7-1. 誕生日のお祝いは盛大に(1)
「奥様。スプーンはまず右手で取ったあと左手におき、それから右手を添えるようにして持ちかえるのが、美しい所作でございます」
「あっ、そうでした…… ごめんなさい、アライダさん」
「謝られなくてもけっこうでございます。もし失敗されたときは、そのようにヘドモドなさらず、ニッコリ笑って胸を張ってくださいませ。 『わたくしこそがマナーでしてよ! 』 というノリでございます」
大体はそれで乗り切れますから、と自信たっぷりに保証されたが、本当に大丈夫なのだろうか ――
ワイズデフリン伯爵夫人の招待を受けて以来、シェーナは朝から晩まで、過酷なまでの詰め込み教育を受ける身となった。これまで、公爵夫人としての教養やマナーなどはいつになるかわからぬ結婚式までにゆるゆる仕上げていけば良い、というノリだったのが、急に 『パーティーまで約1ヶ月』 という期限つきになってしまったからである。おかげで日課だった図書館通いも、家出中のノエミ王女と約束していたクッキー作りも後回しだ。
侍女長のアライダによれば、ワイズデフリン伯爵夫人が珍しく同伴者を認めた夜会を開くということは、公爵狙いだったのにアテが外れた女たちを集めての 『公爵の婚約者を値踏みし、あわよくば踏みつけ踏みにじる会』 であるという。それなら平気だ、とシェーナは思う。なにしろ、貧民街で育ったことで物理的ドアマットはじゅうぶんに経験している。なお精神的ドアマットのほうも、ポンコツ聖女だったときにイヤというほど味わっているのだから。耐久力においては、もう無敵といってもいいかもしれない。
だがアライダは 「格の違いを見せつけて差し上げてくださいませ!」 と張り切っていた。
「アライダさん、でも、格ならもともと、彼女たちとわたしって同程度じゃないですかね? 詰め込みの付け焼き刃でそこまでレベルアップするとも思えませんけど」
「いいえ。もと聖女さまともなれば、おのずと光りかがやくものがにじみ出ているものでございます。堂々としていてくださいませ、奥様」 【とにかく、いかにも普通でも 『わたしは特別』 と信じ込んでいただくことが第一歩なのですよ! ふんすっ】
それってタダの痛い人じゃ……? と思わぬでもないシェーナ。だがアライダの熱意に押される形で励んでいるだけとはいえ、レッスン自体をつらいと感じることはあまりなかった。
シェーナに下地がまったくないわけではない。貧民街の出身とはいえ良くも悪くも隣国貴族の血筋だという誇りを失わなかった父に厳しく躾けられ、さらに聖女時代にも、仕事の合間にぼちぼちとではあるが、王太子妃教育を受けていた。教養にしろマナーにしろ、ある程度はできているのだ。だがそれが、形のない武器として他人をなぎ倒せるレベルになるまではまだまだ、というだけで。
「ねえアライダさん、そもそも、マナーって他者に対する思いやりなんですよね。それで人を嘲笑おうとか負かそうとか、そういう精神自体がかなり下品なんじゃ……? 」
「そ う い う か た が た ば か り でございますよ、あの女のパーティーに来るのは。良識はこの際、捨て置いてくださいませ」 【そして彼女らを、きっちり踏みかえしてあげるのです! ふんすっ】
「ひえええ……」
「さあ、では、もう一度テーブルマナーをとおしでまいりましょう。終わりましたら、そろそろお茶会でございますね。息抜きしてくださいませ」 【そもそも王族と普通にお茶している時点でかなり特別なのです! 自覚していただきたいものですねっ】
「やったぁ…… やっと、ノエミちゃんとリーゼロッテ様に会えるぅ」 【○族だから偉い、みたいな考え方って謎だよねえ…… 血が仕事するかしら】
「ふふふ。ようございましたね、奥様。では最後に、もう一度おさらいいたしましょう」 【厳しい訓練の繰り返しが、自信につながるのですよ! 坊っちゃま狙いのアバズレどもを、ギャフンといわせてやるのです! 】
「はい、アライダさん」 【うーん。がんばっても、ギャフンまでは無理かなぁ…… 「おほほほ、まあ仕方ないので認めてあげてよ! 」 程度…… も無理か】
この日は午後いちのレッスンが終われば、ノエミ王女とリーゼロッテが公爵邸に訪ねてきてくれることになっていた。ノエミ王女がシェーナに会いたいとダダをこね、リーゼロッテが 『あくまでプライベートよ。気遣いなんて絶対に要らないから、お願い。ね♡』 とアライダに直接、交渉してくれた結果である。ここ数日でのシェーナのいちばんの楽しみで、おかげでレッスンにも自然と気合いを入れられたのだ。
しかし再開したレッスンは、すぐに止まった。公爵と執事のクライセンがそろってやってきたからだ。公爵は普段どおりのゆったりした佇まいだが、クライセンのほうは若干ピリピリしていた。いつもの茶目っ気が姿を消して、困惑まじりにシェーナをうかがっている。
「やあ、奥さん。とても優雅で美しい所作だね。 …… レッスン中にすまないが、今日のお茶会は延期になったよ」
「ええ!? なにかあったんですか? 」
「ノエミ王女が体調不良だそうだ。今は王宮に戻って療養中だよ」
「そんなぁ…… 水遊びでもして、冷えちゃったんでしょうかね。ノエミちゃん、けっこうオテンバだから」
「さあね。宮廷医は流行病の可能性もあるといっているそうだ。だから、シェーナも外出はしないようにね」 【かわいいな、水遊びとは…… だったら良かったのだがね、まったく。しかしともかく…… やはり、シェーナではあり得ないな】
「 ? わかりました。どっちにしても、ずっとレッスン漬けで外出なんてぜんぜん、ですけどね、わたしは」
「それはなにより。でも無理しないようにね、奥さん。きみはそのままでじゅうぶんに魅力的なのだから」 【ならば、料理長か、マイヤーか…… では、わかりやすすぎるか。そもそも彼らにも動機がないのでは? スパイの可能性も考えて使用人全員を調査、入手経路の洗い出し…… 急にやることが山積みだな。ジグムントさんには少し遅れる旨連絡したほうが良さそうだ】
「そんな、ほめすぎですよ、公爵」 【じゃなくてラズ…… でもなくて。名前呼びとか、そんなの気にしてる場合じゃなくない、今!? 】
シェーナは迷った。どう考えても、公爵の心の声はなんだかキナくさい。しかもシェーナにも、なにか関係があるようだ ―― おそらく公爵は、シェーナには隠しておくつもりらしいけれども。
「公爵、なにかあったんですか? ご様子がヘンな気がするんですけど」
聞いて隠されたら、どんなに気にしまいと思ってもまたヘコんでしまうに違いない…… 黙っておこうか迷った末に思いきって尋ねたシェーナに、公爵はほんのわずかに目を見張ってみせた。しばしの逡巡。表面はまったく変わらないのに、心の声が、シェーナに教えるべきかはぐらかすべきか、猛烈に議論している。
だがついに公爵は、口を開いた。
「ノエミ王女は表向きは胃腸風邪だ …… だが、実際には軽い中毒症状でね。直前に食べていた焼き菓子に入ったジャムから、致死量未満の毒 ―― シアンが検出された」
「致死量未満、ですか? 」
「シアンは毒素ではあるが、周囲のものと結びついて無毒化されやすいんだよ。もしかしたら犯人は致死量以上を入れたつもりかもしれないが、ジャムの糖分でほとんど無毒化されている」 【狙いがノエミ王女でなく公爵家やルーナ王国そのものならば、攻撃の口実を作るためにわざと致死量未満にしたとも考えられるが…… しかし今のフェニカは戦争を起こすには国力不足、ジンナ帝国にとってはルーナはうまみの薄い国だ。可能性は、低いかな…… 】
「なるほど…… ノエミちゃん、毒だなんて…… でも、どうして公爵家が疑われてるんですか?」
「ひとつは、シアン化合物は公爵家所有の工場でも大量生産していること。ムルトフレートゥムのほうで、金の精錬に必要なのでね。そしてもうひとつは…… 毒が入っていたジャムが、公爵家からの贈り物であったことだ」 【あるいは…… もし公爵家の者だとしたら…… 】
「ひえ!? 」
「…… マイヤーが言うには、ジャムはきみのオーダーでラッピングさせて翌日にノエミ王女に届けた、と。ロティが今朝伝えてきたところによると…… そのジャムをノエミ王女はきみとクッキーを作るときに使うと取っておいていたが、きみが忙しくてなかなか時間がとれないので昨日、侍女と一緒に焼き菓子を作るときに使った。今日のお茶会にも、持っていく予定だったかもしれないね ―― で、ジャム入りの焼き菓子を食べたのちに腹痛を訴え倒れた…… ということだそうだ」
わたし知らないですよ、ということばを、シェーナはすんでのところで飲み込んだ。そういえば思い当たることがひとつ、あった。
「いつだったかマイヤーさんがジャムのことを聞いてきたときに、ノエミちゃんとクッキー作るときに持っていこうかな、って言ったかも…… 」
「ああ、少し前の夕食時だね…… とすると、きみがレッスン漬けで動けないのでマイヤーが気を利かせて先に届けたのかな」
「そうかもしれませんね。とりあえず、わたしも容疑者ってことは、納得いきました」
「例のジャムに触れた者はみんな容疑者だ。公爵家だけでなく、あの別荘にいたメイドやノエミ王女の侍女のマクシーネもね。ロティは公爵家もきみも疑う気はないが、状況的に疑わざるを得ないので、箝口令を敷いて秘密裏に捜査を進めさせている、というわけだよ」
「それで外出禁止なんですね、わたしも。ノエミちゃんのお見舞いとか…… 無理ですよね。わたしなんか、きっといちばん怪しまれてそうだし」
「きみが、そんなことをする子ではないのはわかっているよ、シェーナ。早めに解決するから、心配しないで待っておいで」
公爵がふわりとシェーナを抱きよせた。ほのかなシトラスの香り。とっても近いきれいなご尊顔とそのぬくもりにドギマギしたいところではある ―― が、いかんせんその心の声はやはり残念であった。
【新しい婚約者に毒を盛るような子は、婚約破棄されてるときに王太子をわざわざロ○コンに見せかけて大爆笑したりしないだろうし、ね(笑)】
「そうですね…… 深いご理解、感謝します」 【そうだけど…… たしかにそうだけど! なんか、ふにおちない理解のしかただわあ! 】
「どういたしまして」 【やはりいまいち、喜んでいるようには見えないね…… いや、この状況で喜べたら逆にすごいか】
「でも、こんな状況でワイズデフリン夫人の招待は受けられるんですか? 」
「平和でなにごともおこっていないのだから当然だよ、奥さん。急にキャンセルすると何を嗅ぎ付けられるか、わかったものではないからね」
「なるほど」
なにごともない普通の日常を維持するのも、やんごとない貴族においてはなかなか大変なようだ。
レッスンを終えるとシェーナは、お茶会だったはずの時間で図書館に行った。久々にお気に入りのソファに埋もれてルーナ・シー女史の恋愛小説を読んでみたが、いろいろな考えが次々と頭の中をよぎっていくために、あまり集中できなかった。とくに、今回の件でノエミ王女がどれほどショックを受けているかが気になる―― それでもさほどモヤモヤしないのは、おそらく公爵がシェーナを信用すると決めて話してくれたからだろう。一方的に守ってくれようと演技をしたり隠し事をされたりするよりは、そちらのほうがシェーナにはよほど嬉しかった。
※※※
今日はなんて良い日なのかしら。
曇りひとつなく磨かせた鏡に向かって、イザベルはうっとりと微笑みかけた。垂らしたままの長い栗色の髪は艶やかで、しどけなくはだけられた滑らかな白い肌をいっそう引き立てている。髪と同じ栗色の瞳は吸い込むように魅惑的。人を惹き付けずにはおけない表情をたたえて、イザベルを見返している。
イザベル ―― 通称、ワイズデフリン伯爵夫人。彼女がご機嫌なのには2つの理由があった。1つは特注した濃い紫色のドレスが届いたこと。かつては王族のみに許されていた高貴な色は、イザベルの栗色の髪と瞳、白い肌にこれ以上ないほどに映えていた。誕生日パーティーではこの、王女にふさわしいドレスを着て周囲を圧倒してやるのだ ―― 普段イザベルのことを娼婦だと陰口を叩く女たちも、たかだか聖女の印を持っていただけですべてを手に入れた小娘も。
そして2つめは、そのパーティーでのお楽しみの準備が整ったこと。あの小娘も当然イザベルのことは警戒してくるだろうが、直接手をくだすなど愚か者のすることだ、とイザベルは信じている。イザベルが使う駒は、パーティーに招待した未婚の娘たち…… 公爵に憧れてはいたが結婚できるとは考えていなかった低位貴族の令嬢たちにとっても、やすやすと彼を手に入れたもと聖女は許せない存在だろう、というイザベルの読みはあたっていた。公爵ほどではなくとも美しい資産家の貴族紳士を紹介してあげる、と協力を請えば彼女らはみな、笑ってしまうほどあっさりとうなずいたのだ。
ちなみに彼女らが婚活に熱心なのは、早めに決めてしまわないと親が当然のように親だけに都合の良い婚約者を押し付けてくるからである ―― もっともイザベルが紹介できる美しい資産家の紳士諸君もまた、イザベルと知り合いというだけでもはやクズの部類ではあるのだが、そこまではイザベルの知ったことではない。
「失礼します。殿下にお会いしたいという男性が参っておりますが」
ご機嫌に鏡を眺め続けるイザベルに、年取ったメイドが単調に声をかけた。派手な生活の裏で、イザベルの身の回りの世話をしているのはこの陰気なメイドひとりである。ほかはみな、イザベルが 『殿下』 と呼ばれたがるのをコッソリ嘲笑していたのがバレて紹介状もなく解雇されたのだ。
「貴族なの? 」
「使用人の服装ですが、役に立つ話を持ってきているそうです」
「…… いいわ。おとおしして」
現れたのは、穏やかな風貌の男。その異様に暗い目つきに、イザベルは覚えがあった。
「あら、あなたは…… あの人からの使い…… では、なさそうね。何の用なの? 」
「王太子の新しい婚約者が病気になったのは、ご存知でしょうか」
「ええ、もちろん聞いているわ」
「実はあれは、病気ではなく服毒なのですが…… 情報がお入り用ではないでしょうか 」
「まあ」
イザベルの目が肉食獣のように光った。彼女は髪をかきあげて細く長い首をさらし、ドレスのスリットからふくらはぎが見えるように足を組み替えて、続きをうながした。
「お礼ならはずんであげるわ。詳しく聞かせてちょうだい?」




