第二話 言葉
◇
ウルフとセアカが、下水道にいた同時刻。
警察局の遺体安置所を、二人の衛生官が訪れていた。
棄獣課の実動第一班である。
班長のシラコ・ハーバーは、白い布を持ち上げ、無残に噛み殺された死体を見ていた。眉を寄せて、険しい表情を作る。シラコの後ろに立つ眼帯の衛生官は、案内の警察官に質問した。
「死因の頸椎骨折は、間違いなく噛まれたときのものですか?」
「絞められり、他に衝撃を受けたといった痕跡はありませんでした。なので、噛まれたときだと思われます。噛み痕の他には、打撲や切り傷の類いもなかったとの報告ですから、間違いなく、獣の犯行ではないでしょうか」
若く痩身の警察官は、固い表情で答える。
どうやら緊張しているらしい。それも当然、遺体安置所は楽しい会話に向いた場所ではない。けれど、彼の緊張は近くに横たわる遺体のせいばかりではなかった。
それと同じくらい、彼は隣に立つ眼帯の男――ミヅチに怖じ気づいていた。左目を覆う眼帯と、感情を削ぎ落としたような無表情が、他にない存在感を放っている。
ミヅチがやや首を捻り、感情の読めない右眼で警察官を見やる。それだけで、若い警察官は背筋が凍り付くような思いがした。
隻眼のミヅチは、無機質に質問を続ける。
「下水道で発見されたと伺っていますが、それにしてはいい身なりですね。とてもドブさらいには見えない。身元の確認は終わっていますか?」
「上着の裏地に刺繍がありました。名前はジョージ・バザルジェットだそうです」
「バザルジェット? では、お父上は土木技師の?」
「あっ、いえ、そこまでは調べが進んでいませんで。その、まだなんとも。お知り合いでしたか……?」
警察官が問い返すと、ミヅチは静かに彼を見つめた。
警察官は自分がとんでもなく恥ずかしいことを口にしたような気分になる。思わず縮こまっていると、男の死体を見ていたシラコが、「サー・ジョゼフ・ウィリアム・バザルジェット」と助け船を出した。続けて説明する。
「この街の上下水道敷設を指導した、偉大な土木技師だ」
「下水道で見つかった、バザルジェットの名前を持つ男性ですか。素人の私見ですが、調べた方がいい気がしますね」
「――だそうだぜ、警察官。ミヅチ、見るもん見たか?」
「はい、お手数お掛けしました。警察局の方も、ありがとうございました。大変参考になりました」
――それでは、これにて。
ミヅチが無表情に頭を下げる。
若い警察官は、一瞬呆けた後で、慌てて頭を下げ返した。そして、ミヅチとシラコを最敬礼で見送った後、被害者の身元を調べるよう本局に知らせを出した。
◇
シラコとミヅチは遺体安置所を出ると、衛生局に向かって歩いた。
人通りの疎らな通りには、昼過ぎの日射しに解かされた雪が、馬車などに跳ねられてぐじゅぐじゅに広がっている。二人の革靴が、泥とも雪とも判じられないものを踏み進み、それらの混沌ぶりに拍車を掛けた。
シラコは湿った煙草を右手で弄び、ミヅチに言い聞かせる。
「俺たちの仕事はあくまで霊獣への対処だ。密輸業者や違法な管理者を追うなんてのは、あくまで警察さんの領分だぜ」
ミヅチは「はい、承知しています」と考えの読めない声を返した。
シラコは火の付いていない煙草をじっと見る。
ミヅチは「必要なことでした」と言った。
シラコは煙草から目線を上げる。見れば、ミヅチは思ったよりずっと冷静な顔をしていた。その顔を見れば、嘘ではないとわかる。少なくとも「必要なこと」だったのは間違いないのだろう。
何にとって――必要なのかは、明言されていないけれど。
シラコは、ミヅチが伏せていることを承知で、「何か伏せたがっているんだ」ともわかっていた。鵺の事件以来、様子がおかしいのはわかっている。オグロと裏でこそこそと何かをやっているのも知っていた。しかし、仕事でヘマをしているわけでもなかった。相変わらずの優秀ぶりだ。
だから、判断に迷う。
もっと踏み込むべきか、微妙なところだった。
「そうか。俺の取り越し苦労なら、それでいい」
そう言って、シラコは大きく息を吐く。どんな風に吐いた息でも、冷気の前では等しく白煙った。湿った煙草をつまみ上げて、顔の横で軽く振る。
「火ぃ、もらえるか?」
疲れた苦笑いで、ようやくとそれだけ言った。
〇
ぼくたちは、下水道で発見した月狼を連れ帰ることにした。
取り急ぎ下水道の外までは、ぼくが背負って歩いた。下水道を出てからは、実動第二班に応援を頼み、担架に乗せて衛生局まで運び入れた。今は専属の霊獣医が治療を行っている。
月狼の右太股には、銃弾が貫通した痕があったから。
ぼくは、部屋の前で治療が終わるのを待っていた。
診療室の前には、簡素な長椅子があって、そこにひとりで座っている。
セアカは、「ああもう最悪。寒いし、臭いし。さっさとシャワー浴びて、ついでに着替えてくる……」と棄獣課の方に消えていた。
それにしても、この状況。衛生官としては、いろいろと考えるべきだ。
だけど、頭はひどく億劫がっていた。
下水道で見つかった死体のこと。その下水道で見つかった狼のこと――人を殺したかも知れない絶滅危惧種の霊獣。その霊獣にあった銃創。それから自分が感じた幻の痛みと風景。どれもこれも、一人で考えるには重い内容のように感じた。
「ウルフさん、寒くはありませんか?」
気づくと、リュウさんがすぐ側に立っていた。その腕には彼女の私物らしきブランケットが抱き込まれている。
ぼくは、彼女に言われて気がついた。確かに寒かったのだ。
両肩を抱くように腕を組み、膝を小刻みに揺するくらいには寒かった。つまりめちゃくちゃ寒かった。狙い澄ましたようにくしゃみまで出る。
リュウさんが、「使って下さい」とブランケットを掛けてくれた。
肩から包み込む暖かさと、鼻先をくすぐる女性の匂い。嬉しいんだけれど、ちょっと気恥ずかしかった。
ぼくが身動ぎしていると、リュウさんはすぐ隣に腰を下ろした。
久しぶりに近くで見ると、やっぱり綺麗な人だなと思う。生まれ持った容姿だけじゃない。彼女の場合、姿勢が綺麗なんだ。彼女の佇まいには、大人然とした怜悧さがあった。心が据わっているのだと、その立ち振る舞いから伝わってくるようだ。
ぼくがその様子に見とれていると、リュウさんは診療室のドアに視線を送り、表情を変えずに言った。
「彼女、元気になるといいですね」
その言葉が、ぼくには意外に思えた。
ぼくの知っている彼女は、一切の躊躇いなく棄獣に弾丸を撃ち込める人だ。その彼女から霊獣を心配する言葉が出るなんて、想いもしなかった。
驚きが顔に出ていたのか、リュウさんは「意外ですか?」と訊いた。
「彼女らのような霊獣を嫌っているわけではありません。職務遂行上やむを得ない場合を除いて、彼女らには元気でいて欲しいと願っています」
「それは――――ぼくもです。ぼくも、そう想います」
「ええ、そうでしょうとも。彼女は、とても綺麗な狼でしたね」
「……はい」
なぜだか、ぼくの声は震えていた。
リュウさんが、ぼくの方に向かって手を伸ばす。彼女の温かい指先が、ぼくの目尻をそっと撫でた。
彼女の指先に水滴が付く。不思議なことに涙が出ていた。
ぼくは自分で思っていたよりもずっと、あの月狼に感情移入しているみたいだ。
この感じはたぶん、あの下水道での痛みのせいだ。
あのとき感じた強烈な痛みと、それと同時に見たどこかの森を駆け抜ける幻影。あれを共有したことで、ぼくは彼女に――あの月狼に強い共感を覚えていた。
ぼくは、思い切ってリュウさんに尋ねた。
「あの月狼は、処分されてしまうんでしょうか?」
「場合によっては、そうなるでしょう。ただ、絶滅が危惧されている保護指定霊獣ですから、扱いは常よりも慎重になるはずです」
「慎重な、扱い、ですか?」
「まずはあの月狼が本当に人を殺めたのかどうか。次に本当に棄獣の要件を満たしているのか――つまり、管理されていない霊獣であるのかどうか。この二点を確かめることになると思います。また管理下であったのなら、下水道にいたのはなぜか。この辺りは、警察局とも協力して動くはずです。銃創の件もありますし。これから忙しくなりますよ」
リュウさんは、この後の展開を予測して言った。
ぼくが億劫がっていたことを、彼女はすでに終わらせていた。状況を分析し、取るべき行動の指針を立て終えている。最悪の状況もすでに想定済だ。
少し、わかった気がする。
リュウさんの心が据わっているのは、だからなのだ。撃つも、撃たないも、すべて熟慮の上。だから、現場で躊躇わない。
本当にすごい人だ。オグロさんの言葉を借りれば、最高にタフな人だ。
「あの~、いいですかぁ?」
ぼくが熱心にリュウさんの横顔を見ていると、廊下の角からセアカが顔を出して言った。意味ありげな半眼で、じ~っとこちらを見ている。
言葉尻が少し丁寧なのは、リュウさんがいるからだろう。二人きりのときは暴君のように振る舞う彼女も、他の人の前では猫を被るのだ。
「お取り込み中のところ申し訳ないんですが、シラコさんたち帰ってきたんで、みんなで今後の打ち合わせをしようって。課に戻ってもらえますか?」
「わかりました。すぐに向かいます」
リュウさんが立ち上がると、セアカはこちらを一度睨んだ。その後で、ぷいっと顔を逸らして、廊下の角に消える。
あの不満そうな顔は、何なのだ?
首を傾げていると、リュウさんに「さぁ、行きましょう」と手を差し出される。ぼくは慌てて彼女の手を取り、ブランケットを落とさないように立ち上がった。
そのとき、ふと気になって尋ねてしまった。
「リュウさんは、棄獣を撃つとき何を考えていますか?」
リュウさんは、珍しく表情を変えた。ちょっと面食らったように見える。けれど、すぐにいつも通りの落ち着いた声で答えた。
「掛ける言葉を探しています、ずっと」
そして、同じくらい落ち着いた声で言った。
「楽しいと感じたことは、一度もありません」




