が思わしくなかった。
手掛かり一つ無かったのだ。
夜分であった為に、目撃者も皆無だった。
ただ、ただ、信長は腹の中でそれを喜んだ。
自分の手を汚さずに済んだ事に感謝した。




