第九話 家族
〇
幼いころの記憶は、痛みに溢れていた。
登場人物は、魔女とあたしと一匹の獣。
舞台は、暗い地下室と、明るい食卓と、清潔なベッド。
魔女は、定期的に私の皮を剥いだ。
剥いだら傷薬を塗って、治ったらまた剥いだ。あたしの背中はいつも血だらけで、ぐちゃぐちゃで、痛かった。でも、そうされることに疑問を抱かなかった。だって、ずっとそうだったから。そういうもんだと思ってたんだ。
それどころか、あたしは皮を剥ぐことを除けば、アイツのことを〈優しいひと〉だと思っていたんだ。その魔女のことを慕っていたんだ。
まるでそう、母親のように――。
今思うと反吐が出る。
獣は地下室にいて、時々吠えたり、唸ったりしていた。
あたしはいつも、その獣の隣で皮を剥がされた。
そして、ある日。
魔女は私に一本の首輪を見せた。「ようやくできたのよ」と笑って。それはあたしの皮で作られた、あの首輪だった。
高位霊獣を隷属させるためだけの杖――〈善き隣人〉。
あの美しかった獣を、あたしのごとき姿に貶めた忌まわしい道具だ。
◇
ミヅチとシラコ、そしてセアカは、ウルフを探して下水道の中を走っていた。
風車の魔術である〈杖追跡〉の恩恵だ。
ウィンドミルの魔術師たちは、杖の素材を媒介にして、同様の素材を使用した杖を追跡することができた。今回の場合で言えば、セアカの皮を媒介にして、セアカの皮で作られた〈善き隣人〉の在処を突き止めたのである。
三人は、ランタンを手にして薄暗い地下水道を駆け抜ける。
セアカは、背中の皮を剥がされたばかりで、顔色に血の気がなかった。
それでも、歯を食い縛って懸命に二人の後ろを走っている。シラコたちには休んでいるように言われたのだが、彼女はそれを固辞したのだ。
悪い予感がしていた。
そして、その予感は下水道を走っている途中から、すでに現実のものになった。
「おい、ここから先どうなってんだ……?」
シラコは、眼前の光景に目を疑った。
思わず立ち止まって、呆然とその異常事態を眺める。代わり映えのない下水道を走っていたはずなのに、目の前の通路から先で、様子が一変していたのである。
それは、銀色の草原だった。
下水道の少し先が、白銀に輝く草原になっていた。キラキラと輝く異質な芝生が壁と床を覆って、眩しいくらいになっている。
ミヅチは咄嗟に地面に触れて、それが幻覚の類いでないことを確かめた。魔術と魔法の専門家として、その異常事態に答えを出す。
「魔界化が始まっている。高位霊獣による世界への干渉、ウルフくん、首輪を外してしまったのかッ」
ミヅチは表情を取り繕うことも忘れて、苦悶の表情を浮かべた。
魔術師である彼は、知っているのだ。首輪を外したウルフはもはや、彼らが携行している杖程度では、太刀打ちできない相手だと。
高位霊獣と化したウルフを止めるには、聖騎士局レベルの杖や聖剣を使う武力集団が必要だ。けれど、聖騎士局に〈容赦〉の二文字はない。
彼らが介入した時点で、ウルフの死は確定する。
だから、ミヅチは惑った。どうするべきか。
だから、セアカは即断した。誰より先に駆け出した。
「ウルフッッッ――!!」
背中の傷口がじゅくじゅくに痛んで、包帯を真っ赤に塗らしながら走った。
朝から走り回って、棒のようになった足で、蒼白な顔に脂汗を浮かべて、それでも、シラコもミヅチも置き去りにするほど、ひたすらに腕を振って前に進んだ。
異変がより顕著な方向へ。
原始的な魔力が吹き荒れる嵐の方角へ。
自分に何ができるかなんて知らない。でも、何をするべきかは知っていた。
ただ――守るのだと。
白銀に輝く広間があった。
膝丈まで伸びた不可思議な草が、まるで海原のように風に靡いていた。
そう、地下なのに風が吹いていた。
天井を埋めるのは、半透明の鉱石たちだ。それがシャンデリアのようにその空間一体を照らしていた。
地下だというのに、満月の下にいるみたいだった。
その輝きに満ちた世界の中心に彼はいた。
「ウルフ……」
セアカが名前を呼ぶ。
白銀の狼が、むくりと振り返った。
その巨躯は、伏せている状態の時点でセアカよりも大きい。けれど、正確な大きさは、相対しているセアカにもわからなかった。立ち上がった白銀の狼の輪郭は、ゆらゆらと揺らめいて、彼のスケール感をあやふやにしていた。
白銀の狼は、魔法のような静かさで、セアカとの距離を一瞬にして詰めた。
セアカは顔を上向けて、眼前に迫った狼の顎を見た。
その顎は、セアカを丸呑みするように開かれていた。万物万象を噛み砕く牙は、しかし、寸前でセアカに届かない。金縛りにでもあったかのように、セアカの直前で牙は止まった。
「ウルフっ!」
ただ、白銀の狼の意志ではなかった。
「動けッ、セアカ・バージニアンッ!」
ミヅチが、黒い杖〈邪眼〉を構えながら叫んでいた。
◇
シラコが、セアカを押し倒す。
次の瞬間、セアカのいた場所で巨大な顎が空を切った。
ミヅチは、〈邪眼〉の拘束が強制的に解除されたのを見て、改めて高位霊獣の規格外な力を実感させられていた。
自分の魔術を強引に引き千切られる手応え。
こんな経験は、今まであり得なかった。
ミヅチは白銀の狼から視線を逸らすことなく、セアカに指示を出した。
「セアカさんッ、この近くに〈善き隣人〉があるはずだ! 僕とシラコさんで時間を稼ぐッ、キミは〈善き隣人〉を探して! 彼を止めるにはあれしかなッ――!!!」
言葉の途中で、ミヅチは口を閉じて大きく飛び退いた。
その直後、天井から細長い槍のような鉱石が降り注いだ。避けるミヅチを追い立てるよう、頭上の鉱石は次々に襲い掛かる。
何度か避けながら、ミヅチは〈邪眼〉によって硬化させた右腕で、それらを打ち払った。けれど、注意を天井に逸らした瞬間を狙って、今度は本命の牙が迫る。
「チッ――!」
呪文の詠唱が間に合わない。
ミヅチは両腕を硬化させて、正面から狼の顎を受け止めた。腕を支え棒のようにして耐えるが、高位霊獣の牙は、硬化した腕ごとミヅチを噛み砕こうする。牙が制服を切り裂き、皮膚を刻んで、骨を軋ませる。
ミヅチの頬を獣の熱い吐息が撫でた。
今にも押し潰されてしまうそうなのを必死に堪える。
「ミヅチぃぃぃいい!!」
シラコが、電撃を放つ警棒型の杖〈明滅〉を叩き込んだ。白いスパークが、狼の横っ面で弾ける。並の中位霊獣なら今の一撃で昏倒していた。
だが、白銀の狼はわずかに怯むだけだ。
ミヅチはその隙に顎の間から脱したが、人狼の咬合力をまともに受けたせいで、両腕の感覚が麻痺していた。荒い呼吸を繰り返しながら、だらりと腕をぶら下げる。
シラコは〈明滅〉の柄頭をスライドさせて、空の蓄電管を排出した。そして、すぐに次弾を装填する。
雷撃を放つには、一発ごとに蓄電管の交換が必要なのだ。連発はできなかった。
「こっちの打撃力が足りてねぇ」
シラコは、白銀の狼を睨みつけたまま言う。
ミヅチも、「……はい」と苦しそうに肯定した。
二人の使用する杖は、どちらかといえば、対象を生きたまま捕獲することに向いた性能をしている。そのため、単純な〈破壊力〉に関して言えば、それほど高いわけではなかった。シラコの〈明滅〉に至っては、あえて威力を抑えてすらいる。
可能な限り、霊獣を生かして捕まえるための杖。
それが今回は裏目に出ていた。
規格外の能力を持つ高位霊獣に対して、彼らの装備では時間稼ぎ以上のことができない。けれど、セアカが首輪を巻き付けるには、少しの時間、あれの動きを止める必要がある。
打撃力が不足していた。ミヅチにはわかっていたことだ。
白銀の狼は、悠然とした態度でミヅチとシラコを見下ろしている。その落ち着き払った姿はまるで、彼らが障害たり得ないと看破しているかのようだ。
絶対強者の風格。その異様な世界の支配者にふさわしい。
正真正銘の魔法使いを前にして、人間の身体はあまりにも脆弱で、杖の操る魔法は子供騙しの偽物に見えた。格が違う。
だが、二人の衛生官は膝を折らない。立ち止まることもない。
「見くびってくれるなよ、ウルフくん……」
片眼の魔術師は、震える左腕を持ち上げると黒い杖を構えた。
〇
「あった、〈善き隣人〉だ……!」
草原を散々掻き分けて、あたしはようやく〈善き隣人〉を見つけた。
「でも……」
顔を上げて、目の前で繰り広げられている光景を見る。
巨大な狼と、二人の衛生官の攻防。
シラコさんも、ミヅチさんも、本当にすごい人たちだ。
高位霊獣を相手取って、こんなにも時間を稼げるなんて。彼らの優秀さは、疑いようがない。いや、疑ったことなんてないけれど。
それでも、人狼との実力差は明白だった。
二人はすっかり疲労困憊の様子で、肩で息をしていた。制服もボロボロで、紙一重のところで攻撃を凌いでいるような状況だ。
それに対して、白銀の狼には依然として余裕があった。今のウルフからすれば、この程度のことは児戯に違いない。
文字通り、生き物としての位階が違う。
あたしは、手の中の〈善き隣人〉を握り締める。この杖を発動させるには、これをウルフの首に押し当てて、いくつかの鍵言葉を唱えなきゃいけない。そのためには、二人にどうにかウルフの動きを封じてもらわないとダメだ。
ダメなんだけど、でも……。
「そんなこといったって、あんなの無理じゃん……」
あたしは、首輪を握り締めて立ち尽くす。
そのときだ。
鉱石の槍を避けようとしたミヅチさんが、何かに躓いた。銀色の草の下に何かあったらしいのだ。ミヅチさんは足下を見て、その何かに意識を奪われる。「なっ、ハンサ・トリガー!?」と、その対象に呼び掛けていた。
それがマズかった。
降り注いだ鉱石の槍が、彼の左手から黒い杖を弾き飛ばした。
その瞬間、硬化の魔術が解ける。
「――――ッ!!」
「ミヅチッッ!!」
シラコさんが叫ぶ。
でも、彼はフォローに入れる距離にいなかった。
ミヅチさんの目の前で、狼の巨大な口が上下に割れた。月でも太陽でも呑み込んでしまえそうな顎が、無防備なミヅチさんに襲い掛かる。
「ぶちかませッ、タフな姉ちゃんッッッッ!!!」
聞き慣れない声がした。
その直後、ちょっとあり得ないことが起きた。あたしも、ミヅチさんも、シラコさんも、唖然とした。その光景に度肝を抜かれた。
だってわけわかんないんだもん。
リュウ・ライトハウスさんが、人狼の鼻面に跳び蹴りを喰らわしていた。
高位霊獣に対して――位階の違う本物の怪物を相手にして、なんの躊躇いもなく突っ込んで、普通に蹴ったぞ、あの人。
リュウさんは、事情の説明もないまま、このめちゃくちゃな状況で、さらにめちゃくちゃな最善手を一瞬で叩き出したんだ。
というか、いつの間にここに来てくれてたの?
「ありがたいけど、でも――危ないッ!」
あたしは叫ぶ。跳び蹴りのおかげでミヅチさんは助かったけど、人狼の大顎が、今度は着地前のリュウさんを狙う。空中では避けようがない。
けれど、リュウさんはいつもの冷静な顔を崩さず、腰から銃を――銃型の杖を抜き放ち、流れるように引き金を引いた。
――――キィィィィィィィィン!!!!
撃たれたのは、高音を奏でる杖〈別れ〉だ。
殺傷能力のない杖。しかし、下手な攻撃より、この爆音は聴力の強化されている人狼に有効だった。白銀の狼が音に竦んで隙を見せる。
リュウさんの動きに淀みはない。着地と同時に次の行動に移る。
「固めなさいッッ!!」
リュウさんはよくわからないことを叫んだ後、今度は美しくて凶悪なサマーソルトキックで、人狼の顎を蹴り上げた。
もはやどっちが人狼なんだかわからない。
白銀の狼は顎を強く蹴られて、ぐいっと頭を仰け反らした。
「霞む湿地に住まう影、重い頭と香る下草、視界は広く浅く、けれど、そのひと睨みはすべてを萎縮させる、私は醜い水牛の霊ッッッ!!」
ミヅチさんが、黒い杖を拾い上げて唱える。
先ほどの「固めなさいッッ!!」はミヅチさんに向けての言葉だったんだ。風車の魔術が、白銀の狼の頭を仰け反った状態で固定した。
そこに今度は、野太い男の笑い声とシラコさんの怒声が響く。
「無理無理無理無理ッ、無理だってんだろ、あほオグロッッッ!!」
「四の五の言わずに決めてこいッ、へたれシラコッッッ!!」
熊のような体格の衛生官――オグロさんが、シラコさんをぶん投げた。
泣き言を叫んでいるシラコさんが、頭を仰け反らしている人狼のすぐ真上に放り込まれる。シラコさんは覚悟を決めて、蓄電管を即座に入れ替えた。バリバリと雷光を放つ〈明滅〉を大きく振り被る。
「死んだら恨むぞあほオグロおおおおおッッッッッ!!!」
打ち込まれた〈明滅〉が、白銀の狼の鼻先で激しくスパークした。すると、今までは平気だったはずの人狼が、膝を折って崩れ落ちた。
あたしは驚いて、すぐに理解した。どうして今の一撃が効いたのか。
たぶん、固定していたからだ。
無理な姿勢で首を固定していたから、衝撃の逃げ場がなくなっていたんだ。
普通は当たった際に首を振ったり、身体を曲げたりして衝撃を散らすけれど、今は意図的にそれができないようにしてあった。
リュウさんが無理な姿勢を作って、ミヅチさんに固定させていたからだ。杖の打撃力が足りないのを見越して、足りない威力を技術で補ったんだ。
これが〈戦闘チーム〉と渾名される、実動第二班の実力。
すごい。すごいすごいすごい。
ホントにすごい!!
あたしは〈善き隣人〉を握り締めて走る。走りながら、鍵言葉の詠唱を開始した。
「暗くて温かい牢獄、繰り返される背赤の夜と、白く清潔な眠り、それはあたし自身の軛、この血と皮があなたの檻となり、あなたの言葉となるでしょう――」
その銀色に輝く毛皮へと、あたしは首輪を押し付けた。
最後の一節を唱える。
「――あなたはあたしの善き隣人」
高位霊獣を縛る杖が、細長い一本のリボンとなって狼の首を囲う。
それが次第に小さく、小さく、引き絞られていった。
気づけば、素っ裸のウルフが私に持たれかかってくる。それでお終い。高位霊獣の魔力で魔界化していた下水道も元の姿へと戻っていた。
ミヅチさんやシラコさんが、周囲の死んだ霊獣たちを見て驚いたりとか、地べたに転がって震えているおっさん(誰あの人?)を捕まえたりしているけれど、あたしは全然興味ない。その辺のことは、優秀な先輩方が上手いことしてくれる。
だから、あたしは自分の上着をウルフに引っ掛けて、腰を下ろした。
ウルフも目を覚まして、あたしを見て、ミヅチさんやシラコさんのボロボロ具合を見たりして、くしゃっと顔を歪めた。そして、馬鹿みたいなことを言い出した。
「セアカ、ぼくを駆除してくれ……」
あたしは雑にウルフの背中を撫でて言う。
「ねぇ、ウルフ、ちょっとこっち見て。あたしさ、今朝からずっとアンタを探し回ってさ、もうすっかり足が棒なわけ。背中も皮を剥がされたばっかりで泣いちゃいたいくらい痛くてさ。さっきまで慣れない大立ち回りとかもやってんの。とにかくマジで疲れてんの、わかる?」
あたしは、間抜けな顔を――あたしによく似たウルフの顔を見る。
ああ、ダメだなこいつ。全然わかってない顔だ。
どんだけ手間のかかるヤツなんだ。くそデカい溜息が出る。
「だからさ、愚痴なら明日付き合ってあげるから、今はちょっと黙りなさい」
あたしは、馬鹿なことを言う馬鹿の頭を叩いて、大馬鹿な主張を突っぱねた。




