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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ


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【カゲロウ慕情】・4




 完全変態はチョウやハチなどに見られる特性で、『卵→幼虫→サナギ→成虫』といった段階的な成長過程を指す。

 これに対しサナギを経ず、幼虫が直接成虫に変態することを不完全変態という。

 そして不完全変態の中でも特殊な、“前変態”或いは“半変態”と呼ばれる変態様式を持つのがカゲロウだ。

 この虫は、幼虫から成虫になる過程で、ごく短い一時期を『亜成虫』という形態で過ごすのである。


 カゲロウの幼虫は殆どが水生で、気官鰓きかんえらを用いてエラ呼吸を行う。成虫になると打って変わって、翅を使い空へと舞う。

 亜成虫はその間、ちょうど水中から空へ生活環境が移り変わる時期にあたる。

 翅は脆く、飛ぶ力もほぼなく、水辺の草や石などに留まるが精々。

 しかもすぐ後にはもう一度脱皮して成虫となるのだが、亜成虫の時に刺激を受けると、組織が壊れ脱皮できなくなってしまう。

 あまりに脆弱なこの形態は、しかし非常に重要でもある。

 一変する生活環境に適応する為、このワンクッションが必要となるのだ。


 水から空へ、幼虫から成虫へ。

 ……子供から大人へと変わる際に、そういう弱く脆い時期を経なければ、カゲロウは飛び立てない。


 亜成虫は、淡く儚い命が空を舞う、その為に必要な惑いの時期なのかもしれない。




 ◆




 昭和二十三年。


 蓼虫が丁稚を連れている、という話が流れたのは冬頃の話だ。

 上着にズボン、目深にかぶった帽子。線の細い子供は、弥太郎がどこへ行くにもちょこちょこと付いてくる。

 男かと思ったが、近くで見れば、痩せてはるがちゃんと少女の顔立ちをしていた。


「そのガキ、どこぞに売るつもりか?」

「俺はそのつもりなんだが、こいつ次第かね」


 性風俗業者に売るのかと問えば、飄々と、本人に任せると答える。

 戦後三年程度で“蓼虫の弥太”の名は知れ渡った。


 曰く、キワモノなご婦人お嬢様方を取り扱う、たいそう趣味の悪い女衒。

 死病持ちの女を成金相手に売り飛ばし、大金をせしめた。


 彼のやり様は悪辣。そういう男が「嫌だと言うなら娼婦にならなくてもいいですよ」などと甘い対応をする?

 驚かれたのは丁稚を連れていることより、それが女だったことより、弥太郎が少女を売り飛ばさず手元に置いている現状だった。


「おい、紗子行くぜ」

「いや、ちょっと待って。というか、少しは、手伝って、くれても」

「娼婦を嫌がって小間使いになったんだろうが。荷物持ちくらい笑顔でやりな」


 かと言って待遇は然程よくないらしい。

 ヤミ市で仕入れた酒瓶に食料品、量もそれなり持たされて、冬の寒い日でも紗子は額に汗を浮かべている。

 なんでも百円程度の借金でこき使われているとか。

 とはいえ、そうなった経緯もある程度は知られていたようで、自業自得かと擁護する者は殆どいなかった。

 そもそも、その日食うものにも困る敗戦国の住民に、他人を慮る余裕などありはしない。


「終わったら藤吉さんとこな。汚れた衣服と臭う布団とか。あっちは色々仕事が溜まってるから、まあ頑張りなさい」

「あんたら、ホントに私を、いいように使うなぁ!?」

「女衒に借金するってそういうこったろ?」 


 ただ“前例”を知る者などは、複雑な心情を抱いたり、何も知らない紗子を嘲ったりもした。


『何も知らず蓼虫について回って、かわいそうに』

『どうせ散々こき使われて、最後には性風俗業者に売られるのだろう』


 最初の女、“花”もそうだった。

 弥太郎をよく慕っていた死病持ちの少女は、“すぐ死ぬから処理が楽だぜ”と、どこぞの成金に売られた。

 だから紗子の末路も容易に想像が出来てしまう。


「しっかり働きな。その分、飯くらいは食わせてやるから」

「ほんと? なら、もうちょっと、頑張る……」

「うんうん、子供は素直な方がかわいいぜ」

「子供扱い、すんなよ」

「じゃあ女扱いってことで、明日からでも娼婦に」

「あんたの女扱いおかしくない!?」


 彼女は明らかに『食い物にされる側』の人間だ。

 戦後の荒廃した日本では別に珍しくもないが。それに気付きもせず弥太郎の後ろを歩く姿は、哀れでも滑稽でもあって、見ていて嫌な気持ちになる景色だった。




 * * *




 紗子の半生に特筆すべき点はない。

 可愛らしくはあったが飛び抜けた才能もなく、飢えも贅沢もしない一般的な家庭で育ち、両親は普通に愛してくれて。

 その全てを戦争で失くし独りになった。

 だから、特筆するようなことは何もない。

 戦後ならばどこにでも転がっている、ありきたりな不幸。

 一山いくらで買えるくらいにありふれた戦災孤児の一人でしかなかった。


 まだ子供だった紗子には頼る相手もおらず、見た目とは裏腹に負けん気も強かったから、盗みや物拾いで食い繋いで暮らしていた。

 まあそんな生活がいつまでも続く筈もなく。

 結局盗みに失敗し、蓼虫の女衒に目を付けられてしまった訳だが。


「疲れた……くっそ、こき使って」

「ほい、ご苦労さん。藤吉さんも褒めてたぜ、文句言いつつもちゃんと働くって」


 今日も今日とて弥太郎の下、様々な雑事を無理矢理にやらされ、弥太郎の自宅へ戻る頃には辺りも暗がりに沈んでいた。

 とりあえず屋根がある程度、壁にも隙間の多い建物が当時の彼のねぐらだ。 

 お世辞にも綺麗とは言い難い。しかし復興もまだまだの時代、雨露がしのげれば上等。腰を落ち着けて仕事ができるのだから、文句を言ったら罰が当たる。


『え、すごい。ちゃんと自分の家があるのか』

『物凄い低いところで褒められたぞ、おい』


 だいたい、戦後当初はそこいらで雑魚寝という人も多かった。

 その中に含まれている紗子としては、家を持っていて、なんと布団まである。それだけでも羨ましくなる。


「ま、とりあえず適当に座ってろ。すぐメシの準備するからよ」

「はぁい。あぁ、ようやく休める……」

「さて、今日は魚の干物が安く買えた。こいつで一杯といくかな」

「なあ、私の分は?」

「ちゃんと白飯も炊くから安心しとけ。俺もシメの茶続け食いたいし」


 からからと笑いながら、台所で少し遅めの夕食の準備。雑事の殆どは押し付けているが、炊事だけは弥太郎が行う。

 食い意地の張っている彼は、基本自分の食べたいものを作りたいのだ。

 これが味もなかなか。散々こき使われている紗子だが、食事の時ばかりは感謝のし通しである。


「やった。女衒って、儲かるんだなぁ。毎日腹いっぱい食えるんだもん」

「悪いことしてんだ。儲からなくてどうするよ」


 敗戦から三年、日本はまだ貧困に喘いでいた。

 だというのに居候でもしっかり食事をとらせてもらえるのは豊かな証拠だ。

 弥太郎も、藤吉も。女を売り買いして、それだけの余裕を得た。

 つまり彼らは何をどう取り繕おうと、クズとしか言いようがなかった。


「娼婦になるんなら、お嬢ちゃんだってたっぷり稼げるぜ?」

「う、それは……」

「はっはっ、まだ気は変わらねえか。いい娼婦になると思うんだがなぁ」


 そして紗子という少女も、ある意味ではクズの一人かもしれない。

 貧困に喘ぎながら、盗みには手を染めるが、売春はしたくない。

 両親が亡くなったから、なんて言い訳にもならない。他人を犠牲にしても自分を汚すのなんて嫌だと言うのは、あんまりにも身勝手だろう。

 紗子はそれをちゃんと自覚しており、しかしまだ年若い少女は、見知らぬ男に抱かれることを肯定できないでいる。


「まあ、考えるだけ考えておきな」

「ん……うん」


 卑怯だと、自分でも思う。

 弥太郎がそこを突いてこないからと、言葉を濁している点も含めて。


 つまり紗子にとって借金で縛られた今の生活は、ひどく曖昧なものだった。


 蓼虫の女衒に嵌められて、こき使われて、不満は当然の如くある。

 けれど決断を委ねてもらえたり、彼に色々と見逃されているのも事実。


 盗みをしないでもお腹いっぱいご飯が食べられて、眠る時は屋根の下で布団の中。

 そのお金は弥太郎が女衒として女を売って稼いだもの。なのに、娼婦を嫌がる癖に、与えられるものだけは享受している。


 曖昧で、どっちつかず。

 現状は肩身が狭くて、同じくらい楽でもあった。

 だからどういう態度でいればいいのかよく分からない。


「おう、米炊けたぞ。量はどうする?」

「大盛りで!」

「はいはい、たんとお食べ」


 けれど逃げようと思えば逃げられたのに留まり続けたのは、結局そういうことだろう。

 哀れだ滑稽だと周囲から見られようが、紗子にとって弥太郎との暮らしは、心苦しくも心地好かったのだ。




 ◆




 そういう奇妙な同居生活はしばらく続いた。

“私を嵌めやがって、死んじまえ”

 悪態をつきながらも逃げ出さずに紗子は働き、そういう少女をいなしながら弥太郎も案外と楽しげだ。

 一緒に暮らしたなら相手のことも多少は詳しくなる。

 蓼虫と揶揄される女衒は、クズだし悪人だが、嫌なヤツではなかった。少なくとも紗子はそう思う。

 つまり多少歪ではあったが、二人はそれなりに上手くやっていた。


 ───俺は、娼婦ってのは、熱帯夜の氷であるべきだと思うね。


 紗子は、小間使いのような仕事しかしていないが、女衒の下にいる。

 つまり今は許されているものの、傍目からの立場は“いずれ娼婦として売られる女”だ。

 周りもそう扱うものだから、いつだったか弥太郎に聞いたことがある。


『なあ、あんたは私がいい娼婦になれるって言うけれど。そもそも、“いい娼婦”ってなに?』


 ヤミ市で盗みを働いていた、貧相な体付きの子供。

 自分では大して美人だとも思わないし、娼婦になっても人気が出るかどうか。

 だいたい、娼婦なんてやることと言ったら男に抱かれるだけ。紗子にとって「いい娼婦」の条件なんて見目麗しいくらいしか浮かばず、今一つぴんとこない。

 そうして何の裏もない純粋な疑問をぶつけてみれば、弥太郎は苦笑しながら答えてくれた。

 娼婦は、熱帯夜の氷であるべきだと。


『心地よさに濡れて溶けても、朝になれば消えてしまう一夜の涼。それがいい娼婦なんだと、俺は思う』


 暑い寝苦しい夜、ほんの少しだけ涼やかにして、朝になれば名残すら残さない。

 美人であるより、豊満な肢体より。

 長い夜を乗り越えられるよう寄り添っては、訪れた朝に未練を見せず優しく消えていく。

 そういう心こそが、いい娼婦の条件だと彼は言う。


『もっとも、そういう女を扱ったことなんざ殆どないけどなぁ』


 なんせ蓼虫だからよ、と少し困ったように付け加える。

 まあ正直よく分からなかったけど。

 それでも、この女衒は娼婦に対して一種の哲学というか、“こだわり”みたいなものを抱いていることくらいは理解できた。


『でも、私は、“いい娼婦”になれるの?』

『才能はあると思うぜ』


 そして、今迄は馬鹿にされていると感じていた褒め言葉も。

 少しだけ。ほんのちょっと、髪の毛一本くらいだけれど。

 なんとなく嬉しいと、そう思えた。




 * * *




「お、嬢ちゃん」

「食べ物、買いに来たんだけど」

「あいかわらず品ぞろえは悪いが適当に見てけ」


 そうやって僅かながらに弥太郎の考えを知って、相変わらず雑事を押し付けられて。

 それでも日々は初めの頃よりも幾分か過ごしやすい。

 若干の信用くらいは得られたのか、今は一人で買い物を任されるようになった。

 おかげでヤミ市の店主ともすっかり馴染みだ。この店は他よりも食べ物を安く売ってくれるし、言葉は荒いが意外と接しやすくて、紗子の行きつけになっている。


『お、泥棒のガキじゃねえか』

『今は蓼虫んとこにいるらしいぜ』

『へぇ、あのクズの。んじゃ、そろそろどっかに売り飛ばされるな』

『いや、まだ手元に置いてるとこ見ると、案外誑し込まれたんじゃねえか?』

『あんな小汚いのにか? ほんと悪趣味だな』


 ……雑音は、いつだって耳を突く。

 どうせすぐ売られるとか、女の体を使って取り入ったとか。心無い者の陰口が聞こえてしまう時だってあった。

 その中には弥太郎への悪評も含まれている。


「嬢ちゃん?」

「あ、ごめん。これと、これと……後は」


 だからといって反論はしない。

 クズという評価に間違いはなく、余計な騒ぎを起こしても迷惑がかかるだけ。ならさっさと買い物を済ませて帰る方が正しい。

 紗子は余計な雑音は無視して、手早く商品を選び、お酒もあったからそれも一つ。

 食い意地が張っていて、酒も好きな弥太郎だ。いい肴で晩酌が出来れば、あの男はご機嫌だろう。


『でもよ、気に入ってたってアイツなら売り飛ばすだろ? なんせ“花”の時も───』


 けれど一瞬、手が止まる。

 酒瓶が想像していたよりも重くて、取り落としそうになってしまった。




 * * *




 弥太郎は元々農村の出身で、学校に通ったこともなく、読み書きも独学。女衒として名は売れ始めたが、実は証文作りを苦手としていた。

 人間は成長するもの。たとえ彼が数年後に文書作成を片手間でやれたとして、昔からそうとは限らない。

 当時の彼は、先行する噂とは裏腹にまだまだ抜けたところもあった。


「いつもありがとうな、藤吉さん」

「なに、気にすることはないさ」


 だから折を見ては、面倒臭いと言いながらも勉強の機会を設けている。

 今日も藤吉を訪ね、性風俗業の基本やら東京近郊の歴史。果ては子供向けのお伽噺についてまで色々と教えてもらった。

 そもそも弥太郎の知識の殆どは、玉ノ井に移ってから学んだもの。特に多方面で知識の深い藤吉は、穏やかな性格も相まって、昔から良き教師役となってくれていた。


「前から思ってたけど、藤吉さんは本当に色んなこと知ってるよな」

「まあ、子供の頃から本の虫でね。勉強自体が好きなんだ」

「げ、俺とは違う人種だ」

「弥太郎さんだってこうやって努力しているじゃないか」

「必要に差し迫られなきゃ絶対やらねえよ、俺の場合」


 いい友人だし、ありがたい先輩だと思う。

 こうやって池袋へ出てきたのも、藤吉と一緒だったという理由が強い。

 もしもいずれ紗子を預けることになるのならば、やはり彼のような───


「近頃はいい顔をするようになったね。紗子さんのおかげかな?」


 まるで心でも読んだかのように、ちょうど脳裏に過った少女の名を挙げるものだから、弥太郎はぎくりとした。

 けれどあからさまに動揺するのも見っとも無いと、誤魔化すようにへらりと笑う。 


「そうかい?」

「ああ。随分と肩の力が抜けたようだ」


“そんなことはない”と否定しないのは藤吉に対して相応の信頼を置いているから。

 彼が言うならそうなのだろうし、実際思い当たる節がないでもない。

 悪態をつくことも多いが、あの真っ直ぐな気性は見ていて微笑ましくもなる。盗みで生計を立てていたのに、よくぞ曲がらず育ったものだ。


「まあ、意外と楽しんではいるかな」

「ならこれからも手元においておくかい?」

「適当なところで売るさ。その時は藤吉さんに任せたい、そう思う程度には気に入っているけどよ」


 とはいえ、いくらなんでも、ずっと世話をしてやる義理はない。

 手元に置いた理由は、そのまま売り飛ばしても抵抗が強いし、“それでも上手くいくような所”に売るのも気が引けた、それだけの話だ。情はあっても流されるほどではない。

 今の暮らしは、紗子が娼婦になる前の研修期間のようなもの。

 おかげで自分から「いい娼婦ってなに?」と聞くくらいには拒否感も薄れている。

 買い手が藤吉ならば悪いようにはしない筈だし、落としどころとしてはそんなに悪くはないと思う。


「いい子だし、望むなら面倒を見ようか。でも、残念と言えば残念だ」

「なにがだ?」

「今の弥太郎さんは、“花”がいた頃と同じくらい寛いで見えたから」


 彼女の名を聞いて狼狽えるには、少しばかり時間が経ち過ぎていた。

 今はもう悲しみも、涙の一滴さえ流れない。それでも少しだけ胸は痛くなる。


『呪いをかけてあげる』

『私を踏み躙って生きていく貴方が』

『どうか報われないまま、孤独を抱えたまま死に絶えますように』


 最後に呪言を遺していった“花”。

 きっと胸を刺した痛みは、心臓に掛けられた呪いのせいだろう。


「……藤吉さんって、時々ひどいよな」

「実は、痛みに苦しむ若者を見るのが好きなんだ」

「まさかの嗜虐趣味発言」


 人の心の奥深くを突いておきながら、さらりと、とんでもないことを言い出しやがる。

 なのに和らいだ表情には、友人より先輩より、もっと老成した心を滲ませていた。


「茶化した訳ではないよ。僕はもういい歳だから、その痛みを味わうことが出来ない。本当は忘れたくなかった筈なのにね」

「だから、代わりに俺が痛がる姿を楽しむって? どっちにしてもひでぇなぁ」

「はは、かもしれない。でも、その痛みを大切にね。きっと、いつか、思い出せなくなる日が来るから」


 優しく窘めてくれるが、弥太郎は頷けなかった。

 もしも思い出せなくなる日が来るというのなら、できれば早く訪れますようにと願ってしまう。


 たぶん、心臓の呪いはいつかこの命を奪うけれど。

 それならせめて痛みなく死んでいきたいものだ。


 藤吉との会話の後は勉強も身が入らず、時間もいい頃合なのでお開きになった。

 外へ出た途端、冷たい風が肌を撫でて、ぶるりと肩を震わせる。

 冬の日が落ちるのは早い。帰路を辿る途中は藍色に沈み込んでいて、街灯もなく、池袋の街並みはまるで廃墟のようだ。


 ああ、しまったな。

 紗子を待たせちまってる、早く帰ってメシ作らないと。

 

 そんなことを考えてしまうのは、見通せない夜の暗がりに不安を覚えたせい?

 思うよりもずっと、あの娘へ情を注いでいる?

 或いは、“花”を思い出したせいで、一人の夜道をいつもより寒く感じのかもしれなくて。

 自然、帰り道は早足になる。自宅へ、ではなく。早く何処かへ帰りたかった。


「お帰り、遅かったね」

「おお、悪いな。今メシの準備を……ん?」


 でも帰りつけるのは、ボロい我が家くらい。

 出迎えがいるのはせめてもの救いか。今では少し放置していても紗子が逃げ出すことはない。言いつけた仕事はちゃんとこなして待っている。

 しかし、なにか違和感が。

 一瞬考えて、すぐに思い当たる。

 お帰りと。そう言ったのは、これが初めてではないだろうか。


「紗子、この匂い」

「あ、気付いた。へへ、晩飯の準備してたんだ。言っても、見よう見まねのみそ汁だけで、飯とかは炊けなかったけど」


 しかも、自分から家事を使用なんて、これもまた初めてだ。

 いったいどういうつもりなのか。驚きに目を丸くしていると、問いを先回りして紗子は答える。


「そんな気分だったんだよ」


 曖昧な、でもどこか大人びたような。

 弥太郎の初めて見る微笑みだった。




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