死闘の記憶
ごおごおごお。暗い森を吹き巻く吹雪が、傷ついた私の翅を容赦なく叩いてもみくしゃにする。
風に翅を取られた私は一瞬、バランスを崩すと、鬱蒼とした森に向かって落下しそうになった。
いけない。高度を保てない。体が重い。魔力ももう、尽きかけている。
どうにか体勢を立て直しながら、私は目の前で鳴動する『鬼神の爪』を睨みつけた。
遥か古より吹雪の塔の頂上に深々と突き刺さっていた『鬼神の爪』が、今では塔を離れて空に浮き、不気味な呻りを上げながら、雲間から顔を擡げた月の光を受けて白く輝いている。
そしてそれは、もう、剣などと呼べるモノではなかった。その刀身を這いまわりながら中空に向って幾筋も伸び、茂り、蠢いているのは、紫色の魔気を噴き上げた棘だった。
棘は塔の頂上に向かって刺あるその手を伸ばして生い茂ると、私の足元で鬨の声を上げる藻爺と彼の騎士達、そして騎士達と剣を交える人狼軍団の体をも締めあげていく。
「メイア様ー! お急ぎを! 早く魔氷の封印を!」
棘にその身を巻き取られた藻爺の悲痛な声が、ここまで聞こえてくる。
「わかっている! 少し静かにしていろー!」
幾本も、鞭のように空を切りながら私に打ちかかってくる棘を避けて、私は藻爺にそう叫ぶ。
そうだ、ここで引き下がるわけにはいかない。
私は打ちかかって来た棘の鞭の一本を、がしりとその手で握り締めた。
刺が私の掌を裂く。私は最後の力を振り絞って両手に炎を滾らせた。
「災いを呼ぶ剣よ! 沈黙せよ我が魔氷で! 魔氷鉄槌!!」
魔氷が剣を覆っていく。『鬼神の爪』の鳴動が、徐々に小さくなっていく。
……やった! これで世界は元の姿に……
だがその時。バキン。軋んだ音を立てながら、私の氷が、砕けていく。
「そんな!」
私は目を疑った。私の氷を砕いたのは、月を背負った黒い影。
塔まで茂った棘を伝ってここまで駆け上がって来たのは、眼光鋭い一人の男。
蠢く棘を軽やかに跳び渡りながら私を睨む。
暗黒火竜の鱗鎧でぶ厚い胸板を覆い、両手に構えているのは自分の背丈ほどもある巨大な戦鎚。
銀色の総髪を夜風に靡かせた『獣の谷』を統べる狼王……!
「バルグル! なぜ私の邪魔を!」
私は空中から、怒りにまかせてそう叫んだ。
『狼王バルグル』、獣の谷にひしめく荒くれどもを、ただ己の武術だけで治める剛腕。
だが情に厚く義を重んじる、『魔王衆』の中でも一番筋の通った男だったはずだ。
そいつが、なぜ私の邪魔を? 世界がどうなってもいいというのか?
「メイア! 無駄な足掻きはやめろ! 俺には、こいつが必要なのだ!」
バルグルが野太い声で私に向かってそう叫んだ。
棘のうねりが空に広がって行く。鬼神の爪の咆哮が止まない。
吹雪の塔が、ぐにゃりと歪んでその姿を変えていく。
白亜の外壁が灰色の石肌に。優雅な威容は、奇怪な八角柱に。その先端は、みるみる二又に裂けていく。
突如、異様な地鳴りが空気を震わす。
森を割って、幾本もの巨大な石柱が、塔が、天を突くように生えて来る!
ああ。私は呻いた。
……ヒトの世の塔だ。世界が、融けあっていく……!
「見ろメイア! 『接界』だ! これで、ようやく『あいつ』にも……!」
昂るバルグル。狼王が月に吼える。
まずい……どうにかしないと!何か打つ手は!
私は鳴動する鬼神の爪を見る。
……あった。
蠢く棘にかろうじて引っかかっている、砕けた魔氷の一欠片。
あいつに残った魔力を注げば、もしかしたら……だが、刻々姿を変えていくこの世界でそんなことをしたら、私も無事で済むだろうか?
私は森を見渡す。森に潜んだ臣民たちの、戸惑いの叫び。そして、聞き慣れぬ悲鳴。ヒトの世の住人だろうか。
そうだ、迷っている暇は無い! わたしは右手の拳を固く握る。私は昂る狼を見あげて言い放つ。
「バルグル! ならぬものはならぬぞ!」
そして、鬼神の爪に拳を向けて唱えた。
「魔氷炸裂!!」
「なに!」
バルグルが驚愕の声。
ぎりり。私の号令で、棘の中の魔氷の一欠片が膨れ上がり、爆ぜた。
ぼおお。黒い魔炎の奔流が棘を内側から引き裂いて行く、炎は剣を包み、次の瞬間、
ガシャン!
『鬼神の爪』が粉々に砕けると、紫色にキラキラ瞬く幾万片もの微塵になって、夜の闇に散って行く。
おわった……。
私の手から、足から、翅から、力が抜けていく。
体が地面に吸い込まれていくのを感じる。
「馬鹿な! 許さんぞメイア!」
薄れていく意識の中で聞こえてくる、バルグルの無念の叫び。
「メイア様---!」
闇の中で最後に聞こえたのは、藻爺の悲痛な声だった。
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遠くの方で、誰かが話している。
……『接界』を止めんとするメイア様と我らの前に立ちはだかったのは『獣の谷のバルグル』。奴もまた、魔影世界を統べる『魔王』の一人じゃった……
思い出した。懐かしい、藻爺の声だ。
ぼんやりと、明るさを取り戻していく視界。
……『魔王衆』……って、メイアの仲間だったんだろ? なんでそんなことするんだよ……
声が、だんだんはっきりしてくる。
私の胸が、幽かにうずいた。
聞きなれた、『あいつ』の声だった。




