第八十一話:正体不明
※一般貧弱モブとかハルバ君たちのお話です
普段、イサラがハルバに対して強い語調で言葉を発する事はない。例えば、多少エッチなお仕置きを強要したり、目の前で別の女を抱いて見せたり、重い物を持たせてやったりしても、基本的にはイサラはハルバに従順である。半分はイサラの諦めが混じってたりするのだが基本的には従順なのだ。
だからこそハルバは、イサラが本気の声をあげた時を決して聞き逃したりはしない。眼前に迫りくる黒い岩のような物体に、イサラだけが恐れる何かがある事を疑ったりはしないのである。
「ちぃっ!」
迫る飛来物に対して振るわれるはずだった大剣の勢いを無理矢理腕力だけで殺しきり、咄嗟に力強く地面を蹴ってきりもみ回転しながら宙へと跳び、付近のイサラを片腕で抱きかかえながら黒い岩のような物体の着弾点から逃れた。
「風よ、厄災からハルバ様を守って!」
イサラはハルバに身体を預けながら詠唱中だった【風の膜】を発動させると、ボウガンの矢程度なら反らせるほどの密度に圧縮された空気の層がハルバの周囲に展開される。そして、その次の瞬間には黒い物体は地面に弾着して炸裂する。
腐りきった果実が勢いよく地面に叩きつけられたかのような不快な音と、粘性のある汚らわしい液体が飛沫となって飛び散り、その周囲を無差別に汚染したのだ。
「うぉおお! 汚ねぇっ!? 何だこりゃ!?」
ハルバに向かって飛んできた水飛沫はエアスクリーンの保護によって辛うじて直撃から反れたが、身の毛もよだつような悍ましい臭いまでは完全に遮断できずにいた。
「ハルバ様っ、すぐにここを離れましょう。あの飛沫に一瞬でも触れたらおしまいです」
流石のハルバであっても、四方八方に飛び散る飛沫全てを回避しきるのは困難を極める。第一波、第二派と今の攻撃を続けられてはいくらハルバであってもいずれ被弾を免れない。
「ぐっ、クソッ。一旦後続の本陣まで逃げきるぞ。イサラ、しっかり俺様に捕まってろ」
何よりも、"一度触れたらおしまい"の飛沫からイサラを庇いながら回避するのではあまりにも状況が悪い。ハルバからすれば、奴隷を買う為に金を稼ぎにきておきながらイサラを失うのでは本末転倒がすぎる。もはや形振りなど構っていられる状況ではなかった。
「はいっ」
ハルバはイサラを両手で抱え上げ、攻撃を仕掛けて来たであろう崖上の存在を睨む。
「この屈辱は絶対に忘れないからなーーーっ! 次に会ったら必ずヒィヒィ泣かしてやる! 覚えてやがれ!」
捨て台詞を発した後、脱兎のようにその場から逃げ去ったのである。
「……ハルバ様、ちょっぴり小物っぽいです……」
疾風、あるいは韋駄天の如く道を駆け抜けるハルバに追いつける者は何処にもいない。そうして、ハルバ達は陽光の差し込む領域まで無事逃げおおせる事が出来たのだ。
「なんとか撒いたか? おいイサラ、アレにうっかり触れてたらどうなったんだ?」
ハルバは、相変わらず何も言わず大口を開けて待っている日喰谷の進入路を睨みながら、追撃者の気配がない事を確認してようやく息をついた。
「多分、ハルバ様でも病気になって死んでしまうかも……です。 触れなくても黒い風が充満している場所に長い間留まるのはすごく危ないですから……本当に、良かった……」
「おぉ……」
涙目で無事を案じようとするイサラに対し、ガラにもなく胸を打たれてしまうハルバであったが、すぐに主人としての威厳を保つべく奮い立つ。
「ふ、ふん。まぁ、イサラが居なければヤバかったのは確かだしな。俺様の忠実な奴隷として少ーーーしは役に立った事をほんのちょびーーーっとだけ褒めてやる」
「えへへ」
照れ隠しにイサラの頭をぽんぽんと軽く叩くハルバだが、それを最大級の賛辞として受け取ったイサラは破顔するのであった。
「しっかし、ありゃあ思ってた以上にやべー奴だな。この俺様を本気でぶっ殺そうとしてきた奴の中でもとびっきりにガンギマってんぜ」
「……はい。まだどんな罠が残ってるのかもわかりませんし、このまま谷底の道を進むのは凄く危ないと思います……」
「しかも今の時点でアレを倒しても金貨1枚にすらなりゃしねぇときた。なーにが強いのは指揮官の銀鎧くらいだ。だ。明らかに報酬詐欺じゃねぇか!」
依頼で想定される難易度と報酬は必ずしも釣り合うわけではない。報酬を用意する側が金品を用意できなかった例もあれば、事前調査が全く足りておらず未知の脅威が潜んでいる事を把握できなかった例もある。
もし後者に遭遇した場合、依頼を受けた先駆者が何度も全滅を繰り返したり、脅威の情報を持ち帰る事でようやく報酬が適正価格にまで上昇するのである。しかし、崖上の存在には問題があった。
「理由は分からねぇが、アレは今の所俺様以外に姿を晒す気がねぇ」
多くの者の目に留まるからこそ、それは脅威として認識される。しかし、崖上の存在を認知できるのは今の段階ではハルバのように殺気や異常を感じ取れた強者のみである。
「どうしましょうか、ハルバ様……。他の人達にアレの事を伝えた方が良さそうですけど……」
「それは俺様の沽券にかかわるから却下な。気に食わねぇ事だらけで癪だが、"間抜け共"が身をもってアレの正体に気づくまでは後ろでじっと待つぞ」
いくらハルバが崖上の存在の脅威について吹聴して回った所で、日頃の行いが悪いハルバが"敵から逃げてしまった事実"の方を周囲が注目するのが明らかであるし、迂闊に前線に出れば先ほどのように崖上の存在から執拗に狙われ続ける事になる。
「戦が本格化してアレに余裕がなくなってくれば、間違いなく前線に出てきて暴れ始める。その時に俺様が颯爽と駆け付けて真っ向からねじ伏せてやればいい」
ハルバからすれば、思う存分に暴れさせて適正価格にまで吊り上がった崖上の存在の討伐報酬を頂く方が遥かに合理的なのだ。
「もしかしたら思わぬ所で白金貨が転がって来るかもしれんな! 明後日辺りが楽しみだなっガハハッ」
「流石はハルバ様です!」
そうして、調子を良くしたハルバのガハハ笑いが日喰谷の底に響いたという。
――――……
「なんか飛竜狩りの奴がビビッて一目散に逃げていったが、コウモリか何かか?」
「つうか、この辺凄まじくくせぇっ! まるで1週間洗ってない冷やしオルゴーモンのようだぜ」
「……暗くてよく見えないから近づいて確かめてみる他にないが、一応油断せずにな。俺はここで見ている」
「うるせぇ、てめぇもこい」
日喰谷の底は闇で満たされているためか、突然襲来してきた黒い物体の正体を把握するには、近づいて灯りに照らして注視しなくてはならない。恐る恐る、先遣隊が落下物に近づこうとしたその時だった。
「ん、水? いや、これは雨……なのか?」
先遣隊の頭上から液体がポツポツと降り始めてきたのだ。
「おい、火が消えないように松明を雨から守れ! このままだと真っ暗闇になるぞ」
「うわあああああああっ!」
何となく上を見上げていた男の一人が、唐突に悶絶の叫びを上げ始めた。
「なんだ!?」
「いや……違う。違うぞこれは……、雨じゃない」
雨を浴びたというにはあまりにも不快な臭気、肌で感じるのはねちょりとした気色悪い粘性、飛沫が眼球に入った時に視界全体に広がる赤色。
そして、それを理解した瞬間に全身から血の気が引いていくような感覚を先遣隊は覚えたのである。
「血だ。血が降ってきている!」
「落ち着け、ただの血だ」
「ただの血がこんな酷い臭いするわけがねぇ。もしや、上は"ブロブ"の巣なのか?」
飛竜狩りが咄嗟に逃げる程の脅威、尚且つ血色の体液を持つ存在となれば、粘体生物種のブロブが潜んでいると考えても不思議ではない。
「おいおい、それはヤバイぞ。すぐに魔術師を呼べ!」
「ヒィエエエエエ!? 血ガッ、血ガナンデ!?」
見えもしない崖上を凝視しようとして派手に血を浴びる者。我を忘れて飛竜狩りの逃げた方向に駆け込む者、絶叫をあげてショックに打ちひしがれる者。誰もが正常な思考を保てなくなりつつあった。
「だから落ち着けと言っている! ブロブの酸なら刺激臭と触れた際の激痛があるはずだ。だから少なくともこれはブロブではない。浴びた所で直ちには問題はないから安心するんだ。大方、崖上を飛んでる死肉漁りの怪鳥辺りが何かに驚いて食い物をうっかり落したんだろう」
最悪の液体であるブロブの酸ではないのが確定したという事実が、"浴びてもただちには問題はない"という真実を先遣隊に信じ込ませるには十分な効力を発揮した。その後にわか雨は止み、肉体への強い異変を感じた先遣隊がまだ現れなかったのもあってか、血雨パニックは程なくして鎮静化していったのだ。
「……しかし気になるな、飛竜狩りの女が言ってなかったか? 触れたらおしまいだと、一体どういう意味なんだ?」
「きっと血を見て性奴隷がパニック起こしただけだろ。俺達はきっと大丈夫だ。大丈夫なはずさ……だから後続が来るまでこの場をきっちり確保する事に専念しよう」
先遣隊の中に、得体の知れない不安が広がっていた。鈍りきった人間の本能が感じさせてくれる忌諱感を、血を浴びてしまった先遣隊の者達は拭い去る事をできずにいた。
覚悟ガンギマリ太郎に粘着されたハルバ君のとった行動は、周りが"全滅しまくる"まで放置して値上がりするのを待つ事だった。主目的が"お金を稼ぐ事"であって、"強敵を倒す"事ではないのだから仕方ないね!
金目当てで雇われてる身に信念とか善意を期待してもしょーがない。同業者は商売敵でもあるし、減って貰った方が色々と都合がいいので結局足を引っ張り合うハメになるという。一方で獣人側は曲がりなりにも鉱山都市解放という共通目標に向かって一丸となって戦う事になるので、醜く足を引っ張り合ったりとかはあんまりやらない。
尻に火がついて生き死にがかかってる状態で竹槍を持ち出すのと、スポーツ感覚でエンジョイ&エキサイティング的略奪するのとでは、同じ烏合の衆でも軍の統制に大きく差が出てくる……というのが次回の犠牲者のお話になったりならなかったりする。




