第十話 事件後
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多頭蛇の一件はこうして、幕を閉じた。
正確には、私たちの手を離れた――といったところだ。
あの子が、どういう経緯で街に持ち込まれて、棄獣になったのか。それらを調べるのは、衛生局の管轄ではない。
密輸業者の取り締まりや、管理者責任の追求は、警察局の担当だ。
私が仕事としてやるべきことは、もう何もない。
そう仕事として、は。
〇
事件の処理から数日後。
私は、多頭蛇と戦った通りに来ていた。花を添えるためだ。それがなんの救いにもならないとわかっているけれど、死者を悼む気持ちを忘れたくない。つまり、これは私自身のための儀式だ。
彼らを殺すことに慣れてしまわないための儀式。
行きがけの花屋で買った花束を、街灯の下に置く。捧げる言葉は、やはり思い浮かばなかった。こういうとき、花の美しさはいい。言葉よりずっと。
目を瞑って祈っていると、背後から声を掛けられた。
「よう、タフな姉ちゃん。相変わらず、真っ黒っけな格好だな、どうも」
瞼を開けて、振り返る。ドブさらいの鼠男がいた。
相変わらずの格好と、顔を覆う布のせいで、表情や年齢はわからない。その衣服に染み付いた下水の臭いのせいか、通行人はみんな彼を避けていた。こう言ってしまうのは失礼なんだろうけれど、青空の下があまり似合っていない。
鼠男は私の隣に並ぶと、献花を見下ろした。少し意外そうな様子で、「へぇ」と独りごちる。
「お久しぶりです、鼠男」
「おう。こいつ、あんたが始末をつけたってな」
「はい。トドメを刺したのは、私です」
「ああ、途中まではあの大男と一緒にやったんだろ。聞いたぜ、乱戦の最中、ただの一発も撃ち漏らさなかったってな。まぁなんだ。助かったよ。この街のドブさらいを代表して、礼を言わせてもらうぜ」
「仕事ですから」
「立派な仕事だ」
「薄給ですよ」
「仕事の立派さと収入は、比例するたぁ限らねぇ。そういうもんだろ?」
実感の籠もった言葉だ。
鼠男はたぶん笑ってそれを口にした。
その後で、「礼は言ったぜ。それじゃあな、タフな姉ちゃん」と彼は早々に通りからいなくなった。本当に〈礼を言うこと〉しか用件がなかったようだ。もしくは、居心地が悪かったのかもしれない。
彼が立ち去るのを見送り、「さて、私も帰ろう」と足を家に向けたところで、また知り合いがやって来た。遠くからでもすぐにわかる。
頭二つ分くらい、人混みから抜け出ているから。不便そうな巨体だ。
オグロ先輩も私を見つけたのか、遠くから花束を掲げてみせた。
「なんだ、リュウも来てたか」
「考えることは同じですね」
「相棒だからな。そういうこともある」
「よくわからない理屈です」
「理屈で考えるな、こういうのは感じるんだ」
「ますます謎です」
オグロ先輩は肩を竦めてから、街灯の前でしゃがんだ。
花を添えて、目を閉じる。
それから数秒して、「さて」と立ち上がった。「せっかくだから、どっか飯でも食いに行くか」と言い始める。大雑把で果断な彼らしい切り替えの早さだ。
私は、このあとの予定のことを考える。
特に問題なかった。だから、彼の誘いに乗ろうと思う。
「では、アルコールの出ないところでお願いします」
「なんだ、あのときのこと、まだ引き摺ってるのか?」
「……何の話でしょう?」
「澄ました顔してるくせに、こういうときだけわかりやすいな」
「知りません知りません」
早く行きましょう、と私は彼の背中を押して歩く。
オグロ先輩は「はっはっはっ」と勝ち誇ったような笑い声で、私に押されるまま歩いていた。他人の弱みを握って笑っている。なんて酷い大人だ。そして、やっぱりこの巨体は持ち運びに不便だ。無駄に重い。ああもう、重い。おもいおもい。こら、ちゃんと歩け。
「あ、あの……」
不便で無駄な男を押していると、ブラウスの裾を引っ張られた。
また知り合いか。よく知り合いに会う日だ。でも、私の知り合いって、そんなにいただろうか。スワンじゃないのは、まぁ、わかる。スワンならこんな控えめに声を掛けない。じゃあ、誰だろう。そう思いながら後ろを向く。
小さな女の子がいた。
私の胸の辺りまでしか背丈がない。知り合いではないと思う。
私は腰を屈めて、彼女と視線を合わせる。「何か御用でしょうか?」と尋ねると、少女は顔を赤らめて、もじもじと身動ぎした。どうしたのだろう。
不思議に思っていると、なぜかオグロ先輩が、「ああ、そうか」と納得したような声を出す。オグロ先輩の知り合いだったのか。なんだ。
「いや、待て。リュウ、俺に引き合わそうとするな。違うから。これはあれだ。お前に用があるんだ。ほら、見覚えあるだろ。お前が助けた女の子だ」
「私が……助けた?」
「初撃のヤツだ。あのとき助けた女の子」
「思い出しました」
私は、改めて少女を見る。健康そうだ。
怪我がなくてよかった。思わず微笑むと、少女はくりっとした目をさらに大きく見開いた。オドオドしている。人見知りなのか。仲間だなと思う。
彼女が何か言おうとしているのはわかったから、急かさずに待った。
「あの、二階から見てたら、お姉さんが見えたから……」
「うん」
「だから、その……言わなきゃって!」
「うん」
「その……助けてくれて、ありがとうって……」
「うん、どういたしまして」
「それとね……あたしね……」
「うん」
「いつか、お姉さんみたいになりたい!」
「それは……」
その少女は、私を見ていた。憧憬するような眼差しで。
自惚れみたいで嫌だけど、でも、そう表現しないと嘘になる。
だから私は、言葉に詰まった。
私みたい――それが〈ろくなもんじゃない〉ことは、私が一番よくわかっている。少女に憧れてもらえるような人間ではない。流され続けた末の消去法だ。
最悪な社会で、最低な仕事に就いている。
それは違うよ、と言いたかった。
こんな風になっちゃいけないよ、と答えたかった。
でも、それを伝えるべきなのか。
わからない。掛けるべき言葉が、また見つからない。
「そいつは難しいぞぉ、お嬢ちゃん」
オグロ先輩が言った。
巨大な身体を可能な限り縮めて、少女の目線に合わせる。
彼は、わざとらしい意地悪顔で問い掛けた。
「このお姉ちゃんは、最高のタフガイだからな。最悪な現実を直視できるくらい強くて、最低な自分を我慢できるくらい強くて、辛い決断を自分で下せるくらい強くて、最低な役目を背負って何でもない顔ができるくらい最高にタフな大人だ。そしていつか、この社会を変えてしまえるくらい、すげぇヤツになる。追いかけるのは、すんごい苦労するぞぉ。それでも、お姉ちゃんみたいになりたいかぁ?」
オグロ先輩はニヤニヤしながら答えを待つ。
少女はちょっと怯んだけれど、すぐに眉を寄せて答えた。
「なるもん!!」
「よくぞ言った! タフな嬢ちゃんだ!」
オグロ先輩は、親戚の子どもと戯れるおじさんみたいな感じで、がしがしと少女の頭を撫でた。「えらいえらい!」と褒める。
少女も満更でない様子で、「あははは」と笑っていた。
私はちょっと驚いて、やや気恥ずかしくて、それでもやっぱり悩んで、けれど結局は受け入れることにした。そうだ。最低な役目を背負って何でもない顔ができるくらい大人になるんだ。だから、少女の理想として、私は嘘の役目を背負う。それがいつか、彼女を支える本当の〈何か〉になることを祈って。
だけど、やっぱり一つだけ、訂正はしておこう。ここだけは譲れないから。
私は、笑い合う大男と少女に向かって、静かに抗議した。
「私は女です」
(レポート1:多頭蛇〈ヒュドラー〉了)




