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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ


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【花とコガネムシ】・1




 中根なかねという男がいた。

「かね」が入っている苗字だけに、腐るほど金を持ったヤツ。戦後に貸金業で一山当てた、いわゆる成金である。

 性格悪いという訳じゃないが、あんまお近付きにはなりたくない人物だ。

 なにせ中根は、“花”をさらって行ったのだから。好意的な感情は抱けなかった。


 勿論、そうと責めたことはない。

 売り払ったのはこちら側。中根の旦那は正当な交渉を経て、花という少女を買っていっただけ。

 であれば、文句垂れるのはお門違いだろう。悪いのは人身売買に手を染めた蓼虫の女衒、そこは揺るがない。


 ただ、情けなくみっともなく、現実から目を逸らしてテメェを慰めるのならば。


 結局のところ、幸せになるというのは一種の才能なのだと思う。

 そして俺には……きっと彼女にも。

 二人して才能なんざ欠片もなかった。

 つまりは、そういう話だ。




 ◆

 



たま”は、戦前から東京の向島に存在した花街である。

 後に大私娼街となるこの場所を語るには、東京は浅草の『凌雲閣りょううんかく』について触れねばならない。

 浅草の凌雲閣は明治時代に造られた十二階建ての展望塔で、当時は日本で一番高い建物と持てはやされた。

 階数から俗に『浅草十二階』と親しまれたこの塔は、東京の新しい観光名所であり、同時に歓楽街としての浅草の顔でもあった。

 というのも、凌雲閣の下に広がる一帯は私娼窟となっており、当時は千軒もの銘酒屋(居酒屋を装って隠れて売春を行う店)を抱えていたのだ。


 しかし浅草十二階下は関東大震災によって大打撃を受け、銘酒屋はほぼ壊滅、撤退を余儀なくされた。

 とはいえ一度手に染めたお仕事を捨てられる筈もなく、ほとんどの性風俗業者は場所を移し営業を再開。

 彼等が逃げ出した先は大きく二つ。

 一つは、東京都江東区の亀戸天かめいどてん神社の裏手。

 そしてもう一つが向島の、玉の井の空き地だった。

 

 関東大震災以後、多くの銘酒屋の流入を契機に、玉の井は大私娼街へと発展していく。

 ただ道路整備の開始より早く各々が勝手に店を建てていったものだから、出来上がった街並みはお世辞にも綺麗とは言い難い。整然と区割りされていた今迄の遊郭とは違い、酷くごちゃごちゃとした路地を形成してしまった。

 もっとも、入り組んだ迷路のような景観が独特の個性を醸し出し、男達の心を捉えたのだから、なにが幸いするかは分からないものだ。

 酒に酔わせ色で惑わす、迷宮の私娼街。

 玉の井は乱雑ながらに情緒ある花街として、戦前も戦時中も大層賑わい、多くの人々に愛された。 


「ここが、俺の職場になるのかぁ……」


 そういう迷宮の街に迷い込んだ田舎者が一人。

 東京の冬は随分と寒い。

 耳鳴りがするくらいに冷え切った空気は、その分だけ澄んでいて、淡い夜の灯がよく映える。

 夜の灯、なんて気取った言い回しをしたが、つまりは“いかがわしいお店”のネオンである。

 故郷の農村では考えられないほど。花街の夜は眩し過ぎて、田舎者からすると目が潰れそうなくらいだ。


「やべえ、緊張してきた」


 昭和十七年(1942年)・冬。太平洋戦争の真っただ中のこと。

 母が亡くなり、搾取されるだけの自分に嫌気がさして、空襲で死んだってどうせ大した命じゃないと十八歳になった弥太郎は東京へ出てきた。

 働かなけりゃ飯は食えない。流れ着いたのは玉の井のストリップ劇場である。


 もっとも、当時は『ストリップ劇場』なんて呼び方はされていなかった。

 ストリップは戦後の大衆文化で、日本の劇場第一号は昭和二十二年。だが戦前もこの手の興行がなかった訳ではない。

『見世物小屋』では男女問わず娯楽として性を観覧できたし、芸妓や女給が宴会場などで煽情的な踊りを披露する『お座敷ストリップ』は人気だった。

 また女性器を使った『花電車』と呼ばれるパフォーマンスの歴史もかなり古い。


 弥太郎の仕事先は前述の『お座敷ストリップ』の変形だ。

 表向きは料亭、多くの女給が働いており、懐の温かい常連のお客様には“ちょっとしたサービス”がつく。

 言うまでもない、座敷でお高い料理を食べるお偉いさんには、女性が服を脱いで楽しませるのだ。

 勿論、基本的には本番は禁止。あくまでも、女性の艶姿を眺められる食事処に過ぎない。

 ただ不思議なことに、何故かよく分からないが、偶然お客様と女給が恋に落ちて性行為をしてしまう場合もなくはない。

 そういう、本音と建て前を使い分ける、“いかがわしいお店”である


 この手の店で働こうと考えたのは、別に玉の井そのものや、性風俗関連の仕事に思い入れがあった訳ではない。ただ戦時中一番賑やかで眩しかったのは、こういった色を生業とする場所だった。

 だから、まるで光へ吸い寄せられる蛾のように。ごく自然に弥太郎は花街で働くことを選んだ。


「ええい、足踏みしてても仕方ねぇ」


 とはいえ、東京が初めてなら農作業以外の仕事も初めて。

 気後れもしてしまうが、弱音の虫を踏み潰すように弥太郎は一歩を進む。といっても大手振って正面から入る訳ではなく、こそこそ裏口からだ。


「し、失礼しやすっ!」

「あら。今日から働いてくれるって人よね?」


 料亭の裏手に回り従業員用の通用口、狭く細っこい廊下を抜けた先の事務所。

 意を決して訪ねれば、迎えてくれたのは拍子抜けするくらい穏やかな口調だった。

 性風俗を生業とするお方々、応対は乱暴で当然と思っていた。しかしそこにいた従業員らしき人物はゆったりとした物腰で、逆に戸惑ってしまう。


「どうかしたのかしら?」

「あ、いえ、なんでもないです。きょ、今日からお世話になります! よろしくお願いしゃす!」

「ふふ、元気ねぇ。こちらこそよろしくね。さっそくだけど、ちょっと仕事内容を説明したらお店の中を回りましょうか」


 とりあえず、この従業員は良い人そうだ。

 ほっと胸を撫で下ろしつつも、態度は若干ぎこちない。

 なにせ穏やかなく口調でゆったりとした物腰のこのお人は、弥太郎よりも年上の男性だ。右足が不自由なのか固定具のようなものを付けた、しかも女言葉で喋るいい歳のおっさん。これまでの人生で初めて接する人間性に少なからず戸惑いはあった。


 勿論それを指摘するような真似はせず、丁寧に従順に腰も低く後ろをついていく。

 どうやらこちらの先輩が今後は弥太郎の指導役となるらしい。料亭の中を案内しながら、設備やら業務内容やら色々と説明してくれる。

 

 基本的には普通の料亭。

 水道電気の各設備に休憩所、もろもろ備品置き場。お客様が食事をする、それなりに広い座敷。女給がストリップする座敷を目にするのは、なんとなく、いけないものを覗くような変な気持ちになる。

 あと珍しいところでは、何故か大量の布団の予備を置いた部屋があるくらいか。

 働くと言っても弥太郎は料理人ではなく、様々な雑用役として雇われただけ。それでも業務は多岐に渡るようで、クワしか振ったことのない男に出来るものかと多少不安にもなる。


「大丈夫よ、こんな足の私でもできるんだから」

「足……あの、あーと」

「ちっちゃな頃、病気でね。別に気にしなくていいわよ。固定さえしてれば日常生活に不便はないから」


 胸中を目敏く察して、緊張をほぐすようにおどけてみせる。

 聞き辛いところは自分から軽い調子で教えてくれる。

会ったばかりだが、本当に気の回る先輩だ。初めてのことで硬くなっていたが、この彼のおかげで肩の力も抜けた。

 そうして付き従い料亭を巡り、最後に廊下を通り中庭へ。


「おお……」


 冬の寒さに草木も負けて、鮮やかとは言い難い。

 けれど玉石を敷き詰め、池に鯉の泳ぐ、いかにも“お金持ちが利用するお店”といった風情に感嘆の息を漏らしてしまう。

 クソがつくほど田舎の生まれ故郷では、こんなのは絶対に見られない。俺、すげえところにきたなぁ、なんて奇妙な高揚を覚えるほどだ。


「あれー、新人さん?」


 そういう地に足が付かない、ふわふわとした状態だったからか。

 或いは、冬の透明な空気のせい?

 幼さを残すその声は、やけにくっきりと聞こえた。


「へ?」


 驚いてそちらに目を向ければ、中庭に佇む人影がゆらり揺れ、声の主の姿にもう一度驚く。

 花街だ、衣服の露出度が多少高くても騒ぐようなことではない。

 しかし少女は、明らかに十八歳の弥太郎よりも年下で、背も小さく小柄。

 なにより、“いかがわしいお店”に出入りするような娘とは思えないくらい、純朴で無邪気な笑顔を浮かべていた。


「花さん、お疲れ様です」

「ええ、と。私の方が後から入ってきたんだから、そうかしこまられると……」

「いえ、女給さんはここの華ですから。相応の態度を取らないと」

「うー、固いなー」


 先輩からすれば随分年下、しかも後から入ったらしいのに、挨拶はきっちり丁寧に。

 それがちょっとだけ不満なのか“花”と呼ばれた少女は頬を膨らませていた。

 そんな何気ない仕草も弥太郎が抱く花街の女の印象とはかけ離れていて、やはり困惑してしまう。


「あっと、挨拶遅れました。私は“花。一応この料亭で女給をやらせてもらってます……実は半年前に入ったばっかりだけど」


 一瞬二瞬と間をおいて弥太郎の方へ向き直り、花は喜劇役者じみた大げさな身振り手振り。

 おどけた調子に咄嗟の反応ができず、しかし慌てて頭を下げる。


「こ、こちらこそ。弥太郎です、よろしくお願いします。……えーと、花姐さん?」

「いえいえ、普通に呼び捨てでいいですよー。そっちの方が年上っぽいし」


 と言われても、先輩がちゃんとした振る舞いをしているのに呼び捨ては中々に難度が高い。

 年若い女給の親しげな態度にも口角を引きつらせるのが精々で、弥太郎はどうすればいいのか分からず身を強張らせるばかり。


「そんなに緊張しなくても。これからよろしくね、弥太郎さん」


 我ながら、みっともない出会いだったと思う。

 田舎から出てきたばっか、初めての職場でがちがちに緊張して、うわずった声でまともな応対もできなかった。

 それでもこの年下の先輩。若過ぎる女給は、夜の女には似合わない、朗らかな笑みを向けてくれた。


 あの時過った感情は、もう思い出せないけれど。

 

 昭和十七年(1942年)・冬。

 まだ戦争が続いていた頃、彼が十八歳の時の話だ。

 母が死に、故郷を捨てて、流れ着いた玉の井の料亭。


 そこで弥太郎は花という少女に出会った。






 花に惑いて虫を食い『花とコガネムシ』






 玉の井は、吉原のような公娼が集まったいわゆる『遊郭』ではなく、モグリの売春宿が軒を連ねた私娼街。

 違法の花街ではあるが、けれど悪いことばかりでもない。

 例えば吉原などの遊郭は決まりが厳格で、娼婦の監視もかなり。

 しかし玉の井ではその辺りが緩く、一晩で何人もの男を相手にする『廻し』と呼ばれる営業もなかったので、小遣い稼ぎ程度の気持ちで風俗に携わる女性もいた。

 そういう“なあなあ”な土地でも、やはり色を扱う仕事というのは大層な儲けらしい。

 街全体がそこはかとなく立派。「田舎モンや貧乏人はご遠慮願います」と声高に主張していらっしゃるような気がする


「弥太郎。荷物、裏に運んどけ」

「うっす」 

「まだ仕事残ってんだからさっさとしろよ」 


 もっとも、弥太郎も料亭で働き始め、今では一応のこと玉の井の住人だ。

 朝から晩まで働くのは農村で慣れているつもりだったが、ここではまた違った気苦労がある。

 だいたいからして下っ端の新人。こき使うのが当然と、料亭の皆々様方は遠慮なく仕事を押し付けてくださる。まったく、嬉しくって涙が出るというものだ。


「それ終わったら玄関と中庭の掃除もな」

「ありゃ、中庭は先輩の担当じゃ」

「俺は今から外に出るからよ。お前がやっとけ」

「……了解です。いってらっさいやせー」


 まだ半年も経っていない。この扱いも仕方がないと頭では分かっていても、引き攣る頬の筋肉までは誤魔化せない。

 だからといって真っ向から反抗なんてできる筈もなく。先輩の無茶ぶりも笑顔で引き受け、去っていく背中に悪態をつく。


「だー、もう。重てぇなぁ、ちくしょう」

 

 職場の方々に色々と負担を強いられ、愚痴の一つも零れはするが、今は我慢と作業をこなす。

 当てもなく上京した学のない田舎者だ。ぽんぽんと職を変えられるほどに有能でないのは自分が一番よく分かっている。

 東京は世知辛く、水を飲むのにも金がかかる。そういう土地で無能が生きていくには、多少の苦労があろうと、しがみついてでも仕事を続けていかなければならない。

 場所が変わっても結局はこんなもの。弥太郎は疲労よりも悔しさに唇を噛んだ。


「あら、弥太郎くん。荷物、全部運んでくれたの? 助かるわぁ」

「あ、先輩」


 ただ嫌なことばかりでもない。

 仕事を押し付ける嫌なヤロウもいれば、気遣ってくれる良い人だっている。

 いきなり飛び込んだ業界だが、幸いにも後者のような先輩が指導役となったので、東京は農村に比べればまだ働きやすかった。


「でも、こっちに振ってくれてもいいのよ」

「いえ、俺が頼まれた仕事ですし」

「どうせ、あのバカに押し付けられたんでしょ? あんなのの言うこと気にしなくてもいいわ」

「は、はぁ」


 働かず他へ仕事を振る適当なヤツに、先輩はかなりご立腹だ。

 そこいら、まっとうな感性の御仁なのだが、この先輩自身も結構クセがある。

 なにせ女言葉で喋るが、彼は弥太郎より幾らか年上の男性。初対面の時は随分と面喰って、「はあ、やっぱこういうところにゃ色んな趣味の人がいんだなぁ」なんて思ったのは内緒の話だ。


「じゃあ、頑張ってくれたご褒美。仕事終わりにご飯奢ってあげる」

「へ、いいんですかい?」

「勿論。しっかり食べて、しっかり働いてもらわないとね」

「やった。ほんと、なにからなにまで。ありがとうございやす」

「あんまり気にしないで。代わりに、もし後輩が入ってきたら、同じようにしてくれたら嬉しいわ」

 

 もっとも口調を除けば優しく面倒見がよく、田舎から出てきたばかりの弥太郎は彼のおかげで随分と助かっている。

 何度も食事をご馳走してもらったし、料亭の仕事も教え方が丁寧。こういう人が指導役になったのは、本当に幸運だった。

 先輩の右足は、小さな頃の病気のせいで麻痺しているらしい。そのため歩くのが遅く、けれどその分先を予測して動くから、仕事ではそれほどまごつかない。

 そんな彼の教えを初めに受けられた為、弥太郎も同じように前もって準備する癖が付いた。おかげで量に辟易はしても、業務内容に戸惑うことは殆どなかった。




「いただきますっ」


 料亭近くの定食屋で遅めの夕食。

 若干値段は高めだが量は十分。濃い目の味付けが疲れた体に嬉しく、奢りとあれば美味さも“ひとしお”だ。

 しっかり働いた後、腹は当然減っている。

 せっかくご馳走してもらえるのだからと、弥太郎は遠慮なく飯をかきこむ。


「んー、うめぇ」

「ふふ。どう、何か困ってることはない?」

「んへ? いやいや、先輩に色々面倒見てもらってるんで」


 口いっぱいに頬張りながら、にへらと笑いつつの返答は、多少の世辞が混じるも大方は本音。実際、先輩には良くしてもらっている。

 こうやって新人の下っ端に飯を食わせてくれて、おまけにお悩み相談の真似事まで。まったく、よくよく出来た御人だと思う。

 そもそも東京の住居を手配してくれたのも彼だ。風呂のないトイレ共用のボロアパートだが、その分家賃がかなりお安い。なにからなにまで世話になり通し、足を向けて寝られないとはまさにこのことである。


「それならいいけれど。あまり、無理はしちゃダメよ?」

「無理なんて。今はしっかり稼いでおかないと」

「そうね。今後、どうなるか分からないし」


 すっと抜けるような笑みを見せた先輩は、一段声を低くしてそう言った。

 昭和十八年。日本は各地で敗退を繰り返し、戦況は悪化の一途を辿っていた。

『日本はまだ勝てる』『すすめ一億火の玉だ』『国民総動員で勝利を掴め』

ラヂオでは調子の良いことばかり言っているが、少なくなっていく店の品揃えに、破綻は容易に想像ができた。


 御国の為と、さんざん。さんざん俺らが作った作物を奪っていきやがったくせに。


 弥太郎の恨みは他国よりも、搾取し母の命を奪った日本の方へ。

 なにより、今際の際に粥の一杯も食べさせてやれなかった自身へと向けられる。

 

 だから、金が必要だ。


 困窮していく日本。それでもこうやって定食屋で飯を食えるのは、色を売りにする玉ノ井には多くの金が流れてくるから。

 そして弥太郎らが、少なくても給料を得ているからで。

 なら、もっと稼がなきゃ。

 働くだけじゃ足りない。悪銭だろうがなんだろうが構いやしない。今迄散々搾取されてきた。今度は、弱者を踏み躙ってでも、奪う側へと回ってやる。

 俺は、そうやって生きていくのだ。


「弥太郎くん、どうしたの?」

「いやぁ、先輩。なんでもないっすよ。うん、ここの定食、ほんとうまいですね」


 ぞわぞわと胸で蠢くなにかを、貼り付けた笑顔で隠す。

 目ざとい先輩のことだ、多分違和感くらいは察したろう。けれど「そうね」と頷くだけ。

 まるで上滑りするような食卓。それでも、食うメシはそこそこに美味かった。


 であれば、きっと他者を踏み躙って食べる毎日の食事だって、旨い筈だ。





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