【花とコガネムシ】・4
夜なのに明るいのは慣れていると思っていた。
だって曲がりなりにも花街の住人だ。暗がりに満ちた熱気も、銘酒屋の灯りに照らされた町並みも日常の風景だった。
けれどその夜は違った。
東京大空襲、当夜。
B-29による焼夷弾爆撃。熱は灰を肌を焼くほどでも、灯る眩しさに目を潰されそうで。
ほんの少し前まで、玉の井には、花街の情緒があった筈なのに。
積み上げたものって、こうも簡単に失われていくものなのか?
いやだ、死にたくねえ。
逃げろ、逃げなきゃ。
ちくしょう、なんでこんなことに。
薄ぼやけた淡い花街の艶やかさを飛来する爆撃が塗り替えていく。
走り抜ける途中、多分誰かが死んだ。だとしても気に留める余裕などなく、足を止めたとして何かできる訳でもない。
鼓膜をぶち破りそうな轟音に、あまりにも鮮烈すぎる炎に、弥太郎はただ逃げ惑うしかできなかった。
「……おう、花」
「あ、弥太郎……」
そうして命からがら朝を迎える。
力なく瓦礫に腰を下ろしたまま、顔馴染みの少女を見つけて、投げやりに声をかけた。
空襲の中、お互いどうにか生き残った。けれど悦ぶ気持ちにはなれない。
「なぁーんにも、なくなっちまったなぁ」
焼死体がそこら中に転がり、べっとりと脂臭いにおいが漂っている。
生き残った人々だって誰も彼も煤に汚れて、髪の毛が焼けてしまったり、火傷を負い立ち上がれない人の姿がそこかしこに。
多くの男達に愛された迷宮の私娼街も、ただの一夜で焼け野原。四百を超える風俗店は焼夷弾爆撃により全て焼失。その中には、弥太郎らが働いていた料亭も含まれていた。
その事実に、思ったより落胆している。
居場所をなくして私娼窟に流れ着いた身。多少いかがわしくとも、玉の井での暮らしは案外と気に入っていた。
生まれた農村では搾取され続けてきた弥太郎は、この私娼窟で初めて人間らしい生活を知った。であれば思い入れは故郷よりも余程だ。
「うん。住む場所も、皆のお店も、全部」
「ったく、ようやく花街にも慣れてきたってのによ」
「ほんと……うまく、いかないね」
それは多分、花も同じなのだろう。
少女に滲む色は助かった命を喜ぶとは程遠く、迷子を思わせる頼りなさだった。
花は、そっと弥太郎の隣に腰を下ろした。
肩を寄せ合う、には少しばかり距離のある。
二人並んで座っても、互いを慰めるようには寄り添えない。まだ、ちゃんと向かい合えていないから。そこまでは踏み込めない臆病な彼と彼女は、ぼんやりと焼けた街並みを眺める。
「弥太郎。これから、どうなるのかな?」
「……そんなん、わっかんねえよ」
この一晩でいったい何人死んだのか。玉の井が元の風情を取り戻すまでどのくらいかかるだろう。
分からない。そも今は考えたくもない。
とりあえず助かった命も、明日には消えてなくなるのかもしれないのだ。
余計なコトに気を回す余裕など欠片もなかった。
「弥太郎さん。ああ、花も」
「藤吉さん……そっちも無事だったみたいで」
「なんとかね」
しばらくすると、何をするでもなく佇む二人のところへ、藤吉が顔を見せた。
空爆の混乱に巻き込まれ煤で汚れているが、目立った怪我はない。どうやら彼も難を逃れたらしい。幸か不幸かは分からない。このご時世だ、死んでしまった方が楽かもしれないと考えないではなかった。
「他の、人たちは……?」
料亭の女給や従業員たちは無事だったのか、と花は問う。
けれど藤吉は目を伏せて、ただ首を横に振るだけ。
それでも十分すぎるほど現状は伝わった。きっと、焼け焦げた死体の中には、弥太郎らと付き合いのあった者もいる。
涙は零れない。弥太郎にしろ花にしろ、感情が追い付かず、近しい人達の死を悲しんでやることさえできなかった。
「取り敢えず、移動しようか」
「え、あー……どこへ?」
「今日の寝床を探しに。日が暮れる前に落ち着けるところを見つけよう」
「……ああ、そっか」
藤吉が花をちらりと見る。その所作に、弥太郎は言わんとすることを一拍子遅れて理解する。
彼らが住むボロアパートも焼けてしまった。戦争の行方どうこうの前に、まず今日寝る場所を確保せねばならない。
といっても辺り一面焼けてしまって、屋根のある建物など見当たらない。夜を明かそうにも道端で雑魚寝がせいぜいだろう。
それでも、年頃の少女がいるのだから、少しでも安全な寝床を探さないと。そういう当然の気遣いができない程、弥太郎は憔悴していた。
「こんな状況なのに、藤吉さんは落ち着いてるなぁ……。俺ぁそこまで頭が回らなかった」
「そこは、君達よりも歳をとってるからね。あまり取り乱してもいられないんだ」
藤吉は小さく笑みを落とし、けれど漏れた吐息には隠し切れない疲れがある。
この先輩も、決し余裕がある訳ではないのだ。だが身動きの取れないガキどもの為に、精一杯『大人をやってくれている』だけ。
そこに気付けば、頼りに思いつつも申し訳なく。弥太郎は重い体に鞭を打って、無理矢理に立ち上がった。
「うっし。いつまでも項垂れてても仕方ねえか!」
両の頬を自分で叩き、気合を入れ直す。
空襲で全てを失ったが、考えてみれば東京へ出てきた時も何も持っちゃいなかった。
だったら状況は然程変わってはおらず、それどころか親しい顔ができた分、幾らかマシさえある。
「弥太郎……?」
「おう、花。行こうぜ。なぁに、ちょっと理不尽に見舞われただけだ。こんなもん、俺たちゃ慣れっこじゃねえか」
いつだって理不尽に虐げられ、だけど必死に生きてきた。
この程度は苦難にもならないと、弥太郎はあからさまな強がりを口にする
「……あ、はは。弥太郎、なに言ってんの」
そういう馬鹿な男を、多少引き攣りながらではあるが、花は口の端を吊り上げた。
頑張ってどうにか作った笑顔だった。
お互いに無理はしている。だけどそれには気付かないふりをして、二人はぎこちなく笑い合った。
東京大空襲、当夜。
弥太郎が穏やかな日々を過ごした迷宮の私娼街は、一夜のうちに焼失した。
しかし迎えた朝。
希望なんざ欠片も見えやしないが、それでも二人は笑っていた。
◆
「弥太郎、ただいまー」
「おう、お帰り」
「今日はね、結構食べ物手に入ったよ」
「おっし、でかした」
東京大空襲の後、弥太郎は花や藤吉と暮らすようになった。
提案したのは、確か花だったか。
知人友人の類が全員死んでしまった寂しさとか、戦況の悪化と共に困窮していく日本で生きていくために三人で協力していこうとか、そんな理由だったと思う。
「あれ、藤吉さんは?」
「ああ、なんか使えそうな資材探しに行ったよ。俺ぁ、こいつだ」
「おぉ、なんとなく家っぽくなってる。弥太郎、頑張ったね」
暮らすようになった、と言っても道端で寝起きする身分。まともな生活とは言い難い。
そんな中、それでもどうにかしようと、廃材を利用してテントみたいなものを作った。
お世辞にも出来がいいとは言えないが、雨露をしのげれば上等。今迄が今迄だけに、花も結構喜んでくれた。
「そんじゃま、藤吉さんが戻ったら飯にするか」
「うん。こっちの戦利品はね、缶詰でしょ、白菜でしょ」
「おお、まじで結構ある」
「ふふん、褒めてもいいよ? あと、調理の方はお願いします」
「相変わらず、料理全然ダメなんすね花さん」
「……そこは言わないで」
一緒に暮らしてみて分かったのだが、花という少女は案外不器用である。おかげで飯作りの担当は、大抵が藤吉と弥太郎だ。
その分、他で力になろうとしてくれているから特に不満はない。共同生活なのだから足りないところを補うのが当然だろう。
貧しいながらに楽しい暮らし、とは言わない。
日本中が空襲にさらされているのだ。いつ死ぬとも分からない。不安や恐怖は当然ある。
それでも、三人の奇妙な共同生活は長らく続いた。
そして、程なくして戦争は、大日本帝国の敗戦により終結を迎える。
その後は連合国軍による占領政策が敷かれ、今後周辺諸国への脅威とならないよう、日本の非軍事化及び民主化が推し進められていく。
なにも難しい話じゃない。「てめえらの国はクソだ。二度と周りに迷惑かけないよう、ずっと這いつくばってろ」とのお達しである。
正しい正しくないは論点ではない。敗戦するというのは、そういうことだ。
もっとも、国民には然程関係ない。
住むところが焼けて、物資も無くて。今日明日の生活もままならないのだから、政治的などうこうなんて、結局どうでもいい話。
今後の生活をどうするか、目下の悩みはその程度。
そこは命からがら生き延びた弥太郎らも同じだった。
「弥太郎くん、こんにちは」
「あ……先輩、お久しぶりっす」
終戦直後のこと、玉の井で世話になった先輩が訪ねてきた。
こんな状況でも女言葉で喋るのは変わらないんだな。なんて少し面白い気分になったのは内緒だ。
「ねえ弥太郎くん、これからどうするか決めてる?」
「どうするって……」
「いつまでも、今のままって訳にも行かないでしょう」
どうやら貧しい生活をしている弥太郎らを心配してきてくれたらしい。
料亭で働いていた頃と同じ面倒見の良さが、ついこの間のことなのに、懐かしくも感じる。
「実は私ね、向島に店を構えたの」
「店ですか?」
「ええ。ほら、玉の井が空襲で焼けたでしょう? その時に、いくつかの業者が向島に移ってね。復興しようと、皆で頑張ってるのよ」
「そうなん、すか」
「お店の名前は『桜庭ミルクホール』……桜の庭って響き、綺麗じゃない?」
そう言いながら笑い、だけどどこか憂いを残した不思議な表情。
その曖昧さに隠れた意図は、弥太郎には汲み取れない。
「で、どうかしら。弥太郎くんも、一緒に来ない? もちろん花姐さんたちも一緒に。私のお店で働いてくれると嬉しいわ」
ただ先輩が、まったくの善意から弥太郎らを求めてくれることだけはちゃんと察せた。
察せたから、ありがたいと思いつつもきっぱりと言い切る
「すみません。俺ら、池袋の方に移るつもりなんです」
誘ってくれたのは素直に嬉しい。
だが少し早く、三人は今後について決めてしまっていた。
だから先輩についていくことは出来なかった。
「あら、そうなの?」
「ええ。なんでも、藤吉さんの地元らしくて。そっちで頑張ってみようかと。だからせっかくの誘いなんですが、断らせていただきやす」
「そう……残念ね」
誘いを断れば、先輩は少しだけ寂しそうな顔を見せた。
それが嬉しい。玉の井はなくなってしまったが、焼け残ったものだってちゃんとあると思わせてくれた。
「池袋、人が集まってるって聞いてるわ」
「ええ。そこで、まあ。いかがわしい商売でもしようかと。玉の井でいろいろ学べたことですし」
「別に引け目を感じなくてもいいわよ。私もミルクホールっていうのは名目で、実態はほとんど娼館だし」
「ありゃ、先輩も?」
「そりゃあね。花街に浸かり切っちゃったもの。いまさら他のお仕事なんてできないわ」
和気あいあいと「性風俗関連で頑張ります」と伝え合う。
所詮は花街の住人。傍から見れば真っ当でない間違いなく。
「花街って色んなものを受け入れるのよ。だから、私達みたいな半端者には心地いいのよね」
だけど、それも悪くないと先輩は微笑む。
弥太郎も同じ気持ちだ。下品だけど活気のある花街を、彼はいつの間にか好きになっていた。
「ですね、本当に」
「ふふ。お互い、場所は違っても、頑張りましょうね」
「……はい。ありがとう、ございやす」
なのに返答が遅れたのは、やはり引け目があったから。
性風俗業に対してではない。弥太郎は、今でも思っていた。『虐げられるなんてごめんだ。搾取してでも、いい暮らしがしたい』。そういう内心が、一瞬の躊躇いとなって出てしまった。
「ねえ、弥太郎くん。花街には時折、不思議な客が訪れるものよ」
そんな卑屈な考えに、きっと先輩は気付いていた。
「金も色も男も女も、全部受け入れてしまう街だから。時々、変なものまで紛れ込んでしまうの」
「せん、ぱい……?」
「もしかしたら私も、いずれ奇妙な“お客さん”に出会うのかもしれない。そうして、胸に抱えたものを、曝け出す日が来たり、ね」
であれば彼が語るのは、弥太郎を慰める為のものだ。
おどけて、茶化すように。なのに目はまっすぐに。
「だからね、きっと貴方もいつか出会うわ。心を解きほぐす、不思議で温かな誰かに」
その言葉の意味を、弥太郎は理解し切れていない。
だけど込められた優しさだけはしっかり受け取った。
こうして戦後ほどなくして、弥太郎らは池袋へ移ることとなる。
以後、この女言葉で喋る奇妙な先輩とは、二度と会うことはなかった。
◆
こうして弥太郎らは池袋に移った。
より正確に言えば、藤吉に二人が付いていった形だ。
藤吉は戦時中、いずれは池袋で娼婦の斡旋を生業にするつもりだと語っていた。弥太郎も早い段階で「その時は手伝ってほしい」と打診を受けていたのだ。
もしも、彼に誘われていなければ、弥太郎は先輩について向島へ行っただろう。
そうすれば、弥太郎も花も『桜庭ミルクホール』で働いていたかもしれない。
だが実際はそうならず、今は藤吉と一緒に仕事に追われる毎日。
内容としては、まあ褒められたものではない。
彼らの仕事とは、売春婦の斡旋。表立って動くのは藤吉の為、弥太郎らはその補佐といった具合である。
昭和二十年、冬。
戦後まもない池袋は、掘っ立て小屋やらバラックやら、果てはゴザを引いただけの店が所狭しと並んでいた。
後にヤミ市と呼ばれる、非合法の商業地域。
池袋には、体裁はともかく、色々な店がある。
衣服に生活用品など、アメリカ軍からの横流し品なども多い。
何より嬉しいのが、食べ物が売られている点だ。配給など雀の涙、敗戦から困窮し、食うにも困る市民は食料を求めて池袋へ集まった。
人が集まりゃ金も集まる。
だったら懐具合が暖かいヤツも出てくる訳で、そういう男に一回いくらで娼婦を宛がって金をせしめるのが弥太郎たちの仕事だ。
肝心の娼婦も大抵は食うに困っている。安全に売春できるならと、乗っかってくれる女性も多かった。
抱く男も、抱かれる女も、仲介する弥太郎たちも皆満足。まったくもって素晴らしいお仕事である。
多少の品性の欠如は、「戦後間もない」の一言で片付く。
衣食足りて礼節を知るなら、食うにも着るにも困っていれば礼を失して構わないということ。
もともと弥太郎は世の理不尽に苛まれ、搾取する側に回りたいという願望を持っていた。
他人を利用して金を稼ぐ現状に罪悪感はまるでなく、むしろ快いとさえ感じていた。
「藤吉さん、とりあえずこっち片付いたぜ……っと、お客さんでしたか、申し訳ない」
一仕事終えて居間へ報告に行くと、藤吉のほかにもう一人いる。
いつものように軽い調子で声をかけたが、どうやらお客だったようだ。砕けた態度を改めて、すぐさま頭を下げて挨拶をする。
「どうも、中根さん」
「弥太郎くんか」
弥太郎より歳は幾らか上か。
眼鏡をかけ、ピシッとスーツを着込んだ、神経質そうな顔つきの青年だ。
戦後の日本で身なりをしっかり整えられるというのは、それだけで懐具合の暖かさを示している。
この彼は中根といい、池袋一帯で活動している金貸しだ。戦争末期から戦後にかけて、貸金業で一山当てたいわゆる成金というヤツである。
「仕事は順調のようだ」
「へ、へへ。おかげさまで」
「結構。これからも精を出してくれれば嬉しい」
事業を始めるにはどうしたって初期費用がかかる。
今の娼婦斡旋を手掛けるにあたって、初期資金を用立ててくれたのが中根だ。
そういう意味では足を向けて寝られず、下手に出てしまうのは仕方ないことだろう。
「ご苦労さま。それじゃあ、先に花と一緒に昼食にでも行っておいで」
「あ、はい。いいですかい?」
「中根さんとまだ話があってね。僕のことは気にしないでいいよ」
「さいですか。へへ、そいじゃ失礼しやす」
藤吉の助け舟に乗って、そそくさと部屋を出る。
中根は金勘定には厳しいし、話し方も淡々としていてとっつきにくいが、決して悪い人間ではない。いや、金貸しの時点で悪人という意見もあるが。少なくとも嫌なヤツではない。
弥太郎としても苦手な訳ではないのだが、金を貸し付けてくれた相手だからか、どうにも接すると緊張してしまう。
「いや、貸し付けて“くれた”はおかしいか」
向こうも商売、こちらだってちゃんと利子をつけて返済している。気に病む点はどこにもなく、先程の緊張も忘れ思考はすぐさま今日の昼食へと向けられる。
弥太郎にとって中根という人物はその程度。
”少しとっつきにくいが嫌なヤツではない、仕事上の付き合いがある男性”でしかなかった。
◆
「弥太郎、がっつきすぎー」
「しゃあねえだろ、腹減ってんだから」
屋台の前に備え付けられた椅子に腰を下ろし、花と並んでの昼食。
がつがつと食べ物を口に運ぶ様は大層下品だが、もうすっかり見慣れ切っているので、花も適当に茶化すだけだった。
戦後すぐは食料が圧倒的に足りなかった。
しかしヤミ市に行けば、値段を気にしなければではあるが、何かしら食べ物にはありつけた。
その中でも弥太郎が頻繁に食べたのは『ごってりシチュー』である。
これはヤミ市でも人気のメニューで、出す屋台に行列ができるほどだった。
といっても、素晴らしく美味しいという訳ではない。単純に、値段が安かったのだ。
ごってりシチューは『残飯シチュー』とも呼ばれ、譲ってもらった進駐軍の残飯をドラム缶にぶちまけ、水で薄めて原型がなくなるまで煮込んだものである。
元が残飯だけに多少匂うが、お手頃価格で、脂分が濃く腹に溜まる。決して裕福ではない弥太郎たちにとって、ごってりシチューは有難い食べ物だった。
「んがっ!?」
「大丈夫?」
「おう。あー、今度はなんだこりゃ。……うげ、コンドームじゃねえか」
ただこのシチューは、捨てられたものの再利用の為、ゴミが入っていることもある。
包装紙やらタバコの箱はまだマシ。時には使用済みコンドームが入っていることさえあった。
弥太郎は「当たり」を引いてしまったらしい。だが、それでシチューを全部捨てるのは勿体ない。コンドームだけを道に放り捨て、問題なくとはいかないが、食事を続ける。
「あはは、今日は当たりだね」
「くっそ。ぜってぇ、こんな境遇抜け出してやる。しこたま金稼いで、毎日寿司を食ってやるよチクショウめ」
敗戦による困窮は、より一層、弥太郎の考えを頑なにした。
花街には時折、不思議な客が訪れる。
いつだったか先輩のくれた言葉は、未だ実感できず。世の理不尽への反骨だけが弥太郎を支えていた。
「取り敢えず腹には溜まったし、花も食い終わったんなら、さっさと行こうぜ」
「えー、もうちょっと休もうよ」
「なに言ってんだ。時は金なり。人様が休んでる時に必死こいてこそ、金を稼げるってもんさ」
「お金、かぁ……」
コンドームシチューのせいで苛立つ弥太郎の言に、何か引っかかりを覚えたのか。
困ったような、呆れたような、どこか寂寞を感じさせる笑みを浮かべた。
「弥太郎は、お金があると幸せ?」
たぶん、花は大切な何かを問おうとしたのだと思う。
けれど当時の弥太郎にはその意は汲み取れず、当然のように本音で返す。
「当たり前だろが。金があったら何でもできる」
“金で幸せは買えねえが、金がありゃ大抵の不幸は避けて通れるからな。あるに越したこたぁない”
蓼虫の弥太ならばそう語った。けれど未熟な弥太郎ではそこまで達観し切れない。
世の理不尽に頭を押さえつけられ、這いつくばって生きてきた彼には、「貧しくても幸せ」なんて考え方は無価値なものにしか思えなかった。
「だがよ、ぼんやり生きてりゃ、結局奪われる側になっちまう。だから俺は決めたんだ。弱者を踏み躙って、搾取する側に回って生きていくんだってな」
搾取されても反抗せずに働き続け、母の今際に粥の一杯も作ってやれず。そんな暮らしはもうごめんだ。
どれだけ言葉を弄したとて、結論はいつもそこに突き当たる。
弥太郎は強く奥歯を噛み締めた。そうしなければ、胸の内にあるドロドロとしたものが零れだしてしまいそうだった。
「あはは、弥太郎って普通にあれな性格だよねー」
「おいおい、ひでえ言い草だな」
「じゃあ、低俗? それともゲス?」
「もうただの悪口じゃねえか」
それを花はあっけらかんと笑い飛ばす。
こういうところ、ありがたいと思う。ふとしたはずみで漏らしてしまった、本音の近くに置いてあった感情だ。決して褒められたものではなく、だから笑われたほうが気楽だった。
「金が欲しいってのは、別に普通のこったろうが。お前だっていい暮らししたいだろ?」
ただ油断していた。
幾分か気が楽になれば、調子に乗って軽口だって出てくる。けれど心の琴線というヤツはどこに在るか分からないもので。
「あはは、よく分かんないや」
お前もいい暮らしがしたいだろう。
その一言に、ほんの少し、花は困ったような顔をした。
そうして短い時間だけ俯き、顔を上げた時にはいつもの朗らかな笑顔が戻る。
けれど会話は途切れ、ヤミ市の喧騒だけが二人の間には流れていた。
◆
つまり弥太郎と花の関係は、普通の友人同士でしかなかった。
それは一緒に暮らすようになってからも変わらない。
相性は良く、間違いなく親しいが、心の奥にまでは踏み込めない。そういう距離感を維持し続けてきた。
藤吉の言を借りれば「向き合えていない」のだろう。
分かっていながらも取り立てて行動に出なかったのは、現状が心地よいから。
あの娘は弥太郎を批判しない。
弱者を踏み付けて生きていくと言っても、性風俗関連の仕事で暴利をむさぼろうと笑って済ませる。
戦後の困窮した生活の中、大抵を受け入れる花の態度は大層やり易くて、弥太郎はそれに甘え切っていた。
「……なぁんか、眠れねぇな」
けれど夜も深くなり、尚も眠れないのは、昼間の出来事のせいだ。
あの時の花の横顔には、ともすれば見過ごしてしまいそうになるくらい些細な憂いが滲んでいた。
たぶん、失言をした。
そこは理解できるのだが、いったい何が花を傷付けてしまったのか。どれだけ考えても分からず、眠れないままに弥太郎は一人布団の中で深い溜息を吐いた。
「あぁ、やめだやめだ」
しばらくしても眠気は一向に訪れず、諦めて寝床から抜け出る。
確か、この前に買った三杯醸造の安酒が残っていた筈。多少酒を飲んで無理矢理にでも寝ちまおう。
そう思って居間へ向かうと、そこには先客がいた。
「あれ、弥太郎?」
薄暗い中で灯りもつけず、なにをするでもなく。
花は居間でぼんやりと天井を見詰めている。深夜ということを差し引いても、普段の無邪気さとは程遠い。活力というものを一切感じさせない、なんとも頼りない居住まいだった。
「どうしたの、こんな夜中に」
「そりゃこっちのセリフだよ。なにやってんだ、灯りもつけないで」
「あはは、忘れてたや」
あまりにも拙い言い訳。上滑りするような会話を交わしながら、弥太郎は許可も取らず腰を下ろした。
花はそれを拒否はしない。かと言って歓迎している訳でもない。どうにもぎこちない空気だ。
とはいえ、この気まずい沈黙はおそらく昼間の失言が理由。
であれば、こちらから動かなけりゃ筋が通らない。一拍子置いた後、弥太郎はおずおずと話を切り出した。
「……なんか、よ。俺ぁまずいことを言ったか?」
「え?」
「お前がそうやって暗い顔してんのは、多分俺のせいなんだろ。昼間、なんか癪に障ること言っちまったのかなって」
花は少し驚いた顔をした。
色々なことを“なあなあ”で済ませてきた男だけに、弥太郎の方からぶっこんで来るとは思っていなかったのだろう。
だから戸惑い、押し黙り。
けれど夜の静けさに耐えかねたのか。目を合わせず、どこか投げやりな調子で彼女は口を開く。
「私ね、お父さんが嫌いじゃなかったんだ」
問いの返しとしては少しズレている。
だけど指摘しなかった。出来なかった、が正しいかもしれない。
花の横顔は今迄見たこともないくらいに透明で、余計な横槍を入れるのは躊躇われた。
「前に、少し話したよね。私はお妾さんの子供で、家では居場所がなかったって」
「あぁ……」
「お父さんは、なんていうのかな。仕事は出来たけど、だらしない人だったの。その場その場で自分に都合よく振る舞って、楽な方に流される人。そんなだから、“自分は大丈夫だろ”とか油断して、外に子供を作っちゃう。……でもね、やっぱり父親だからかな、嫌いにはなれなかった」
夜に溶けるような微笑を滲ませ、遠い過去を語る。
傍からすれば決して美しい思い出ではない。けれど花の横顔に憂いは微かもなく、ただただ遠い目をしている。
「お父さんの奥さんも、その子供も。多少の引っ掛かりはあるけれど、恨んではいないの。放り出されても、“そりゃあそうだよね”くらい。納得はしてる」
「優しいつーか、なんつーか。お前さんは、人が好すぎるよ」
「ううん、そんなことない。だって、最初から分かってたもの。お父さんはだらしないままで、どんなに頑張ってもあの家は私を受け入れなかった。変わらないなら、あれこれ考えても無駄でしょ?」
花という少女への周囲の評価は、だいたいが似たようなものだ。
“いつも笑っている”とか、“嘘を吐かず裏表がない”とか、“深く考えないタチ”だとか。
総じて年齢相応の、人見知りしない明るい普通の女の子、といったところだ。
だけど本人の自己評価は全く違ったのかもしれない。
いつも笑うのも、嘘を吐かないのも、深く考えないのも全て根本は同じ。
妾の子として生まれ、虐げられて育った彼女は、たぶん無意識に思い続けていたのだろう。
“どれだけ頑張っても、周囲は変わらない。自身の努力は初めから報われないと決められている”
ならば恵まれない環境は嘆くものではなかった。
「私は私の境遇を理不尽だと思わない。……“落ち着くべきところに落ち着いた”、ただそれだけのこと」
当たり前のこと当たり前に起こったとて、それを理不尽とは呼ばない。
父の妻に追い出されても、その子供に嘲笑われても“所詮はそういうもの”。きっとどれだけ従順に振る舞っても結末は変わらない。
結局のところ花という少女は、周囲に期待していなかった。
期待していないのだから、失望なんてする筈がなく。あらゆる悪意を納得して受け入れてしまえる。
つまり彼女は人が好いのではなく。
自身の努力の価値も、他者の善性も、端から何一つ信じていなかったのだ。
「ああ、そっか。……すまねえ、俺は知らないうちに、お前を傷つけたんだな」
「傷付いた訳じゃないよ。ただ、手段を択ばなければ現状を変えられると信じている弥太郎が、私には眩しかったの」
金が欲しいのも、いい暮らしがしたいのも普通のことだと弥太郎は言った。
“理不尽な目に合った。だから悪いことしてでも這い上がってやる”と。
けれど花にとっては、望んでも報われない現状こそが普通だった。
“理不尽な目に合った。でもそれが当たり前で、なにをしたって幸せには届かない”と。
そういう彼女には、悪辣な手段でのし上がろうとする姿すら眩しすぎて、目を背けずにはいられなかったのだろう。
「はは。つまり、あれだ。やっぱり、向き合えていなかったんだなぁ俺らは」
初めて花の本音が聞けて、知らず笑みは零れる。
搾取される側に甘んじた過去が惨めで、反骨心だけを支えに生きてきた。そんな無様な男を眩しく思う誰かがいるなんて、思いもしなかった。
「そんな大層な男じゃねえよ。俺ぁ、もともと田舎の農村の生まれでな。母ちゃんの末期に粥の一杯も作ってやれなくて、そんな自分が嫌で。ひねて拗ねて、ここまでやってきただけだ」
だが、それを知れた今なら、素直に弱音だって吐ける。
弥太郎は花に、今迄聞かせたことのなかった昔話を曝け出した。
農村で生まれ、戦時中は役人に搾取され続けてきたこと。
貧しくて、食うものもない生活。母が死ぬ間際でさえ、お粥の一杯も用意してやれなかったこと。
それが悔しくて、今度は搾取する側に回ってやろうと決めたこと。
何一つ、包み隠さなかった。
「俺ぁ、俺の考えを改められねえ。だってそうだろ? 金さえありゃこんな惨めな目に合わなくて済んだ。理不尽に搾取されるなんてまっぴらごめんだ。弱者を踏み付けてでも、いい暮らしがしたいんだ」
「そっ、かぁ」
別に報われると思っている訳ではない。
ただ反骨が前に出過ぎて、他の生き方ができなかっただけ。弥太郎のそれは強さの結果ではなく、弱者の癇癪だ。
そうと知れたからか、花は笑った。
馬鹿にしたのではない。もっと柔らかく、穏やかな笑い方だった。
「私ね、弥太郎のこと、強い人だとも思ってた。誰かを犠牲にしてでもって、言えるくらいに。それがちょっとだけ羨ましかった」
「そうかい。俺は、花がすげえ奴だって思ってたよ。理不尽な目にあっても無邪気に笑えるってのは、俺にゃあできなかったしな」
「ふふっ。なんか、私達さ。一緒に暮らしてるのに、知らないことの方が多いね」
「まったくだ」
玉の井でも、池袋でも、これだけ一緒にいたくせして大切な部分には触れようとしなかった。
お互いに踏み込めなかったのは、相手が自分とは違うものを持っているように見えたから。
けれど蓋を開けてみればこんな程度のオチがつく。
見当外れの過大評価をして、無駄にぐるぐる悩み込んで。なんとも馬鹿らしい話ではないか。
「だけど、うん。なんか肩の力抜けたや」
「そうかぁ? 俺は気が抜けたよ」
だけどこれからは、もう少し向き合えるように思う。
なにせ戦争は終わったのだ。生活は貧しいが、時間だけはたっぷりある。
“今迄近づけなかった分、ちょっとは歩み寄ってみようか”
たぶん二人は同じことを考えて、また一頻り笑った。
◆
そうして一夜明け、いつものように三人で朝食をとる。
といってもまともに箸が動いているのは藤吉だけ。弥太郎と花は今一つ食が進まんでいなかった。
「大丈夫かい、二人とも。随分眠そうだけど」
興が乗って夜通し語り明かしたのが失敗だった。
昨夜、これまでの分を取り返すように二人はお喋りを続けた。が、気が付いた時には空は白んでおり、結局ほとんど眠ることは出来なかった。
その結果が分銅でも吊っているのではないか、というくらいに重い目蓋。花の方もうつらうつらと舟をこいでおり、端的に言うと物凄く眠かった。
「あー、いや。昨日は寝れなくてよ」
「へぇ?」
藤吉はどこか悪戯っぽく口角を吊り上げる。
まあ目端の利く彼のこと、そもそも居間にずっといたのだから、多分彼には色々気付かれているのだろう。
だとしても藪蛇はごめんと、弥太郎は何事もなかったように振る舞う。
その意を酌んでくれたのか、それ以上は藤吉も突っ込んでは来なかった。
「まあ、君達が仲良くなってくれたようで嬉しいよ」
「え、あはは。いやー、なんといいますか」
含みのある物言いに花の目も少しは覚めたようだ。
頬をほんのりと朱に染め、曖昧な笑みを浮かべて、こちらに目配せをしてくる。
「とりあえず、飯食っちまおうぜ今日も元気に働かにゃ」
「ふふ、そうだね」
照れ隠しとばかりに弥太郎は口の中へ飯を掻き込む。
勿論藤吉にも花にも見透かされていて、だから今朝の食卓は妙に和やか。三人は再び食事を続ける。
「あれ?」
けれど食べ始めようとした花が、ぽとりと箸を落とした。
「なんだ、寝ぼけてんのか?」
「あはは、そうかも」
眠気のせいで力が入らなかったようだ。花は恥ずかしそうに、食卓に落ちた箸をもう一度手に取ろうとする。
「あ、れ? あれ?」
なのに、何度やっても掴めない。
違う。持ち上げても、すぐに手が振るえて、落としてしまうのだ。
「お、おい。花?」
「な、なんで……?」
花は箸を掴み、落とし、それを何度も繰り返す。
自分でも何が起こっているのか理解できないのか、目には涙が溜まり、今にも泣きだしそうだ。
けれど弥太郎には何も言えず、ただ少女の異様な事態を見詰めるしかできなかった。
つまり、少しばかり向き合うのが遅かったのだろう。
こうして彼らは、転げ落ちる。
もしもほんの少しタイミングがずれていたら、弥太郎と花は鳩の街にある『桜庭ミルクホール』で働いていたかも、というお話。
最近忙しくて投稿間隔あいてしまい申し訳ありません。




