月下の禍影
夜の闇に包まれた人気のない聖ヶ丘公園。
公園の樹々の間を吹き抜ける冷たい夜風に、桜の花びらがひらめいていく。
外灯に照らされて白く光った花びらが、風に乗ってぐるぐると樹々を巡ると、やがて一陣の花の渦を形作った。
白に薄桃に煌く花嵐の渦が、公園の地面の一ヵ所に集まって行くと……
びゅうう。
次の瞬間、渦の中心に立っていたのは、一人の少女だった。
小動物を思わせる愛くるしい顔立ちとつぶらな瞳。
ツインテールにまとめられた桃色の髪が夜風になびく様は、まるで桜の花びらがそのまま少女の髪に凝集したかのようだ。
そして、少女がその身に纏っているのは、どういうわけだろう、せつなとメイアの通う、聖痕十文字学園の紺碧のブレザーだった。
「ふー! やばかったぁー!」
桃色の髪の少女が、深いため息とともに、澄んだ声でそう言った。
「バルグル様の言ってた『魔王』が、本当にあいつだったなんて……」
公園の闇に鳴る鈴の音の様な澄んだ声は、先刻、メイアと人狼ガンスの戦いから逃げ去った、花吹雪の女と同じもの。
『キルシエ』の声だった。
「あたしも『こっちの世界』が長いから、向こうの魔王の顔とか、よく知らなかったしな……まさかメイアがね……」
徐々に周囲に散り落ちていく花の中に立って、キルシエが神妙な顔で呟く。
「それにしても、ガンスがやばいからって、思わずあいつに手ぇ出しちゃったけど、明日から学校どうしよー?」
キルシエが腕組みしながら、眉を寄せて困り顔。
「ま、大丈夫だよね? 顔バレしてないし……」
彼女は冷や汗を垂らしながら自分の頬をなでると、ブツブツ呟きながら森の中を歩きだした。
その時だ。がさり。
「おねえちゃんさぁ~、こんな夜遅くに、一人でなにやってるのかな~?」
ブナの木陰からのっそりと起き上がった黒い影が一人、そう言いながら少女に近づいてくる。
ヨレヨレのスーツを着た三十半ばに見える、小太りのサラリーマンと思しき男だった。
「ん? 酔っ払い?」
キルシエは眉をひそめた。男の体から芬々たる酒の匂い。どうやら今の今まで酔って公園の真中で寝ていたらしい。
「じゃ、『あれ』は見られてないってことか……。ふ、命拾いしたわね! おっちゃん!」
顎に手をやりながらそう言って、ひとり恰好つけて、スタスタその場から去ろうとしたキルシエだったが、
「まちなって~おねえちゃん~危ないから送ってくよ~」
酔漢はなおもしつこくキルシエに追いすがった。
「その制服、聖痕十文字学園だよね~? いいなぁブレザー……俺、実はセーラー服より断然ブレザー派なんだよ~」
男はニヤニヤとだらしなく笑いながら、彼女の脇で酒臭い息を吹きかけてきた。
制服マニア? 変態? キルシエの顔が、みるみる険しくなっていく。
「でへへ~! ちゅぅがくせぇ~~!」
酒で理性を失っているのか、それとも元々そうなのか。
唾棄すべき痴漢と化した男が、キルシエの僅かに育った胸元に、その手を伸ばして来た。
「ちっ!」
キルシエが舌打ち。次の瞬間、
ビスッ!
いやらしく差し伸ばされた男の右手の甲を引き裂いて、何かが飛び出して来た。
「うぐあぁ!」
堪らず苦痛の声を上げ、右手を押さえる制服マニア。
男の手から飛び出しているのは、外灯の光を反射してキラキラと光った、血塗られた水晶針だった。
「さっさとどっか行きなよ! でないと、手だけじゃすまないから!」
愛らしい顔を嫌悪で曇らせながら、キルシエが冷たく男に言い放った。だが、
「ナイフで……! 俺を差した?! このガキャ~~!」
顔を上げた男の眼つきは、痛みと屈辱感で、完全に常軌を逸している。
怒りに燃える男が、キルシエに飛びかかると、冷たい地面に彼女の華奢な体を押し倒して、彼女の細い首に両手をかけた。
「ちょっと可愛い顔してっからって! チョーシこいてんじゃねーぞぉ! お前らからブレザーを取ったら、市場価値は¥980くらいなんだよ~!」
わけのわからない事を喚きながら、ぎりぎりと少女の頸を締めあげる男。
キルシエが、男を見つめて悲しげな顔をしている。
まるで、何かを、もう諦めたという風に。
ぐい。不意に、男の襟元を背後から何者かが掴むと、そのまま男を空中に持ち上げた。
「うぐっ!」
何が起きたのか理解できずに手足をバタつかせてもがく男。
男を片腕で空中に吊るし上げていたのは、もう春だというのに、その体を真っ黒なロングコートで覆った、長身の壮漢だった。
外灯に照らされ白く靡いた銀色の総髪。空中でもがく小太りの男を見据える両目は闇の中で赤黒く輝いている。まるで獣の眼だった。
「バルグル様……!」
地面から立ち上がったキルシエが、きまりの悪そうな顔で、銀髪の男を見つめた。
「ふん……」
バルグルと呼ばれた男が、小太りの男を一瞥して鼻を鳴らすと、
ごきっ!
バルグルに片手で掴まれた男の頸が、鈍い音を立てて、あらぬ方向に折れ曲がった。
「……!」
自分の身に何が起きたのかも解らぬまま、絶句し息絶えた男の体を、バルグルはつまらなそうに地面に放り投げた。
と、次の瞬間、
ガルルルル!!
バルグルのロングコートがモコモコと蠢くと、コートの内から、何匹もの黒犬達が飛び出した。
犬達は地面に転げた男に駆け寄ると、その死体を喰い尽していく。
「キルシエ……」
バルグルが少女に向かって野太い声を発した。
「バルグル様、ごめん! やっぱりガンスとあたしじゃ魔王を封じるなんて無理!」
キルシエがぴょこんとバルグルに頭を下げると、
「よい、キルシエ、魔力を取り戻したメイアに挑むなど、ガンスの馬鹿が悪いのだ……」
赤黒い眼でキルシエを見据えて、銀髪の壮漢はそう言った。
「見ろキルシエ。俺も犬達も、元の力を取り戻すまで、あと少し……」
バルグルが燃える眼で月を仰いだ。
「『接界』まであと僅か……今度こそ、メイアにも他の魔王衆にも、何の邪魔立てもさせぬ!」
キルシエに向き直るバルグル。
「お前には、ここに堕ちてきたときから、世話になり通しだが、それもあと少しだ、引き続き、メイアの動きを見ていてくれ……」
バルグルが静かに少女にそう言った。
「バルグル様……わかった。あたし、なんでも横から見てるの大好きなの!」
桃色の髪の少女は、ふっと笑うと、バルグルにそう答えた。




