(近江戦の戦後処理)3
裏切り者の首魁へ至る道筋が思う様に進まぬのに、
一方の占領政策はとんとんと進んでいった。
六角親子や有力な国人衆多数を討ち取ったのが大きい。
抵抗しようにも神輿になりそうな者が皆無なのだ。
これで近江の統一がなった。
そこで私は旧六角支配領地に布告した。
「国人地侍を問わず、全ての武家の土地を明智家で没収する。
これに異を唱える者は刀槍矛戟にて起つべし。
喜んで討ち平らげよう。
当家に従う者には三つの道がある。
一つ、当家に足軽として仕える。
仕える者には銭にて家禄を支払うものとする。
一つ、帰農する。
帰農する者には土地を与える。
一つ、領外へ退去する。
退去する者には私財の持ち出しを許す。
ただし、三月の内に退去すること」
問題は寺社であった。
彼等が積み重ねてきた既得権益が大きく、しかも信者が多い。
これまでは寺社奉行任せであったが、限界も感じていた。
そこで私は寺社全てを取り込む事は諦めた。
手間と時間を喰うからだ。
新たに全領地に布告した。
「当家の領地で布教する寺社は寺社奉行所に届け出ること。
これは寺社領を明確にし、当家の政から切り離す為である。
届け出のない寺社は寺社領がないものとする。
寺社の存在と布教は、寺社領内のみであれば認める。
僧兵等の武力等も寺社領内のみであれば認める。
それは寺社の領内のみとするが、一歩でも当家の領地に出る事は、
当家への出兵行為と解し、その責を問う。
寺社の関所は認めない。
当家の領民の通行を妨げる行為は一切許さない。
代わりに寺社領民の当家領内通行を認める。
これを破るのであれば、その寺社の責を問う。
当家の領内での布教は許可制とする。
寺社奉行所に届け出て許可を得ること。
ただし、押しつけの布教は許さない。
無許可の布教も許さない。
その当該の寺社に責を問う」
大人衆と話し合い、何度も検討して無難な布告にした。
これで落着すれば良いのだが。
だが、これで終わらない、そう思った。
近江の位置が悪いのだ。
外に幾つもの旧宮があった。
特に西に。
難波宮、藤原宮、平城宮等々。
今は平安宮で落ち着いているが、遷都の度にその土地に文化を残した。
主に宗教を核とした文化であった。
これが質が悪かった。
因習に囚われた人々を形作った。
長きに渡って内部で既得権益争いに明け暮れていた。
この小難しさは一朝一夕では解き難いものであった。
何しろ地縁血縁に各宗派や政が深く絡みあっていた。
度し難し、触らぬ神に祟りなし。
私は畿内奥深くへ踏み込むつもりはなかった。
足軽達の血を惜しんだ。
それは大人衆も同じ。
そこで防備を固めて、内政に専念する事にした。
一番隊が美濃勤番。
二番隊は越前勤番。
三番隊は加賀勤番。
四番隊は若狭勤番。
旗本隊は近江勤番。
この近江を二つに分けた。
北近江と南近江。
新たに獲得した六角家の領地を南近江とし、五番隊を勤番とした。
五番隊の隊長・藤堂平太に新しい観音寺城の築城を命じ、
六番隊を与力として残した。
参謀方の大石蔵人が縄張りを終えているから問題なく進むだろう。
これで万全の棲み分けが出来る筈だ。
南近江が摂津、和泉、河内、伊賀、伊勢、大和方面を睨み、
北近江が山城、丹波、丹後を睨む。
南近江方面には三好家があるので、それほどの負担ではない、たぶん。
私は小谷に戻る事にした。
途中の襲撃を警戒して遊軍扱いの十番隊が付き従った。
その道中で銃声が鳴り響いた。
「バーン」
本隊の一騎がドッと崩れ落ちた。
周辺の隊列が乱れた。
実に慌ただしい。
「撃たれた」
「殿」
「殿様」
「お守りしろ」沖田の声。
警護の者達が盾になって周囲を囲んだ。
立ち姿のままで全方向を見回した。
何れもが次の銃撃を受ける覚悟であった。
蟹海老蔵が声を上げた。
「あそこだ」
左に流れる小川を指し示した。
槍が邪魔になるのだろう。
投げ捨てて駆けて行く。
それを組下の者達が追走した。
小川の草藪に潜んでいた者が動いた。
鉄砲らしき長物を近くに係留していた川船に投げ込み、飛び乗った。
水棹を掴み、巧みに離岸した。




