第一話 少年
〇
摘み取られた命があった――多頭蛇、鵺、他にもたくさんの霊獣。
それによって守られた命もあった――人間、人間、人間。
その人間に保護される命もあった――家畜、伴侶動物、絶滅危惧種。
殺していい命があって、殺さなくていい命があって、守るべき命がある。
命には優先順位があるんだ。
ぼくの所属する組織には、そのための明確な規定があるし、ぼくの暮らす人間社会にも、明言されない命の線引きが存在する。
みんな口では「すべての命は等しく尊い」なんて言うけどね。
駆除の現場に立ち、駆除と保護の実態を知れば、耳障りのいい言葉が、耳障りがいいだけだってことを思い知る。別に誰かを責めたいわけじゃない。
ただ、いつも少し怖いのだ。他人事だと思えないから。
ぼくの名前は、ウルフ・バージニアン。
衛生局棄獣課実動第三班に所属している衛生官で、
そして、
現代に顕現が確認されている唯一の人狼だ。
〇
「遅いッ!」
呼び出された現場に行くと、第三班の同僚セアカがきゃんきゃん吠えていた。
場所は中心街の近く、大河の支流の一つだ。
川の両岸には、背の高い共同住宅がずらずらと並んでいて、セアカが待っていたのは、川沿いに整備されている遊歩道だった。彼女は鼻にハンカチを当て、大股を開いて立っている。ハンカチは川の悪臭のせいだろう。朝靄で隠れているが、あまり綺麗な川ではないのだ。
セアカは柳眉を釣り上げ、たくさんのフリフリで改造された黒い制服を風にはためかせていた。寒さのせいか、鼻先が赤い。
その赤い鼻にしわを寄せて、いつものヒステリー。
「このクソ寒い中で待たせんじゃないわよッ!」
第三班の班長、セアカ。
本名は、セアカ・バージニアン。
ぼくと彼女は、外見がよく似ていた。
顔も、背丈も、目の形も同じ。似ているというか、ほとんど瓜二つだ。違うのは、性別と髪くらい。彼女の髪は目映いばかりの黄金で、ぼくよりずっと長い。それを左右で尻尾みたいに括っている。胸は男のぼくと変わらないくらいだけど、髪だけはやっぱり女性らしく艶やかだった。
でも、姿が似ているのは当然なんだ。
ぼくの姿形が、彼女をもとにデザインされたものだから。
人狼であるぼくが、人の姿を得るときに彼女をモデルにしたからだ。彼女は今でもそこが気にくわないみたいだけど。
「遅いって言われてもね。怒られる謂われがないじゃないか」
ぼくは懐中時計を見せる。二本の針が、ぼくの落ち度でないことを証明してくれていた……はずなんだけれど、「女を待たせた時点でダメなのよ」と理不尽なことを言われる。
真面目に議論していると、真っ当な会話にならない。セアカとはそういう女性だ。無駄話は端折って本題に入ろう。
「そんなことより、警察局の人たちは?」
「そんなことよりぃぃぃ?」
「いいから仕事をしましょう、仕事を」
「奥よ、この奥。くさぁい下水道の中で、あんたをお待ち」
言われてぼくは、川の方に近づく。
遊歩道と川を隔てる鉄柵から、ぐいっと身を乗り出した。足下で川がボコボコと泡立っている――下水道の放流口だ。
大人が十分に擦れ違える大穴で、その入り口に立ち入り禁止の札が立てられていた。奥とは、あの大穴の奥だろう。
ぼくは鉄柵を乗り越えて振り返る。
ぼくの視線を受けて、セアカがキョトンとした。
「何よ、早く行きなさいよ」
「うん、だから行こうよ」
「ふえっ、な、何、あっ、あたしも行くの……?」
「むしろなんで自分は行かない前提だったのさ」
「だってそこ、下水道よ?」
「他のみなさんも入ってたでしょ、多頭蛇のときとか」
「そう、だけど……さぁ……」
セアカはすごい嫌そうな顔。
そりゃまぁ、そんなにフリル満載で気合い満タンみたいな格好だったら、躊躇う気持ちはわかるけど。というか、リュウさんと同じ制服のはずなのに、なんでスカートやらフリフリやら、そんなことになっちゃってるのさ。舞踏会に行くわけじゃないんだから。
頑なに嫌がるセアカと、「流石に仕事だから」と言い張るぼく。
柵を挟んでの侃々諤々の結果、ぼくがセアカを持ち上げて運ぶ方向で話がまとまった。
ダメだなぁとは思うけれど、彼女に抵抗されると強く出られないんだ。だから仕方なく、セアカを背負おうとする。彼女はなぜか不満そう。
「どうしたの、早く行こうよ?」
「おんぶだと……当たるじゃないの……」
「何が?」
「……胸が」
「いや、その心配は無用だ」
「首絞めるわよ、あんた!」
再びの侃々諤々。よくわからないプライドのためか、最終的に「お姫様だっこ」というやつで運ぶことになった。これって腕が余分に疲れるだけで、いいことない気がするんだけどなぁ。
まったく本当に「なんだかなぁ」とは思うんだけどね。
〇
「ああ、来たか。衛生局のきじゅ、う……課の、だよな?」
下水道の中で待っていた男性が、ぼくとセアカを見て挨拶に困っている。
理由は、ぼくらの外見のせいだろう。
セアカの場違いな格好に加えて、ぼくらは揃って見た目が幼い。実際のところ、ぼくらはまだ若かった。同年代の子たちは学生であってもおかしくない年齢だ。
ぼくはセアカを抱き上げたまま、「はい、そうです」と返事をした。見た目の幼さを挽回するべく、努めて大人然とした口調を心がける。
「衛生官のウルフ・バージニアンです、本日はお世話になります」
「ま、間違ってないならいいんだ。若いとは聞いていたが、二人揃ってここまで若いと思っていなかった。私は警察官のグリンウッドだ。こちらこそ世話になる。さっそくだが、事件の資料は読んでいるかな?」
「はい、死体が見つかったと」
殺人事件。通常であれば、衛生局が関わるものではない――が勿論、今回は通常でなかったのだ。問題は被害者の傷口にあった。
「その死体に、獣に噛まれた痕があったんですよね?」
「ああ、検死の結果、死因は頸椎の骨折。首筋にはくっきりと歯型も残っていた。他にも全身に噛み傷が多数。今のところ事件と事故の両方の線で捜査を進めているんだが、恥ずかしながら動物や霊獣は我々の専門外だ。何かわかると助かる」
「死体が見つかったのは、この場所なんでしょうか?」
「ああ、発見したのは鼠男と呼ばれるドブさらいだ。時間は昨日の早朝で、まぁ、場所が場所だけにかなり厄介なことになっている。下水の中に倒れていたせいで、血痕や足跡がまるきり残っていないんだ。全部流されてしまって」
「なるほど、わかりました。時間は経っていますが、確認してみます」
「確認?」
ぼくは首輪を緩めようと思って、顔を顰める。
セアカを抱き上げたままでは、首輪に触れない。
セアカはぼくの表情になんて気づかず、ハンカチで必死に鼻を押さえている。仕事をして欲しい。仕方ないから声を掛ける。
「セアカ、首輪を」
「何よ、許可は出てんの?」
「うん、鍵管理者には挨拶してきたから」
「そ。んじゃ、穴は一つ?」
「うん、お願い」
そう答えると、セアカはハンカチをしまって、ぼくの首もとに手を伸ばした。
そこには革の首輪がある。
セアカはその首輪の穴を一つだけ緩めた。
次の瞬間、ぼくの世界に匂いがあふれた。
古い匂い。新しい匂い。劣化した匂い。強く残る匂い。
下水の強い臭気。わずかに残る獣と血の臭い。被害者の興奮した匂い。香りは四次元的な情報だ。鮮度の違いから、大雑把な動きの流れまで追跡できる。
これがぼくの――人狼の力だ。
人狼としての姿や能力は、普段であれば、セアカの杖として登録されている首輪〈善き隣人〉によって制限されている。けれど、棄獣課として働くときに限り、その解放が許されていた。首輪の穴は四つ。それを一つずつ緩めることで、ぼくは段階的に本来の人狼へと近づいていく。
穴を一つ緩めたことで、ぼくは人狼としての〈嗅覚〉を取り戻していた。
「かなり薄れていますが、匂いは残っていますね」
「に、においが、なんだって……?」
グリンウッドさんが戸惑っている。
ぼくは「そういう杖なんです」と慣れた嘘を吐いた。誰彼構わず、本当のことを言えないから。それ以上の説明を避けて、ぼくは匂いに集中する。
セアカを抱き上げたまま、膝を曲げて下水道の壁面近くに鼻を突き出した。
「襲われたのは、ここで間違いなさそうですね。追い詰められて、壁に背中をつけたのかな。強く擦れたような匂いが残ってます。ああ、下の方に手を着いて、低い位置と高い位置に、別々に血の臭いも。生き物の方はなんだろう、大きさは本当に大型犬くらい。あまり嗅いだことのない匂いだ……」
「そ、そんなことまでわかるのか?」
「だからこそ、ぼくがここに来ているわけです。生き物の匂い、この奥まで続いていますね。ちょっと追ってみましょう。逃げた先がわかるかも知れません」
ぼくは匂いの新しい方に向かって、下水道を奥へと進む。セアカが「んむっ」と顰めっ面になった。
生き物の匂い以上に下水の悪臭がきついのだ。
ぼくにとってもそれは同じだけれど、悪臭のせいで匂いが紛れることはない。
匂いを追いながら、事件当時の動きを推察していく。
「被害者を噛んだ後、すぐに走り出して、ここを曲がる。動きに迷いがないな。何かを目指していたのか、追っていたのか、でも、がッ――――」
そこから先の言葉が、続けられなかった。
何の前触れもなく、右の太股が焼けるように痛んだのだ。痛みのあまりセアカを取り落とし、壁に肩を預けて太股を押さえる。
下水に落っこちたセアカが、すぐに悲鳴と怒声を上げた。
「なっ、ぎゃああああ、何すんのよウルフのばかッ!!」
血は出ていない。でも、信じられないほどに熱くて痛い。
なんだこれ。魔法による攻撃?
やはり霊獣による殺人なのか。でも、どうしてぼくだけが?
ダメだ。考えごとなんてとても無理。
太股に熱した鉄棒を突っ込まれて、掻き混ぜられたかのような激痛だ。セアカの文句なんか取り合っていられない。「おい、彼は大丈夫なのか!?」とグリンウッドさんがさらに戸惑う。セアカもようやく異常に気づいて、「ウルフ?」とやっと心配するような声を出した。遅いんだよ、キミはいつも。
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激痛によって、思考が白飛ぶ。
その空白になった脳裏に、ふと記憶にない景色が過ぎった。
木がたくさんある。針葉樹林だろうか。黒くて濃い土の匂い。冷たく染みる風と霧の肌触り。そこを姿勢低く駆け抜ける、不思議な一体感と高揚感。
覚えにないはずの記憶。
それを懐かしいと感じるのは、どうしてだろう。
激痛と哀愁が入り交じり、わけがわからなくなる。身体を支えていられない。四肢を下水に浸けて、脂汗を掻く。一際大きな激痛の波が来る。何かが爆ぜるような音を聞いた気がした。
言い知れない恐怖に身体が竦む。
その直後だった。痛み始めたのと同じくらい突然、痛みが消えた。
「―――ッがは、はぁ、はぁ、はぁ」
いつの間にか、呼吸を止めていたらしい。
大きく息を吐き、吸い、右の太股を触ってみる。負傷しているわけではない。
ぼくは立ち上がり、そのまま歩き出す。
セアカとグリンウッドさんが、何か言っていた。でも、耳に残らない。
ぼくは曖昧に言葉を返しながらさらに進む。
説明できない予感があった。予感に従い、入り組んだ下水道を突き進む。予感はさらに強くなる。方向に迷いはない。あの先の角を折れたところに、先ほどの痛みの源泉がある。だからさらに進む。セアカとグリンウッドさんが、不安そうに続く。
ぼくは角を折れる。
果たして、痛みのもとはそこにいた。
すぐに直感する。本当に痛かったのはキミなんだと。
それに近づく。
それは低く唸って威嚇した。
でも、こちらが手を伸ばすと相手も気づいた。
さっきまで繋がっていたのが、ぼくなのだと。
ぼくのことを「痛みを分け合った仲間」だと、それは認めた。
だから、ぼくの接近も許した。それの右の後ろ脚からは赤い血が流れている。ぼくはハンカチを取り出して、強く押し当てた。白いハンカチに赤い染みが滲む。
セアカとグリンウッドさんが、ぼくの後を追って角を折れた。
セアカが青ざめた顔で質問する。
「ウルフ、そいつは何……?」
ぼくはそれを抱き上げて答えた。
「たぶん、月狼だ。絶滅危惧種の中位霊獣だよ」
抱き上げられたそれは、白銀の毛並みと琥珀色の瞳を持つ、美しい獣だった。




