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モンスター・チェイサー ―ヴィクトリア朝ロンドンでモンスターを追う人たち―  作者: 書店ゾンビ
レポート3:人狼〈バージニアン〉
27/33

第七話 不在

   ◇


 オグロとリュウは、朝靄の森林に立っていた。

 月狼ルナウルフの保護区。

 リュウは、肌を刺すような冷気と生き物の匂いが立ち籠める林を眺めてから、ふと背後の建物に視線を移した。この保護区を担当する霊獣保護官の事務所だ。


 つい先ほどそこから出たばかりだったが、中は酷いものだった。


 人手が足りずに山積した書類。溜まった洗濯物と、カビの生えたパン。屋根は崩れかけている箇所がいくつもあり、長らく放置されてきたせいか、雨漏りの痕が床を腐らせていた。


 動物や霊獣を保護する以前の問題だ。


 この事務所こそ、もう少し保護・保全されていいのではないかと思わせるような悲惨な状況だった。霊獣の十分な管理が、可能な状態ではない。


 そして、何よりの問題が一つ。


 その事務所には、この保護区を担当するはずの霊獣保護官が不在いなかった。


     ◇


 それは三十分ほど前の話だ。


「保護官が、死んだ?」


 保護区に着いたオグロとリュウを待っていたのは、衝撃的な報告だった。

 それを教えてくれたのは、保護官のサポートに入っていたというボランティアの女性だ。女性は化粧をする暇もないという顔で、両目には濃いくまが浮いていた。

 ボランティアの女性は、オグロとリュウから〈街に現れた月狼〉の話を聞くと、もとから良くなかった顔色をさらに蒼白にした。

 そして、青ざめた唇を震わせて話し出した。


「この保護区には、アダムとエバというつがいの月狼がいたんです。そして、その番いの子どもである、アベルという幼い月狼も。街に現れた月狼は、アダムか、エバか、そのどちらか、いえ、きっと両方なんでしょうね……」

「では、アベルはまだこの保護区に?」

「アベルは、生後半年で病死しました。いえ、病死したと思われていたんです」

「思われていた?」


 リュウが聞き返すと、ボランティアの女性は深呼吸した。「すみません。話を急ぎすぎました」と疲れた顔に微笑を浮かべる。

 その女性は、強い義務感を湛えた目で続けた。


「アベルは、病死したんだと思っていました。でも、違ったようです。亡くなった保護官さんの書類を整理していたときに、手紙を見つけました。どうやら彼は、保護区の運営資金を得るために、アベルを密売に出したようなんです。

 保護官さんは、彼は……確かにアベルがいなくなってから……アダムとエバを避けるようになって……月狼は〈共感シンパシー〉という魔法を使うから……きっと彼らに気づかれるのが怖くて……でも……ここの運営は本当に苦しくて……」


 ボランティアの女性の声は、段々と震えていった。悲しいからか、恐ろしいからか、自責なのか、声に乗り切らない感情が、涙となって頬を流れていく。

 オグロは、彼女に自分のハンカチを渡しながら一つ尋ねた。


「失礼ですが、霊獣保護官はどのような最期を……?」


 ボランティアの女性は、ガタガタと震える肩を抱いて絞り出すように答えた。


「喰われていました。たぶん彼らに気づかれて……」


 続けて、オグロとリュウに縋り付くようにして懇願した。


「あの月狼の夫婦は、今でも自分の子どもを探しているんです。どうか、彼らを止めてあげて下さい。どうか、どうか……」


     ◇


「オグロ先輩、〈方舟商会〉に行きましょう」


 リュウは、密売の証拠となる〈手紙〉を片手にそう言った。

 冷気を帯びた風が、さっと彼女の黒い髪を撫でる。けれど、リュウの頭は冷気に当てられるまでもなく、冷たく冴え渡っていた。


 冷静な頭と、確固たる決意を持って、そう提案しているのだ。


 オグロは「ハンカチは、さっきの事務所で使っちまったからな」と断って、リュウの目尻をそっと撫でた。今にも凍りつきそうな涙を拭い、「さて」と重たい腰に手を当てる。


「それじゃあ、この事件を解決しにいくぞ」

「はい、了解です」


 そして、二人の衛生官は駅に向かって歩き出した。


     ◇


 セアカ・バージニアンは、合い鍵を使ってウルフの部屋に入った。

 衛生局にある職員用の官舎だ。外に部屋を借りる衛生官の方が多かったが、ウルフとセアカに関しては、官舎で寝泊まりしていた。

 セアカは、ウルフの部屋を見回して、遅まきながらそれを確信した。


「ウルフが、どこにもいない」


 時刻はもう正午を回り、朝からあちこち駆け回っていたセアカは、この寒さにも関わらず、じっとりと汗をかいていた。下水道にも向かってみたのか、自慢の改造制服も泥や土埃ですっかり汚れていた。


 けれど、今はそれを気にしている様子はなかった。


「あのばか」


 セアカはぎゅっと握り拳を作り、近くの壁を叩いた。

 そのセアカの背後から、ウルフの部屋に入る影があった。

 眼帯の衛生官――ミヅチ・ウィンドミルである。

 その左手はすでに、彼のワンドである〈邪眼イビルアイ〉を握っていた。


「どうする、セアカさん?」


 ミヅチは、セアカの背中に向かって問い掛けた。

 セアカは、深く息を吸って吐いた。もう一度だけ、握り拳を壁に叩きつける。覚悟を決めた様子で、制服の上着を脱いだ。


 続いて、黒いブラウスのボタンを外していく。


 袖から腕を引き抜き、ぱさりと床に落とした。


 セアカの白い背中が露わになる。


 その背中には、夥しい傷跡があった――皮を剥がれた痕跡だ。


 それは、何度も、何度も、治っては剥ぎ、剥いでは治るのを待つ、その工程の繰り返しによって作られた傷の年輪だった。


 ぐちゃぐちゃに歪んだ痛みの集積地。


 セアカは青白い顔で唇を噛み、ガタガタと震えながらミヅチに答えた。


杖追跡ワンドストーカーをお願いします」


 ミヅチは、痛ましい表情を浮かべて、右手にナイフを握った。その儀式用のナイフが、少女の傷跡に新しい傷を刻む。

 セアカは脂汗を浮かべて、悲鳴を噛み殺して、懸命に皮を剥がれる痛みに耐えた。


 

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