晩夏にて君思う
まず眠れなかった。動けなかった。あの後のことはほとんど記憶に残っていない。ただ美鈴が走り去る光景ばかりフラッシュバックした。彼女の絶望した表情、目に浮かぶ疑心、わななく唇、言葉が震えて出てこない喉、零れそうな涙、揺れる髪、振り返ってなびいて、駆け出した素足――思い出して胃液が逆流してくるのをこらえて、ベッドでただ横になっていた。
横になって、土に還りたかった。霧に包まれてそのまま霧散したかった。海に溶けて泡になりたかった。なんでもいいから、ただ形を残して死ぬよりも、跡形もなくこの世から全ての細胞ごと消え去りたかった。そのまま誰の記憶からも消去されて最初からいない人間になりたかった。全ての痕跡ごと消えてなくなりたかった。
そんな、また夢みたいなことを考えて横になっていた。時折襲い来る吐き気を抑えながら眠ることもできず延々と都合のいい妄想をしているだけで、気が付けば窓から朝日が差していた。
どうして夜は明けて朝が来るのだろうか、考えて、考えて、十分くらい考えて分からなくてどうでもよくなった。
というかもう全部どうでもよくなってた。何時に帰ったかも覚えていないが時計を見たら午前十一時だった。そういえば誰かが起こしに来た気がするけれど夢か現実かの区別もついていない。それもどうでもいいが。
今日が夏休みの最終日だった。明日から二学期が始まるというのはそうだけど、それはそれとして今日美鈴の家に行くかどうか、思い当たった。いつものように美鈴の家に遊びに行っていたが、昨日はそういうわけで約束をしていない。約束せずに家に行くのはどうかと思うけど、夏休み毎日遊ぶみたいな話もしてしまっていた。美鈴に会いたいか会いたくないか、と問われれば難しくて答えることができない。とても彼女に謝りたい、けれど会うことで美鈴を苦しめることになると思うと、それも生半にはできない。
美鈴を失ってゼロになると思っていたのに、結果はマイナスのどん底だった。全身の力が完全に抜けて六十兆個の細胞すべてがバラバラになってしまいそうなほど凝集力すら失われているような気がした。
ぼーっとしたまま時計を見たら二時間ほど経っていた。連絡しようかと思ったけど、少なくとも美鈴から連絡は来ない。彼女が求めていないのなら、私が連絡することも、会いに行くこともやめた方がいいと思った。
ただ、何も考えないように寝ていた。眠れなくても寝ようとしたし寝てる間は短い睡眠を繰り返しながら平静を保った。
夏休み最後の一日は、そんな感じで終わった。
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電車で激しい眩暈に襲われたが、なんとかこらえた。学校の最寄駅で、美鈴と待ち合わせしているはずだが、やはり会うのが恐ろしかった。出会いたくないとさえ思う。今彼女に見られることは体をズタズタに引き裂かれるように辛い。離れたがっている全身の細胞が本当に離れていく気さえした。
死ぬ。今美鈴と出会ったら私は死んでしまう。そんな予感さえしていたけれど――そこに美鈴はいなかった。
ちょっとだけ待とうと思って、五分、もう五分、と待って、もう行かなければ遅刻してしまう、という時間になるまで待ったけど、美鈴は来なかった。
学校にも美鈴はいなかった。欠席の連絡が来ていないと先生は言っていた。
始業式をぼんやりと受けた。ホームルームも、ぼんやり受けていた。ぼんやり時間が過ぎて、放課後になっていた。
帰る――帰るということを意識してようやく帰ることにした。朝は結局叩き起こされて、美鈴のことだけ考えて行動してたから、彼女が休んでいるという事実を知ってから結局放心していた。
「おい、おい久瀬」
「え、ああ、田端先生」
「大丈夫か君、今日ずっと心ここにあらずといった感じだが」
タバセンが何か言っている。そう、確かに心はここになかった。
「……はい、はい」
「マジでダメみたいだな。尻、触ってるぞ?」
「……はぁ」
「シャキッとせい」
ごつん、と頭にチョップを食らって、目の前にタバセンがいることを再確認した。
「暴力ですか? 体罰教師なんていけませんよ」
「その調子だ久瀬。心配したぞ」
「心配? はい、なんで」
「露骨だ。枇々木が休んで、君は朝礼で起立、礼、着席、全部ワンテンポ遅れてたしかなり目立ってたぞ。何があった」
何があったか、吐き出してしまう方がいい。一人で抱えるのが辛いことだろうから、だけど、だけど。
まず美鈴に謝りたい、誰かを頼ることができる、そんな助けは一種の逃げのようだった。私が今立ち向かうべきは己の過去で、それこそ美鈴という存在であるようだった。
「……もう少しだけ、自分の中で考えてみます」
「……そうか。君がそう言うなら信じよう。決して無理はするなよ。愛しているぞ~久瀬~」
「はいはい。どうも」
今はその軽口に少し救われた。そういうのも、先生に必要な能力なのかな、って少し尊敬する。
でも、教室を出てすぐ、腕を引っ張られた。
「で、何があったのかな?」
堀田さんがぐいぐいと引っ張ってきた。それはもう、すごい力で。
……結局、話すしかなかった。
その全てを。
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外にある部室棟の一つ、女子陸上部の部室で腰を落ち着けた。
ほとんど外にある場所だから少しけむっぽいし、部活に参加する人がたまに着替えたりしてるけど、彼女はそれを気にさせなかった。こういう時、彼女のコミュニケーション能力は凄いと思う。
私は堀田さんに全て話した。私の死にたい理由も、美鈴が登校拒否した理由も、夏休みにどんなことがあったかも。
堀田さんは真摯にそれを聞いてくれた。こんなことを言うのもなんだけど、彼女は適度に相槌を打ってくれて、スムーズに話せた。自分の中でも少しそれで整理がついて、落ち着くことができた。
「これで、以上になる、感じ」
全て話せて、少し涙目にもなったけど、無事に話し終えた。
それで堀田さんは、ふーんと少し息を吐いて、口を開いた。
「私は――そだね、美鈴姉が面倒臭いこと言ってるなぁ、って思う」
彼女は真剣な目で、心配に思うはずの幼馴染をそんな厳しい口調で責めた。
「はっきり言うと、久瀬さんの悩みも理解できない。いじめで自殺っていうのが、まあそういうの見てこなかったからだけど、残酷な言い方だけどさ、どうしてそういうことするのかが理解できないんだよね。やり返すとか、先生に言うとか、美鈴姉みたいに学校に行かないとか、色々、なんだってできたはずだよ。それなのに死ぬのを選ぶなんてさ。……まあ、これ以上は言わないけど」
死人を悪く言うことは気持ちよくないのか、彼女は少し口をつぐんだ。けどそれは、もっと岡倉才人に対して文句があると言っているも同然だった。
堀田蓮の意見はある意味ではどこまでも正しい。けれどそれはどうしようもなく強者の意見だった。当事者でないからこその、部外者の意見だった。だからこそ、正しいと言えるのかもしれないけど。
「私さ、美鈴姉が学校に来てくれて本当にうれしかった。美鈴姉のおばさんからも感謝されたけど、何より自殺したいって言って私がほとんど諦めてた久瀬さんまで、学校に来るのが楽しそうだった。私にはどうしようもできなかった二人が出会って、二人が楽しそうにしているのを見ると、寂しいけど、本当に嬉しかったんだ。……だから、そんな昔の人のせいで、二人の関係が壊れるなんて見たくない」
彼女の発言は未来と今を見据えていた。暖かい堀田さんの気持ちは、冷酷に過去を切り捨てた。
それが正しいか間違っているか、選ぶことができない。堀田さんが私達のことを誠実に想ってくれているのも、それが現実的で建設的な考えであるとも思うけど、割り切れないのだ。
だって、私も、美鈴も、そのことで二年以上悩んできた。
「堀田さん、気持ちはありがたいけど……堀田さんは部外者だ」
「違うよ。私は久瀬さんのこと一年以上見てきたし、美鈴姉のことずっと見てきた。私の意見を聞かないならそれでもいい。でも、美鈴姉を不幸にするのは許さないから。それには、久瀬さんも不幸になっちゃだめだから」
彼女の言葉の意味は優しいようで、どこまでも自分勝手だ。私は終わりたいと、死にたいという気持ちなのに、それを無視して彼女の望む世界を要求されていた。
私は幸せになって良い人間なのかどうか、それすら決めかねているのに。
「……話は終わりかな。ありがとう、二人のこと知れてよかったと思う。あとは、美鈴姉をよろしく」
言い終わって、堀田さんは服を脱いで陸上用の運動着姿になった。話を始めるのも終わるのも彼女次第、初めて私に話しかけた時も、美鈴に会わせた時もそうだった。
変わらない、強い人だった。尊敬するところもあるけど、こうはなれない、と諦めてしまう。
美鈴姉をよろしく、かぁ。
私に、美鈴をどうにかできるだろうか。




