第57話 終わりへのカウントダウン
「……」
「麗……」
それまでずっと人形のように動かなかった麗が、由香の前に立っている。
「お姉ちゃん! 正気に戻ったの――あ、あれ?」
それを見て、嬉しそうにする由香。
だがそれにお構いなしとばかりに、麗はその両肩に手を添えて後ずさりさせた。
まるで危険なものから遠ざけるように。
「……」
「あっ、え……?」
そして、ジト~っとこっちを睨んでくる。
どうやら彼女の思う危険なものとは…………俺のことらしい。
「ち、違う! さっきはただ受け止めようとしただけで。やましいことなんて無いから!」
「……」
慌てて弁解するも、麗の表情は全く緩まない。
あの目……あぁ、そうだった。
見る者を怯ませるあの眼力こそが、泉野麗だっけ。
「えへへ……」
その一方で、由香は姉に守られて幸せそうだ。
ヘルメットとジェットパックを外し、身を寄せる。
なんか釈然としないけど……まぁでも、麗の意識も戻ったみたいだし。
いいか、これで。
「麗、じゃあみんなのとこへ」
「……」
「あ、あれ?」
喋らない……いや、まだ喋れないのか?
よくよく見ると、麗の表情はまだ虚ろいでいた。
一見すると、朝目覚めたばかりの低血圧の人みたいだ。
「う~ん、でもどうやって降りようか……お姉ちゃん」
「……」
あ、でも由香に呼びかけられるとスッと振り向く。
「……ゆ、か……」
「!? そう、私だよ。お姉ちゃん」
そして表情も、だんだん確かなものへと変わっていった。
目の焦点がハッキリと由香に合わさって――
『……~♪』
だが、ふと急に辺りから奇怪なメロディが鳴り出した。
小さなスピーカーから流れているような、この音声は……
「どこに行くつもりだい……? ライブはこれからだというのに」
西川がスマートフォンを手に携え、俺たちの前に立ちはだかった。
耳元で蚊が飛んでるようなこの不快な音調は、あの端末から流れてるものだ。
「どこって、帰るんだよ。もうあんたのわがままには付き合ってられない」
「……そう言うなよ……」
このステージをまた下に降ろすには、裏方のスタッフか西川の協力が必要だけど……どっちも望みは薄いな。
前者はネイチャー・ハウリングの効果が切れるまで、もう少し時間がいるだろうし、後者は話にならない。
どうしよう……この際、由香のジェットパックを使って1人ずつ抱えて行くか。
「お姉ちゃん! どうしたの、お姉ちゃん!!」
思案にふけってる内に、由香の悲鳴が聞こえた。
「くっ……う……」
「しっかりして。ねぇ!」
慌てて振り向くと、麗が頭を抱えて呻いている。
さっきまで元の調子に戻りかけてたのに、どうして……
「くっくっく……」
西川はこれ見よがしに、スマートフォンを掲げている。
「……あぁっ、こいつ!」
麗を苦しめてるのは、あれだ!
催眠術師が作成したという音声アプリで……そうとしか考えられない。
俺はすぐさま西川に向かって突進した。
「おっと」
「……! 止めろよ、それ」
「君や妹くんには効果なし、か。まぁ催眠術のかかりようなんて人それぞれだけどね。残念だ……よ!」
「あっ、こら待て!」
スマートフォンを奪おうとする俺の手を、西川はヒラリヒラリとかわしてしまった。
上下のスーツを着てるくせに、身軽な奴だ。
「どうしよう、どうしたらいいの……」
「……」
向こうでは由香が狼狽し、麗は沈黙を始めていた。
マズイ。このままだと、また西川の思う壺にはまってしまう。
「歌え、麗!」
奴の視線が麗の方に向いた。
今だ!
「うおりゃ~!」
「うぅっ、くっ! しまった……」
奴の胸に飛びかかるように、ショルダータックルをぶつける。
そうして体勢が崩れた隙を突いて、スマートフォンを奪い取った。
「こんなものはっ」
そして、すぐさまそれをステージ外に放り投げる。
奇怪なメロディはだんだん遠くなり……やがてガシャンという小さな破砕音と共に消えてしまった。
「はぁ!? 女の子のくせに、よくもそんな……あれは弁償してもらうぞ!」
「えぇっ!? 弁しょ…………麗、大丈夫か」
財政的な事情で西川の戯言を無視し、麗の方を見やる。
「お姉ちゃん? もう大丈夫なの……」
するとさっきまでうずくまっていた麗が、もう立ち上がっていた。
由香は心配そうに見上げる。
たぶん……元に戻ったみたいだ。
一時はどうなることかと思ったけど。
「……!」
そして、こっちに向かってくる。
何だろう……そうか!
西川に何か言いたいことがあるんだな。
「麗、ビシッと言ってやれ! せっかくのドームライブを台無しにしやがったこいつに!」
そうして西川の方を指差してやった。
「……」
だが麗はそれに見ず、ステージの中央へと方向を変えた。
そして、スタンドマイクを握り――
「…………~♪」
ゆっくりと歌い出した。
あの歌い出しは『Watch Me Over』サンシャインの曲だ。
まさか、そんな――!
「ハハハッ、まさしく間一髪というやつだね」
「あぁ……く、くそっ!」
西川が高笑いする。
スマートフォンを奪われる前に、奴が言い放った「歌え」という一言。
あれが通じたっていうのかよ!
「麗! やめるんだ、麗!」
俺はステージ中央へと走り出す。
こうなったら強引にでもいい。マイクから引き離してやるんだ。
「~♪……」
その時、歌い出しのフレーズがちょうど終わった。
そして次の瞬間――
ダン! ダン! ダダダン!!
リズミカルに、そして大胆にドラムを叩く音が鳴る。
続いてギター、ベース、キーボードと次から次に……これまでずっと眠っていたバンドメンバーたちが呼び起こされた。
「えっ!? うわっ――」
その音が鳴り出すと同時に、足がガクッとすくんでしまう。
まるで無意識に。
「な、なんでだよ。俺は克服したはず」
バンドメンバーたちの演奏は、凄まじい迫力だった。
的確なリズムを踏みながら、荒々しさや躍動感にも満ちていて……これまでにない感覚。
正直、感動してしまう。
「ダ……ダメだ、流されちゃ」
だがどんな状況であれ、今は麗を止めることが先決だ。
それは分かってる。分かってるのに…………この音楽を聴きたい!
その間抜けな欲望が、俺の中でどんどん増幅されていく。
「ふふっ。どうだい、最高だろう? ここまでクオリティの高い演奏は……僕も初めてさ」
後方を見ると、西川もまた両手を舞台に突いてうずくまっていた。
エゴの固まりのようなこいつでも、さすがにこの曲には参ってしまったらしい。
「ふむ……もうすぐだな。1曲前倒しとなったが、まぁ……いいだろう」
そうして自分の腕時計を確認し、ドームの天井を見上げる。
「もうすぐって……なっ、まさか!?」
「そのまさか、さ。あの天井には、超望遠レンズのカメラが設置されててね。このステージを映している」
西川はこちらを見てニタリと笑う。
一刻も早く記憶から消したくなるような、歪んだ笑み。
「約2分後……この曲が終わった頃だね。タイマーが作動するんだ。そうしていよいよ…………世界配信の始まりだよ」
恐れていたことが、起ころうとしている。
それまでは流石にタカをくくってたけど……この演奏を耳にしたら、もう!
やがて世界中の何も知らない人たちが、この歌によって理性を奪われる。
溢れだす本能のままに麗に屈服し…………いや、それだけじゃない。
ひいてはこの西川という男によって、世界が操られてしまうんだ。
「ハハッ、ヒャハハッ! あ~、もう! この日をどれだけ夢見たことかっ!!」
年甲斐もなく、はしゃぎやがる。
こんな、こんな奴に…………そんな資格なんてっ!
「くっ、くうぅぅ……!」
「お? 頑張るねぇ~。そうそう! そうして這いつくばってくれてた方が、画面映えするよ~」
すっかり舞い上がった奴をよそに、俺は何とか身体を舞台に滑らせ、目指した――
「ゆ、由香……」
「あわわぁ~……あゆみちゃん。どうしよう……」
由香はしゃがみ込んで、怯えている。
この状況で、まだその程度でいられるなんて……やはりこの娘だ。
この娘しかいない。
「麗を止めよう」
「ひゃうっ……でも、あんなすごいライブに……」
「関係ない! みんなと約束しただろ? 麗を正気に戻してくるって」
「あ、う……」
「みんなだって、必死に戦ってるんだ!」
ステージの下を見ると、美咲たちが今も歌っていた。
あそこには音響装置なんて何も無い……大勢の観客は、もう彼女たちのいるステージのすぐ真下まで来ている。
「うわぁ……美咲ちゃん、いつきちゃん……」
「玲奈たちだって、逃げずにアイドルやってる。俺たちも…………」
だがこちらのステージだって、決して尋常ではない。
はっきり言って……今の麗に近付くのは怖いよ。
――心臓の鼓動が、さっきからバクバクとうるさい。
ネイチャー・ハウリングで本能が呼び覚まされてるからかな……たぶん、勘が教えてるんだ。
あそこに近付くべきではない、と。
あの中心地に行けば、恐怖や圧迫というプレッシャーがさらに増すだろう。
そうなると自分の精神そのものが、やがてもたなくなるかもしれない。
「由香……!」
「……分かった。でも何すればいいの?」
「ありがとう。方法はただ、話しかけよう。麗の意思を呼び戻す……それだけだ」
由香は唇をキュッとかみ締め、頷いてくれた。
そうして彼女に手を引いてもらい、このステージに渦巻くプレッシャーの中心……泉野麗のもとへと向かう。
「~♪」
麗との距離が近付くにつれ、その歌声が耳一杯に広がっていく。
マイクを通さない生の声が、直接聞こえてくる。
「うあっ!」
「あゆみちゃん!?」
「だ……大丈夫」
危うく、身体が沈むところだった。
両手足を倒したが最後、もう二度と立ち上がれない気がする。
ほふく前進の体勢をなんとか保って、俺は由香とともに麗の目の前へと着いた。
「あの、お姉ちゃん……」
「~♪」
一心不乱に歌い続ける麗に、由香はおそるおそる近付こうとする。
「由香、ためらわなくていい……構わず話しかけるんだ」
「うん……お姉ちゃん!」
さっきはおそらく、由香がきっかけになって意識を取り戻しかけていた。
でも今は、そんな素振りも見せない。
麗自身も、この神がかりな演奏によって心を囚われてしまっているのだろうか。
「私だよ。ねぇ、お願い。聞いて」
「~♪」
「麗、言ってただろ……由香が同じステージに上がるのを待ってるって…………それなら」
うぅっ……気を抜くと、まぶたが落ちちまう。
だんだん意識まで朦朧としてきて。
「今が…………その時、じゃ」
「お姉ちゃん、しっかりしてよ!」
2人で必死に、麗の心へ呼びかける。
でも彼女は依然、歌い続けて――
「~……♪」
いや……
「由香、今の」
「うん、見えた」
今、少しだけ眉が下がった。
それは麗の気持ちが動いたってことだ!
「やっぱり、麗は……ここにいる。由香……もっと呼びかけて」
「あゆみちゃん、大丈夫なの!?」
「私のことはいいって。今は、麗を……」
プレッシャーが続々と、俺の心へ圧し掛かってくる。
つらい、息苦しい……
「お姉ちゃん、もうやめてよ! こんなこと!」
由香は高ぶる感情をそのままぶつけるように、麗に飛びかかった。
すると勢い余って、スタンドマイクが倒れてしまう。
「~♪…………」
ライブの途中で、ヴォーカルだけが姿を消した。
ステージには演奏だけが鳴り響く。
曲は終盤に差しかかっていたものの、尻切れトンボな形となり……やがて曲が終了した。
「ん……あ、あれっ?」
その途端に、さっきまで感じてた息苦しさが無くなった。
身体が軽い。スクッと立ち上がれる。
曲が終わったからって、ネイチャー・ハウリングの効果自体はしばらく残るはずなのに。
どうして――
「くうっ……い、いやぁ~」
「由香っ!?」
目前で、由香が膝を着いてうずくまっている。
苦しそうに頭を抱えながら。
「……私の歌を…………邪魔した」
その前で、麗は立っていた。
しかも喋って……じゃあ正気に――いや、どうも様子がおかしい。
「~♪ ~♪」
そしてさらに、歌い出した。
何の曲か分からない……いや、というか歌詞がおよそ言語化されてない。
まるで意味不明の言葉を並べている。
「やめて、それ…………苦しいよ」
「~♪ ~♪ ~♪」
でも事実、その呪文のような言葉を浴びせられた由香はこうして苦しんでる。
理屈は分からないけど、これもネイチャー・ハウリングの一種なのか。
確かまだ下にいた時、麗はその影響させる範囲まで指定出来ていた。
だからこれは、効果を由香1人に集約させて……!
「! 麗、よせ!」
俺や西川が相当に苦しまされたあの効果を、たった1人になんて……それまで平気だった由香が苦しむわけだ。
俺は2人の間に強引に割って入ろうとしたが――
「~♪」
「うっ、うわっ!?」
麗に荒々しい叫びを返されてしまった。
まるで突風に煽られたような衝撃を肌に感じ、思わず舞台に尻餅をついてしまう。
「……」
そして彼女はマイクを立て直し、再び歌おうとする。
「麗、歌うな……」
『Watch Me Over』が終わったってことは、おそらくもうフーチューブの配信は始まってる。
このままライブが始まれば、いよいよ終わりが来てしまう。
「うぅ……う~ん」
「由香! 大丈夫か」
ふと横で、うずくまっていた由香が起き上がろうとしていた。
さっき受けた麗の歌声の効果は、相当なもののはず。
無事でいられるわけが――
「……や。や~なの!!」
………………あれっ?




