第42話 罪人は裸になった
凍りついた空気。
自分の中の時が、一瞬にして止まる。
「…………」
身体から意識が離れていく。
そして辿りついたのは、時間という概念が消えた新しい世界。
止まった一瞬の中に、ずっと居続けられる都合の良い世界。
「……!」
でも、目の前にいる女性が送った険しい目つき。
それを見せられた途端に、たった今創造した俺の妄想世界はあっけなく崩れ去ってしまった。
高速で引き戻された自意識は、扉から身を消す麗の姿をその目で確認する。
――また、風呂場に1人取り残された。
つい十秒ほど前と変わらぬシチュエーション。
でも、明らかな変革を迎えてしてしまった現在。
終わった……のか。
俺はもう、終わったのか……
「……」
だが、麗はまた戻ってきた。
今度は身体にバスタオルを巻いている。
そして扉を閉め、こちらに近付いてきた。
「う、うぅ……」
言葉を発することも出来ず、ただ愕然とするだけの俺を麗はじっと眺めている。
警戒を払いつつ、上から下までじっくり確認するように。
やがてそれが済むと、わなわなと表情を引きつらせていく。
「何なの、あなた……男じゃないの」
穏やかだけど、震えるようなその声色。
信じられないという様子だ……ちくしょう。
「男のくせに、アイドルに紛れて……な、何を考えて」
「ち、違う」
上手くいっていた。
ここまでずっと上手くいっていた……なのに!
「何が違うというの、チカン! もう終わりよ。残念だったわね」
「あっ」
麗はこの場を立ち去ろうとする。
そのままたぶん、外にいる家の人に通報してハレーションのみんなの耳にも入り、俺は…………
「待って、待ってくれ!」
そう大声で呼び止めた刹那
「!? あなた」
俺は勢いのまま、頭を下げた。
素っ裸のまま土下座だ……もう、どうしようもない。
「呆れたわ……あなたみたいな人。見栄も誇りも無いのね」
見損ないやがって!
でも……でも今は、活路を見つけなきゃいけない時だから。
「そういうことじゃないんだ…………聞いてくれ」
万事休すだ。もう背に腹は変えられない。
「……言い訳かしら?」
「どう思うかはあんたの勝手だよ。でも俺は、決してやましい気持ちでアイドルをしてるわけじゃなくて」
麗は足を止めてくれた。
まだだ。まだ俺の首は、おそらく繋がっている……!
「金がいるんだよ。妹がケガしてて……足が動かないんだ。手術に1000万円いる! そんな大金、家には無いしバイトでも追いつかない。それで、チャンスだと思って……」
情けねぇなぁ……くそう、情けねぇ!
恵のことだけは、今まで誰にも言わないできたのに。
「よく出来たウソね」
「!? ウソじゃない!」
思わず顔を上げてしまった。
麗は相変わらず、険しい目つきを俺に向けている。
「……」
「ウソじゃないんだよ……これだけは。俺は女装を始めてから、いろんな人にウソをついてきたけど」
俺はそんな麗の目をまっすぐに見て、言った。
「それは全部、恵を助けるため……いや、俺が奪い取ってしまった人生を、あいつに返してやるため……それだけを思ってきた」
麗は俺のことを見続けている。
俺もまた、麗から目を離さない。
見つめ合う瞳と瞳。
不思議と俺は、そこに何か通じ合うものを感じて――
「本城さま~。お着替えをお持ちしました」
脱衣所の方から声が届いてきた。
織本さんだ。
「よろしければ、お背中お流ししましょうか? 私、腕は確かですよ」
あの向こうに織本さんがいる。
扉に人影が、だんだん大きく映りこんでくる。
終わりだ……所詮、無駄なあがきだった。
視界の端で、バスタオルとウィッグが無造作に転がっている。
ちくしょう。せっかく持ってきてたのに!
あれさえ着けてればまだ…………でも、もう!
「美香、待ちなさい」
張りのある声が、浴室の中に響き渡った。
「あら、麗お嬢様。お帰りになられてたのですか?」
「えぇ、そうよ。今、この子と話し込んでるところなの。悪いけど、下がってもらえるかしら?」
「……かしこまりました」
人影が消えていく。
助かっ……た? どうして……
「あの……」
「身体、冷えちゃうわよ。湯船に入ったら?」
静かな表情。
その顔には、さきほどまでの険しさが消えていた。
シャー、シャシャー。
向こうのカランで、麗が身体を洗っている。
俺は湯船に浸かりながら、そちらには目を向けぬように壁のタイルと対面していた。
――やがて、シャワーの音がやむ。
代わりにこちらへ近付く足音……そして、水面を乱すチャポンという音が鳴り渡る。
「こっち向かないの?」
「だって、そりゃ……」
「タオル巻いてるのに」
……それを聞いて安心する。
くるりと振り返ると、バスタオルを巻いた麗はもう湯船に浸かっていた。
「さっきチカンって言ったの、取り消すわ。ふふっ、あなたず~っと背中しか見せないんだもの」
「そりゃ……よかった」
笑い混じりなその口調は安心してるのか、それともからかってるのか。
何にせよ、これは最悪の事態ではなさそうだけど。
「……」
泉野麗。
彼女は一体、何を考えている?
遭遇した時の厳しい態度から一変して、この心のほぐれよう。
分からない……言葉も出ない。
「妹さんのこと、教えてもらえるかしら?」
「えっ?」
恵のこと?
なぜ麗が、俺の妹のことなんて聞いてくるんだ。
「妹は今、関係な――」
「人を呼ぶわよ?」
くうっ……拒否権はない、か。
俺は今、ウイッグを外して腰にハンドタオルを巻いてる状態。
典型的な男性の入浴スタイルだ。
人を呼ばれれば、イチコロ。
今もまだ、喉下に刃を突きつけられているんだな。
「わかったよ。妹は恵っていって――」
俺は自供するように、恵のこと、あの事故が起きてからの顛末、ハレーションに加入した経緯まで全てを麗に話した。
「なるほど。あなたの正体は本城歩。苦労絶えない男の子だった……と」
麗は終始、落ち着いた様子で俺の話を聞いていた。
恵のケガや家のことを知っても特に気を遣う素振りはなく、頷くのみだった。
つらい話も、傍から聞いたら笑えるような話も、ただ受け入れてくれた。
「まぁ、そういうことだよ」
そうして話している内に、俺は不思議と自分の心の壁が解けていくのを感じた。
最初は抵抗感で一杯だったのに、だんだんとそれが嬉しさに似た感情に変わっていって……
「歩くん」
「? まだ他に何か――」
「……大変だったわね」
麗はそう言うと、優しい目で俺を見つめてきた。
サンシャインのポスターや写真でも、まだ見たことがないその表情。
何か……暖かい。慰めてくれるような目だ。初めて見る。
「あ、ありがとう」
そして、つい自然に口が動いてしまった。
らしくない……普段から妙にひねくれてて、人の好意もまっすぐに受け取れない俺なのに。
なんで今は、こんなに素直になれるんだろう。
「やっぱりね。感じた通りだった……」
麗が安心するように微笑む。
それを見て、何だか俺も嬉しくなる。
相手と気持ちを共有できているような、今まで人に抱いたことがないこの感覚。
まさか彼女が持つネイチャー・ハウリングの効果……いや、違うな。
あの時と違って、今はちゃんと自分の意識がある。
「じゃあ、今度は私の話を聞いてもらえる?」
「あぁ、うん」
すると麗は、にわかに表情を沈ませていった。
「私も……妹には負い目があって。由香のことよ」
自分も?
一体、由香に何を……
「昔の話よ……私、小さい頃からずっと妹が欲しくて。それで3才の時に、あの子が生まれたの」
ここに来る前、織本さんから少し聞いた話だ。
たしか家族の中で麗が一番喜んでたって。
「結構可愛がってたんだよな……あ、織本さんから少し聞いてたんだ」
「そう、可愛がってた。可愛がり…………過ぎるくらい」
すると彼女は、奥歯を噛みしめるように表情を苦くした。
「あの子の好きなことは何でもさせた。嫌いなことは1つもさせなかった。あの子の笑った顔が見たかったから……お姉ちゃん、お姉ちゃんって言う度に可愛くて」
「うん……」
悲しそうに嘲笑するその姿に、なぜか俺は見入ってしまう。
「そうして私が甘やかしたまま、あの子も大きくなって……同じ小学校に入学してきたの」
「……そうか」
何となく、その後の展開が予想できるようだ。
「妹は、休み時間の度に私がいる4年生の教室までやって来たわ。最初は私も教室で話せるのが嬉しかったし、クラスメートも歓迎してくれたけど……だんだんと、それに違和感を感じるようになって」
今まで通り、優しいお姉ちゃんに甘えたくて……ってわけか。
でも、それだと――。
「ある日の授業中、窓から校庭を見たの。そしたら由香のクラスが体育の授業をしてて、2人1組で準備体操をしてるようだった」
「……」
「でも、あの子は誰とも組めなくてオロオロしてて……次第に泣き出したわ」
そうなる、よな。
今までの環境とまるで違うんだから。
「それから気になって、あの子の担任の先生に話を聞いたら、やっぱり……クラスで友達が出来ないでいるって」
少しずつ麗の語気が強くなっていく。
当時のことを思い出してか……
「その時、初めて不安になった。家だけじゃなく学校でも私に甘えてきて、その分クラスの中で孤立して……あの子はこれからどうなるんだろうって」
その気持ち……分かる気がするな。
妹のことは、そりゃ心配になるよ。
思いやるのは当然だろう。
「でも、もう遅かったわ。日を追うごとに由香は私に依存してきた。休み時間に私の教室に来ても、追い返したわ。ても、ぐずるばかり……」
「あっ」
「それでも私は、学校の中であの子を遠ざけることにした。その方が由香のためだと思ったから。でも……その結果、もう学校に行きたくないと家に閉じこもるようになってしまって」
そうか。
もしかして、この人も俺と同じものを…………同じ罪を。
「後悔したわ……よく考えれば、気付くことだった。もし私が永遠に妹の側にいて面倒を見られるのなら、ずっと可愛がってれば良いかもしれない。でも、そんなわけにいかない。あの子もいずれ、1人の人間として自立するべき時が来る。私はその邪魔をしていた……」
「麗……さん」
「私が妹を可愛がってたのは、ただ自分の気持ちを発散してただけよ。あの子のためじゃなく、自分のためにやってきたこと……だった」
いつしか彼女の頬を、ゆっくりとつたうものがあった。
それはこの浴室の湯気によるものか、彼女の感情の高ぶりがそうさせるのか…………いや、詮索はよそう。
その痛みは、かつて自分も味わったものだから。
「……だから、私は家の中でも由香を遠ざけることにした。別々の屋敷で暮らし、ご飯も一緒には食べない。あの子の身の回りの世話は家族と侍女の美香に任せたわ」
「そうまでして……」
「おかげで由香は少しずつ、自分を抑えて周りに協調することを覚えてくれた。今では普通に、学校にも行けるようになってる」
それは、さぞ荒療治だったんだろうな。
由香にとっても、家の人にとっても。
「もしかして……アイドルの仕事も?」
「そう。去年、高校生になった頃。ただ漠然と、妹の手が届かない世界に行きたいと思ってたところに、西川さんが声をかけてくれたから」
そういう理由だったのか。
この人はそんな目的で……でも今、由香は。
「まさか人気が出て、さらに由香までスカウトしてくるなんて思わなかったけどね」
妹から離れるため、アイドルになった麗。
姉に追いつくため、アイドルになった由香。
なんとも……皮肉なもんだな。
「話はここまで……ありがとね、聞いてくれて」
「いや……」
さっき、彼女から感じ取った暖かい気持ち……その正体が分かった。
「同じなんだな、俺たち」
「そうね。同罪者……ってところかしら」
何だか不思議な感覚だよ。
遭難中に、同じく遭難してる人と巡りあえたような……どうしようもない連帯感。
「ははっ……」
「うふふっ……」
笑ってしまうな。
少しもおかしくないのに……
まるで傷を舐めあうハリネズミだぜ。
「あの、麗さん」
「呼び捨てでいいわ」
「じゃあ……麗」
面と向かって呼び捨てするのは、初めてだっけ。
「いろいろあったんだろうけど……でも、由香はちゃんと成長してるよ。気持ちを表に出したり、引っ込めたり。不安なところも少しはあるけど、俺には立派な女の子に見える」
「……」
「いいんじゃないか、君は……もう苦しまなくて」
俺と麗は、妹に対して罪を感じている者同士……だけど少し違う。
俺に比べれば、彼女の罪はまだ軽い。
もう十分、取り返しはついてると思うよ。
「たぶん、問題は麗次第だと思う――」
「フーチューブの動画、観てるわ」
そう言うと麗は、ザバッとその場を立ち上がった。
水面の波がわずかに俺の肩を撫でる。
「なかなか好調みたいじゃない。驚いたわ」
「うん……何とかいってる」
そうして浴槽から出てしばらく歩くと、こちらに振り向いて
「ならば、上がってきなさい。私たちのステージまで! そしたらきっと、私は由香を思いっきり抱きしめてあげられる」
力強く、まぶしい笑顔を見せた。
そうか。やっぱりこの娘の罪は、もう……
「さすが……サンシャインの名は伊達じゃないってわけか」
「ええ。待ってるわ、ハレーション」
俺もまた、彼女に笑顔を返した。
賞賛と、嫉妬と……尊敬を入り混ぜた心からの気持ち。
「それじゃあ、先にあがる……あっ!」
「麗!?」
その場を立ち去ろうとする麗だったが、不意に膝がガクッと倒れかけた。
「大丈夫か?」
「えぇ、大丈夫……ただの寝不足よ」
思わず立ち上がったが、心配は無いようだ。
すぐに体勢を元に戻した。
「売れっ子も大変なんだな」
「まぁね。でも最近、西川さんから睡眠音楽のアプリを紹介されたの。それのおかげで効率よく眠れてるわ」
そんなものまで……羨ましいような、気の毒なような。
「じゃあ、歩……じゃなかったわね。あゆみ」
「あっ……うん」
この場であゆみの名を選んでくれた。
それの意味するところは、たぶん――
「妹のこと、お願いね。あなたが現れてから、あの子は変われたみたいだから」
「……わかった」
アイドルとしてその信頼、きっと裏切らない。
「でも1つ…………くれぐれも、由香にそんなものは見せないこと!」
「えっ?」
しかめっ面の麗が指差した先……それは、俺のお腹の下辺り。
視線を下げてみると、腰に巻いてたハンドタオルが湯船にプカプカ浮いていた。
――すぐさま、ザバンッと身体をしゃがみ込ませる。
「ふふっ、まぁその様子なら大丈夫でしょうけど」
涼しく笑ってみせると麗は、そのまま脱衣所へと消えていった。
「何だよ……年上だからって」
一応……助かった。何にせよ、一命は取りとめた。
けれども
身も、心も…………さらけ出してしまった。




